「この環境制御は、二重、三重の冗長性を持たせて設計されている。しかし、それは安心しろという意味ではないよ。最後の一つが壊れるまでに"君たちが"解決策を見つけろ、というプレッシャーだと肝に銘じてくれ」
NASAの教官が、レーザーポインターで投影された図面を指しながら宇宙航行における判断の重要性について候補生に講義する声が、外光を一切遮断した灰色の部屋に響く。息継ぎや言葉の合間に、僅かの空調の音がする以外は、ノートにペンを走らせたり、キーボードを叩く音だけが、海底に潜む生き物の零す音のように鳴っている。一定の湿度と温度に保たれた室内の空気には慣れたつもりだったのに、とはその窮屈さから逃れるように音もなく深い息を吐いて手元のコーヒーを眺めた。アポロ計画以来ずっと、「ヒューストン、問題が発生した」という声を受け止めてきたNASAの心臓部である建物の一角で、宇宙飛行士候補生たちは連日座学を受けている。この座学の合間には隣接する巨大プールでの脱出訓練や、カプセル内での緊急事態発生時の対応訓練、そしてのちに軍の手伝いを受けて行うSERE訓練のための遠征が控えている。これから先、旅立ちまでの間の数年間を、彼らはミッションの成功と無事の帰還のための準備に文字通り全投入することになる。部屋の最後列の隅で、そんな候補生らの背中を見つめていると、改めてここには目的のない人間はいないことを思い出す。能力があったって、志がなければ居られない場所。志があったって、能力を身につけられなければ居られない場所。慣れたように朗々と続く教官の声を割って、不意に講義室の後方のドアががちゃりと音を立てる。全員が振り返るのと同時に、普段聞くことのない軍靴が床を叩く硬い音が鳴った。涼しい顔で室内に足を踏み入れるフライトスーツを身に纏った男の、美しいバターブロンドの髪がその足取りに合わせて柔らかく揺れる。はまるで予期せぬ火花のようだと思いながら、自身に向く数多の視線すらまるで意に介さない彼のその姿を眺めていた。彼が来ることはわかっていたのに、目の前に現れるたびに、初めて流れ星を見た時のような喜びが胸に宿る。
「よう」
「なんで隣 他空いてる…」
「うるせえな どこでもいいだろ」
乱暴な言葉と相反してその気心知れたような声音は柔らかい。上品なシェリーの双眸を細めて、スタンリーは声もなく笑った。もう慣れてしまった煙草の香りが、いつだって一定を保つ空調の窮屈な空気を吸うたびに、肺を満たしていく。すでに何事もなかったかのように続く教官の講義の声を聴きながら、は自らの視線が迷子にならないように、講義のために持ってきた糧食に視線を落とす。几帳面に纏められているそれらは、今後訓練生の彼らが、そしてスタンリーのような軍人らが困難に直面した際に命を繋ぎうる糧だ。高カロリーかつ極めてコンパクトであること。迅速に血肉となり、場所を選ばず摂取できること。それが糧食の定義である。だが、その必達要件だけを満たすことは、このくらいでもう良いだろう、と言っているのと同じだ、とは思っていた。規定のルールで想像されるものだけを出せば良いなら、誰にだってできる。その想像の境界を今より少しでも外に押し広げること。それができて初めて、科学者として、この領域の専門家として、やっと一つ仕事をしたことになるのではないか。持ってきたコーヒーに静かに口をつけながら、は隣に座った男と初めて出会った時にも同じことを言った気がする、と相変わらず隙のないその男の横顔を盗み見た。スタンリーと初めて出会ったのは、ゼノのメンターを務め始めてすぐの頃だ。自分が納得する糧食の研究開発のためには、データだけでなく実際の感想が欲しい、それも、宇宙飛行士だけではなくてより多角的に、忌憚のない生の声が欲しい。週次で行っていた1on1で零したわたしの願いを聞いて、叶えられる人がいる、とゼノが紹介してくれたのが彼の幼馴染であるスタンリー・スナイダーだった。
「おい、呼ばれてんぜ、"ドクター"」
「え」
この空間内で比較すれば最も屈強な男が、そっと肘でを小突く。は耳馴染みの良い声にはっとして、教卓へと視線を向ける。すると、そこに立っている教官がもう一度丁寧に、宇宙食についてDr.、お願いできますか、と声をかけた。もはや見慣れた顔ぶれの候補生たちの視線も相まって、いたたまれない。は一度軽く咳払いをしたのち、席から立ち上がる。それから持ってきた糧食を持つために半身を席の方に戻すと、同時に手の甲でスタンリーが机の上の糧食を僅かにの方に滑らせる。はそれを受け取って小さく、ありがとう、というと、今度こそ部屋の最前列である机へと向かう。誰の声もしない、低い唸り声のような空調のホワイトノイズだけが広がる空間を、乾いたヒールの音が征服していく。教卓代わりの長机の前で室内を振り返ると、百夜が緊張をほぐすような人好きのする笑みを浮かべてこちらを見ていた。彼の前職は大学講師だというから、きっとその自分自身の経験から、この場でどういうリアクションがあればやりやすいのかを理解しているに違いない。百夜に一つ笑みを返して、は自身の請け負った役割である宇宙食ならびに非常用糧食についての知識の提供に取り掛かるためにスクリーンにグラフや数値を映した。
「我々の研究所、SFSLの、皆さんに対する最大の任務は、単に美味しい食事を作ることではなく、宇宙空間という極限環境でいかに心身の健康を維持し、廃棄物を最小限に抑えるかの解を導き出すこと」
全員の視線がスクリーン上のグラフに注がれる中、は毎日自分が何のために働くのかをこんなに体感できることはあまりないなと思いながら、少し前から準備していた内容を脳内で手際よく整理して誦んじる。
「とっくにご存知だとは思うけど、宇宙において食べるという行為は、残念ながら単なる楽しみではありません。無重力環境では、人間の筋肉や骨は驚くべき速度で分解されていく。それを食い止める唯一の手段は、適切な負荷運動と、我々が設計したいかなるメニューをも”完食”すること。もしストレスで食欲が落ちたからと地上と同じ気分で一口残せば、そのせいで皆さんのパフォーマンスは数%低下する。…これはミッションに対するリスク管理の欠如だと見なされるシビアな問題よ」
スライドに映される情報を書き留める間を僅かに与えながら、は手元に置かれたミネラルウォーターのボトルを開ける。僅かに水を喉に流し込むと、入局して間もない頃に受けた講義で繰り返し強調された過去の失敗とそこからの教訓が脳裏を掠めた。ボトルのキャップを閉め、次のスライドをスクリーンに移す。代謝の変容とパフォーマンスについて、メニューの決め方と個々人に合わせた献立のボーナスコンテナについて。次々に、そして淡々と、容赦無く知識を押し込んでいくの声は一音たりとも揺らがない。最後のスライドを終えて要約された内容が改めて映される中で、はふと室内の最も遠い場所から自身を見守る琥珀色の瞳に出会う。その双眸は、の瞳を捉えると、薄暗い室内でスクリーンの光を受けながらどこか酷く満足げに細められた。こうして探す間もなく与えられる視線を、今まで何度見つけてきただろうか。はスタンリーの視線にほんの僅かに柔く目を細めて、もう一度候補生らに向き直った。味に慣れてもらうために持ってきたサバイバル用の糧食を配るよう、端に座る候補生に渡す。最後に、最も大切なことを伝えなければならない。
「候補生の皆さん、最後に改めて…何らかの非常事態に陥り、救助を待つ数日間の話をします。極限状態において、貴方たちの最大の敵は飢えではなく、残念ながらそれによって引き起こされる判断ミスです」
宇宙食について、糧食について、そうしてそれを通して届けたい願いと想いを、少しでもいいから目の前の候補生たちに受け取って欲しい、とは思った。
「脳を飢えさせないこと。冷静な思考を維持するために、どんな状況であってもこのパウチを開けること。それが、生還というミッションの第一歩になります。残念ながらこのサバイバル糧食はまだ美味しくはないんだけど…皆さんが極限状態に陥った時、その命と気力を支えられるよう我々も皆さんと並走して努力を重ねる所存です」
そう言って自身の担当分野の講義を丁寧に終えたは、教卓用のテーブルに向かった際の静けさを思い出せないほど賑やかな拍手の中で自席に向かう。入れ違いで、次に訓練について語る予定の男の、僅かに苦く柔らかな煙草の香りが掠めていく。自身の仕事を終えた安堵と共に席につき、冷めたコーヒーを口に含んだだったが、途端、自らの作った雰囲気を容赦なく壊していく言葉に指先がカップの縁で止まる。スタンリーは僅かに挑戦的に口角を上げ、まるでマッチを投げるようにその視線を候補生に向けた。
「あんたら宇宙飛行士と違って、俺たちにとっちゃ糧食ってのは飯じゃない。どんな泥ん中だろうが、片手が塞がってようが、感覚のねえ指でも歯でも封を切って胃に流し込む弾薬だ。動けなくなる前に体にブチ込む、ただのエネルギーの塊だよ。味なんてもんは二の次だ」
美味い飯として食おうなんざ、めでたいね、とスタンリーは宝石のように美しくも温度のない双眸を細めて候補生を見遣る。そうして外の騒音を一切受け入れない堅牢な室内にたった一つ、情緒や甘えといったものを切り捨てて、「生き残るために何が必要か」という一点のみを鋭利なナイフのように突き立てるバターブロンドの美しい軍人を、はやはり星を追うような心地で眺めた。冬の夜空でオリオンを見つけた時のように、その姿から目を離せない。窓のない講義室の蛍光灯の下で、彼の肩にある特殊部隊を示すパッチだけが、ここが安全なヒューストンであることを否定しているように鈍く光を反射していた。
「先に大事なこと言っとくぜ。結局最後ん最後、生き残れっかどうかは、てめー自身の生きて帰るって意志の強さで決まんだよ」
//Almost fire.
02.15.26