「てかそもそも何でスタンリーほどの人が、前線でなく講義室にいて、アスキャン向けの講義してんの?」
淹れたてのドリップコーヒーの香りが鼻先を擽る。目の前にあるフルーツカップに遠慮なくフォークを突き刺して、向かいの席に座るかつてのメンティーに視線を投げるの手元を、柔らかに光を反射して揺れる白い湯気が漂う。
「それは彼が、死なないための技術において軍で最も高価なリソースだからだよ。NASAは彼を借りるために、相当な予算か、あるいはそれ以上の貸しを国防総省に作っただろうね」
「なるほどね まあ、最近結構でかいプロジェクト多いしなあ」
初夏の風が肌を撫でて吹き抜けると、ライブオークと呼ばれる、横に広く枝を伸ばした大きな樫の木の緑が揺れて香る。優雅なそぶりでコーヒーを持ち上げながら一切の疑問を解消する回答をして、美しく整えられたアイスシルバーの髪の男はその黒曜石の瞳を不遜な様子で細めた。樫の木が作り出す日陰の下でコーヒーを嗜むゼノを、はメロンを口に放り込みながら静かに眺める。最近の彼はどこか僅かに歪だ。最初は、仕事に根を詰めすぎているのかと思っていた。だけど、彼がそうでなかった時など、出会ってから一度だってない。その可能性を排除した後は、悩みがあるのかと思った。だけど、他人に、あるいは自分に打ち明ける気のない心中を吐露させるために領域侵犯をするような傲慢も、幼さも、自分はもう持ち合わせていなかった。それに、何かが変化しているとして、その影響は少なくとも現時点で自分には及んでいないように思われた。今も昔も、ゼノは自分にとって最も信頼を寄せる相手の一人だ。それは彼の科学者としての突出した才があってもなくても、変わらなかっただろう。願わくば、この人が社会の中で笑って生き延びるための緩衝材のひとつであれたなら。彼が入局してきた時から、ずっとそう思って見守ってきた。必要な時には彼の力になる意思があることさえ伝わっていれば、何であっても、今まで通り、彼が選んだ結果を尊重して見守るだけだ。オブシディアンの瞳に馴染む黒いハイネックのインナーが、彼を今まで以上に優秀な科学者として際立たせている。それはまるで、手が届かない何光年も先の星を観測するしかできないような寂しさでもあった。
「ねえゼノ」
「ん?」
「今度ごはん行こうよ」
テーブルに頬杖をついて、はカップの中の葡萄を一粒フォークに刺して僅かの間それを大した関心もなく弄ぶ。離れたところで鴨たちが池に飛び込む水の音がして、途切れない観光客の賑やかな喧騒がカフェテリアに吸い込まれていく。テキサスの乾いた風が、木々の香りをなぞって吹き抜ける。
「…もちろん構わないよ、いつにしようか」
ゼノはコーヒーカップを手のひらの中に抱えたまま、初めて出会った時から、悩むとそれを口に出す代わりに自分と食事に行きたがる一つ上の先輩に柔く目を細める。感情を隠さず、度々揺らいで、それでも真っ直ぐ人に向き合おうとする彼女の性質は、善も悪も苦も楽も知った上でなお彼女がそうあろうとしている結果だ。結局最後には人が好きだ、と言って彼女が笑っていた茹だるような暑い夏の日を思い出す。ゼノ自身を善悪にも正誤にも分類せず、ただずっと、隣で無条件の同席を続けている、誰より愛着を持って自分を後輩と呼ぶ"先輩"。彼女は最後まで己の倫理を手放さず、だから最後まで彼女自身を誤魔化さない。まるで同じ場所で生まれた同胞のようでいて、決して交わらない遥か遠くの銀河で瞬く星のような友人。揺れる木漏れ日の下で、太陽の光を受け優しく細められたゼノのオブシディアンの瞳が星の光を宿したように柔らかく煌めく。
「金曜がいいんだよね…ん〜ちょっと待って」
「ああ」
フォークの先の葡萄を口に含んでコーヒーカップに手を伸ばしながら、はスマートフォンを取り出してカレンダーで直近のスケジュールを確認し始める。の長いまつ毛が肌に影を落として揺れる様を僅かに眺めて、ゼノはそっとテーブルの上に手を伸ばす。え、何このミーティング知らないんだけど、というの声をツアーガイドの声が塗りつぶすと同時に、ゼノの手元でスマートフォンが振動する。見ればそれは幼馴染からの、自身を探しているという連絡のようだった。
「来週の金曜どう?」
「おお、来週ならちょうど大きな会議が終わった後だから僕にとっても都合が良い」
「じゃあ来週で...あれ?苺なくない?」
「はて 最初からなかったのでは?」
「ゼノ?良いのね?その回答で」
全てを見透かして理解していると言わんばかりにゼノが悪戯げに笑う。あとで別なフルーツカップ買ってよ、と、返事に頓着しない声音で苺が消失した事実を受け入れて、は一度大きく伸びをする。候補生らに試食してもらうためのサンプルの宇宙食を詰めた傍の紙袋が、クレープ・マートルの香りの風に微かな音を鳴らす。
「、そういえば講義はどうだった」
「恙無く。ただ、せっかく温めた場の空気をスタンリー先生が瞬間冷却されましたね」
「おお、それは面白いものを見逃したようだ」
コーヒーカップの縁越しに目を細めてを見遣るゼノが僅かに湯気に霞む。つつくフルーツがなくなって、も同じように自身の前にあるコーヒーを口に運んだ。風が吹いて、ツアーの観光客らの声が遠くに流れていく。は講義のあとの、候補生らの自分に対する気遣わしげな視線を思い出す。スタンリーが糧食の味なんて二の次、ただの弾薬、と言い捨てた時、あの空間は確かにひどく凍りついていた。しかし、スタンリーがどんな言葉を吐こうとも、あの生き残る意志の強さこそがベテルギウスのように何より強くわたしの心を惹きつけている。言葉では決して混ざり合わないけれど、魂の根底では同じ火を囲んでいるような感覚を齎す、彼のあの言葉が、は大層愛おしかった。
「ん」
「おお、来たようだね」
樫の木の影がワルツのように揺れて、その下を青いポロシャツを着た候補生らがやってくる。先頭を歩く見覚えのある日本人が、大きく手を振るのを見つけては宇宙食のサンプルを詰めた傍の紙袋を掴んで席を立つ。ヒールで器用に芝生を歩いていく後ろ姿を眺めて、ゼノは残り少ないコーヒーを音もなく喉に流し込む。そうして一つ小さく息をついて、きっと近い将来、自分は彼女を傷付けるだろう、と自身の中の確信をなぞる。は入局時から、最も身近で、最も信頼に足る相手のひとりだ。しかし、勝つか負けるか、支配するかされるか、その力の倫理の上に立つことを決めた自分は、限りある生を等しく丁寧に扱おうとする、競争を前提にしない彼女とは相容れない。できることなら傷つけずにいたかったが、彼女との関係の近さでは、傷つけずに済ませることは絶対に不可能だろう。結果として何が起きるかはほとんど想定できている。そして想定される彼女の、あるいは自らの感情さえも計算に含めた上でなお、自分は彼女をある意味で壊すのだ。彼女を騙すわけではない。裏切るとも思っていない。何があっても同席し見届けてくれるだろうという彼女への最大の信頼が、最大の暴力という結果に繋がるだけだ。だから、自分の選択が彼女にどんな結果を与えるかを誰よりも正確に理解した上でその道を行くことだけが、今の自分に残された最大限の誠実だった。ゼノはパティオの簡素なアルミのテーブルの上に飲み終えたコーヒーカップを置いて、アルミの椅子の背凭れに深く体を沈めた。規定のルールで想像されるものだけを出せば良いなら、誰にだってできる。その想像の境界を今より少しでも外に押し広げること。それができて初めて、科学者として、この領域の専門家として、やっと一つ仕事をしたことになるのではないか。そう言った彼女の美しくも苛烈なプライドと、狂気にも似た志を正しく理解しているのは、きっとこの広大な敷地の中にも自分一人であっただろう。そうして入局した時から、様子を窺いにくるたび何かと世話を焼きたがるくせに焼く世話もなく、結局お互いにコーヒーを飲んで息抜きをして終わることを楽しんでいたの存在は、ずっと密かに自分を支えてくれていた。その善意がこの結果に影響を与えることはなかったが、しかし行使された事実そのものは消えない。大きな樫が風に吹かれて梢を鳴らす。視線の先では、が訓練生らと合流して会話を繰り広げている。ああ、どうか願わくば、また。
「あいつ何してんだ」
「…やあスタン」
「よお」
先ほどまでが座っていた席に、フライトスーツの上半身を脱いで袖を腰に巻き、Tシャツ姿のスタンリーが腰を下ろす。吹き抜ける風にバターブロンドの髪が揺れて、紫煙を攫っていく。風に乗って、離れていても遠くの会話がよく聞こえてくる。
「僕らもいつでも力になるから遠慮なく頼ってくれ」
「ありがとう、嬉しい…あ、この宇宙食Bのサンプルなんだけど、口に運ぶ際に微細な破片が発生しないか、咀嚼中に粉が口の外に漏れないか確認して」
「分かった」
「、失敗し続けても諦めんなよ」
「そうね、我々日本人は忍耐の塊ですから」
スタンリーが呼吸するたび、咥えた煙草の先が小さく、しかし煌々と燃える。候補生らをひどく大切なものを見る瞳で見詰め芝生の上で笑っているを眺めながら、ゼノはスタンリーが持ってきた新たなコーヒーを口に運んだ。
「…フフ、気になるかい、スタン?最近の彼女のお気に入りだよ あのアスキャンのおかげで随分と楽しそうだ」
「……へえ。そりゃあ、めでたいね」
Unlock.
02.19.26