ビルディング17から朝ぶりに外に出ると、まだ湿気もなく軽やかなテキサスの風が頬を撫でる。小さく伸びをして、深く息を吸う。はこの時期のヒューストンが好きだった。視線の先で、蕾から綻び始めた数多の鮮やかな青い花が、風に任せて散ることも恐れずその少し高い背丈を揺らしている。その側で、青を彩るようなワイルドフラワーの、白や赤の小ぶりな花がまた美しい。普段ならシャトルバスを使う道を、少しばかり歩いて自転車置き場に向かう。ゼノが、君と同じ日本人だという少年のメールが面白かった、と言って、珍しく彼が返信したというメールの内容と勢いについて教えてくれたのは、ちょうど去年の今頃だった。初めてやりとりをする相手の話をしているはずなのに、彼の瞳はひどく懐かしそうで、はきっと彼は幸せな幼少期を過ごしたんだろうと嬉しく思ったことを思い出した。カフェテリアから戻ってきたところの同僚が、こちらに向けて手を振ってくるのに応えながら、は目的地であった自転車置き場に自転車が一つも残っていないことに気付く。この状況は控えめに言っても終わってはいますよ、と。と独り言を言いながら、踵を返して自分の車を目指す。普段なら急ぐ必要もあまりないが、今日は昼時に予定が入っている。まるで不思議の国のアリスのうさぎのように、ちらりと腕のスマートウォッチに目を落としながら、は急足でビルディング3のカフェテリアを目指した。
「おや、」
「ゼノ!いまお昼?」
「いや、終わったところだよ。君はこれからかい?」
「そうなんだ、ちょうどよかった、もう少し時間ある?一緒に来て」
混雑が落ち着いてきたカフェテリアから出ようとしていたゼノを捕まえて、返事を聞くより早くゼノの腕を引く。敵わないな、と苦笑しながらも自身の白衣を掴んで引いていくに従うゼノは、日本人が宇宙飛行士の試験に合格して候補生として来るらしい、という情報を得て嬉々としていたのことを思い出した。
「おお、今日だね、そういえば」
「そうなの ちょっと遅刻」
ガヤガヤと喧騒が鳴り止まないカフェテリアの活気の中、目的の人物を探す女の背中に僅かに視線を落として、ゼノが自身の腕を引くを軽く捕まえて留まらせる。そうしてゼノは自らが先を歩き始めると、腕を離すことを忘れたまま背後をついて来て自身の行動の意図を探ろうとするの怪訝な瞳を振り返った。
「人混みで人を探すなら、高い位置からのほうが効率的だろう」
「確かに。白髪で、年齢は30代半ば、日本人男性よ」
遅れる、と連絡は入れているものの、初対面で待たせてしまう申し訳なさがそれで払拭されるわけではない。は自身の仕事の切り上げ方の下手さに反省しつつ、目の前で人混みを上手に避けて歩く頼もしい男の背中を追いかけた。カフェテリアの南側、壁沿いのテーブル付近でゼノが足を止めると、確認を促すようにを振り返ったので、はゼノの体越しにその存在を見やる。テーブルにまだ湯気が立つコーヒーを置いたまま、その人物は押さえ込んだ好奇心と僅かの緊張を持ってカフェテリアの様相を眺めていた。
「…石神さん?」
「あ、どうも!」
「よかった、遅れてしまってすみません」
途端に流暢な異国の言葉に包まれて、改めて言語というものは面白い、とゼノは思った。特に彼らが話す日本語は、1億以上の話者を持ちながらほとんど日本列島でしか使われていない。世界的に見ても、これほど大きな話者人口を持ちながら一国でほぼ完結している言語は非常に稀だ。それに何より、表音と表意そしてアルファベットを縦横無尽に扱うその文字体系の複雑怪奇さに加え、主語の省略や敬語、情緒表現など、日本人の自然観や倫理観がパッケージ化された局所的な言語ならではの面白さがある。手に持っていたマグカップから一口のコーヒーを啜りながら、ゼノは自身をこの場に連れて来た女の後ろ姿を眺めて、好奇心を刺激する見知らぬ言語の音に耳を澄ませた。
「宇宙食システム研究所に在籍しているです、よろしくお願いします」
「初めまして、宇宙飛行士候補生の石神百夜です!いやあ、同じ日本人に会えて嬉しい…と、こちらの方は?」
ちらりと百夜の視線がの背後に流れる。はその視線を追うように振り返って、突如脚光を浴びたことに気付いて首を傾げたゼノを改めて丁寧に眺めた。ポロシャツにジーンズやチノパンなどのカジュアルな服装をよれた白衣で覆うスタイルが目立つ中、まっさらな白衣に糊のきいたシャツ、きっちりと締められたネクタイは、入局した時から変わらない彼のトレードマークとすら呼べるものだった。2年ほど経って入局当時より随分こなれた雰囲気を醸し出している目の前の科学者に、何だか誇らしい気持ちになる。
「彼はゼノ。今ではわたしが尊敬している最も優秀な科学者の一人で、入局時にわたしがメンターを務めた…まあ、分かりやすくいうと後輩ですかね…」
「あなたも若いでしょうにメンターなんて優秀ですね…」
「ああ…そういう訳ではなく、人事的に、入局年齢が同じ相手の方が勝手が分かって良いだろうってことで。たまたま彼の時はそんな職員がいたんで、特例みたいなものですね」
特に何の手も焼かせてもらえず、むしろ手助けしてもらうことも多い、同期のような関係といったほうが近いかもしれない。ゼノが自身の入局翌年に入ってきて、今日のように少々ぎこちない他人行儀の挨拶を交わした日のことが、ひどく懐かしく思える。わずか十歳で大学に入ったという神童は、身構えていたほど偏屈でも気難しくもなかったし、己の才を鼻にかけて他人を見下すような傲慢さもなかった。むしろ、食後のデザート選びで真剣に悩むような可愛げさえ持ち合わせていた。難解な軌道計算を解く時と同じ視線でメニューを見つめる彼を見て、どんな怪物が来るのかと怯えていた私はようやく、彼の前で普段通りに笑えるようになっていったのだ。
「、すまないがそろそろ英語で話してくれないか」
「ああ、ごめん、今石神さんに…あ、呼び方、石神さんで良いですか?」
「百夜で構いませんよ」
「じゃあ百夜で。わたしのこともと呼んでください」
「わかりました!」
「では改めて。百夜、こちらわたしの”後輩”の科学者のゼノ。ゼノ、こちら今月から訓練を始めるアスキャンの百夜」
アスキャンというのは、この機関でよく使われる宇宙飛行士候補生の略称だ。お会いできて光栄です、そういって互いに軽い握手を交わす二人の間で、は何やら大仕事をやり終えたような気分になった。この縁が今後どうなるかは分からないが、顔見知りはきっと多い方が良いだろう。二人の短い会話のやりとりを見届けて、は、それでは、とゼノを解放し百夜との1on1を行うためにテーブル席のひとつに腰を下ろそうとした。しかし、百夜のスマートフォンが鳴って、彼が短い謝罪と共に離席したことで、再びゼノとの時間が生まれる。手にしたマグから優雅にコーヒーを啜りながら、知らない単語を覚えようとちらりとこちらを見遣る彼の視線が痛い。
「コウハイ?」
「………。」
Bright steps.
02.14.26