「チームにリーダーは一人だ。お前がリーダーなら、例え間違っていても命令しろ。従う側は、その命令がクソでも遂行しろ。最終意思決定者がいねえ、それがこのチームの最大の欠陥だ」
訓練後のデブリーフィングはひたすらに居心地の悪い静寂を孕んでいた。職業柄、何度も何度も見てきたような疲労を滲ませた顔と、想定外の負荷に対する絶望や結果に対する自信の喪失が、会議室を幾度となく満たしては波のように空気を揺らしている。確かに宇宙飛行士の試験に挑み、狭き門を潜り抜けることは並大抵の努力ではできないことだろう。その努力を弛まず積み、結果を出したことは評価に値する。しかし、ここに至るまでに彼らが経験してきたことは全て「試験」だ。実戦の一つも知らず、命の危機に出くわしたこともおそらくないだろうに、覚悟がある、なんて風情の驕りには辟易する。スタンリーは僅かの苛立ちを眉間に含ませ、言葉もなく気まずそうにする百夜を大した理由もなく一度だけ見遣った。
「非常時に覚悟なんて決めてっと死ぬぜ、覚悟なんてなくても息すんように一瞬でできるまで繰り返せ」
訓練についての最後のフィードバックを行うと、スタンリーは目の前にいる候補生達に何らの未練も興味も失ってその会議室を後にした。ビルディング30の、薄暗く古い廊下を非常階段に向かって歩く自身の足音に、空調の低い唸り音が重なって、夜の心地良い静寂を際立たせている。胸元のポケットから煙草を取り出しながら、古い防火用扉を肘で押して開ける。ジー、という低い電子音が鳴って、扉はスタンリーを飲み込むと再び沈黙した。扉一枚隔てた先に出た瞬間、水に浸した綿のように湿気を含んで重い空気が肺を満たす。じわりと肌に絡みつく生温い闇が、フライトスーツの隙間から潜り込む。スタンリーはフライトスーツの上半身を脱いで袖を腰で結ぶと、一つ大きく息を吐いて非常階段の鉄の手摺りに寄りかかった。夜だというのに日中の熱を逃がしきれない手摺りが、手のひらに生温く張り付く。煙草を咥えて鬱陶しい空気を払うように髪を掻き上げると、地上に散らばるオレンジ色の人工的な光から何とか逃れた、霞んだ星が弱々しく瞬いていた。湿った闇の中で煙草に火をつけて、深く息を吸う。ようやく一呼吸できた感覚を得ると、スタンリーはフライトスーツのポケットからスマートフォンを取り出して、カメラロールの奥底に眠っている数年前の映像を無音のまま再生した。
「……。」
映像の中で飛んでいく一機の戦闘機と、絵の具をぶちまけたような青い空が、かつての自身の記憶をなぞって僅かに心を波立たせる。短い動画を最後まで見終えると、スタンリーは緩く紫煙を伸ばす煙草を指の合間に挟んで、肺に浸した煙を吐き出した。何年も付き合いのある身近な人間の変化は、もはや子供の隠し事のように分かりやすい。幼馴染であるゼノは最近になって、己が進む道を明確に選択したようだった。ゼノの"先輩"のは、その変化の予兆に気付きながらも受け入れるつもりでいたようだが、しかし、彼女の様子はまるで墜落する戦闘機の計器のように不穏であった。ちりちりと小さく、しかし煌々と赤く燃える火が、僅かに吹く夜風に合わせて明滅する。音もなく、煙草の先から灰が落ちる。スタンリーは僅かに空を仰いで深呼吸をすると、咥えていた煙草を携帯灰皿に押し込んだ。そうして流れるように新しい煙草を咥えて、ライターを掴む。自身の喫煙習慣を、たった一つの最悪のバグ、と呼んで、いつも少し離れたところで心配しているのか呆れているのか分からないような表情をしていたを思い出す。
「、俺が何かやらかしたならすまん!頼む、泣かないでくれ」
不意に耳に飛び込んできた音に、スタンリーは一瞬で動きを止めて己の気配を消す。ラッチだ、と瞬時に自身の真横にある、先ほど通り抜けた防火扉に目をやると、スタンリーの予想通りにラッチと呼ばれる掛け金が完全にかかっていなかった。さすが、1960年代に建てられただけある、と経年劣化に内心悪態を吐きながら、スタンリーはその扉を閉めるか否か僅かに逡巡したのち、閉めることをやめた。静かにポケットにライターを仕舞う。遥か下の地面では、相も変わらず夏の虫が幾重にもなって金属音に近い求愛のノイズを奏でている。空には少しも位置を変えたように見えない、湿った空気と人工光によって霞んだ弱々しい星が瞬いている。扉の隙間から漏れてくる女の震える声が、扉を挟んでいるとは思えないほどの近さでスタンリーの耳元を掠めていった。
「違うの、ごめんなさい、百夜のせいじゃなくて」
長い沈黙の後、ゼノが変わってしまった、と一言だけを吐息のように小さく溢すの声は、たったひとつ、宇宙に放り出されたように目立って響いた。恐ろしいほど静かな廊下で生まれる言葉を、涙が漣のように縁取っていく。
「守れなかった 少しもよ」
声が揺れるたび、涙の落ちる音さえ聞こえそうな静寂が闇を打つ。スタンリーは、他の男の前で泣く見知った女の声がかつて聞いたことのないほど孤独な音をしていると気が付いた。柔い夜風では払えない、テキサスの強い湿気を含んだ空気が肌に纏わり付く。鼻先を、まだ新しい煙草の乾いた土と草の匂いが掠める。咥えたままの煙草だけが、乾いた味で僅かに不快感を誤魔化してくれる。ゼノの生まれ持っての真っ直ぐさや明るさ、人としての在り方を守りたかった、と、辛うじて言葉になった音を紡ぐの声を聞きながら、スタンリーはゆるくひとつ瞬きをした。
「わたしもゼノもきっと同じ理想を持っていた 世界がより良くなることを、停滞しないことを、人類が前に進むことを願っていた」
「うん」
「でも 彼は科学の進歩を最上位の価値に置いた 選良思想を土台にして ………… まるで啓蒙専制君主ね」
の声に短く乾いた笑いが滲む。夜の湿った闇の中でその音を丁寧に拾って、スタンリーは瞳を細める。は初めて出会った時からずっと、人間の可能性を放棄することに等しい、といって、「もうこれでいい」という科学の停滞に繋がる行為や思想を嫌悪していた。自分から見た彼女はいつだって、全力を尽くさず既成概念に甘んじることで、救えるはずの未来や誰かを見捨てることを、不誠実だと言うような科学者だった。どれだけ泣いても腐っても科学者だ。世界は自分の思想通りでは回らないことも、ゼノの合理性のほうがあるいは現実的であることも、彼女は全て分かっているはずだ。
「一握りの才ある人間が 他者を支配し導くことが、人類にとって最も正しい在り方だという思想は 受け入れられない」
たとえそれが、ゼノの求める美しき科学への純粋な探究心のためだとしても。地上で煩く鳴いていた虫の音が止んだ、その静寂の谷に女の声が落ちる。涙に濡れる女の声は揺れて細いが、強い意志が聞き取れる。それはまるで肩を並べる味方も、安全に切り抜ける方法も失った最も孤独な場所でなお、自らの生存を諦めない本能のようだった。スタンリーは微かに口角をあげて、夜の闇を拾ってなお美しいそのトパーズの双眸を伏せる。
「失敗するかもしれない 迷うかもしれない 間違うかもしれない それでも その人が選んだ、という事実そのものには大きな価値がある わたしは そう信じたいから」
「…」
「人間が自ら選ぶことの、選択の、価値を奪う支配という思想を わたしは正しいとは思わない」
ぱたり、ぱたりと大粒の涙が幾度もリノリウムの床に落ちて散る音がする。スタンリーは、そっと瞼を開けてその視線を空へと投げた。科学が力であり、その力が人を勝たせることを、ゼノとは同じだけ正確に知っていた。それでも彼女だけは、その力で人の選択を奪うことを拒んでいる。そしてその理想が、こうしていま、何も守れなかったと言う彼女自身を容赦なく裁いていた。でも、と続けて、の声は再び、泳ぎ方を知らないように涙の海に呑まれていく。
「ゼノの選択を 見守りたい」
「…そうか」
「大事な友人が 必死に悩んだり 戦った先にその道を選び取ったなら 彼のその意志は 自由で 誰にも否定できないものよ」
「うん」
「このさき彼という人間がどんな選択をしても わたしは友人であり続けたい 疲れたら休めるように 彼が捨てたものを持っていたい」
熱を持ってひどく掠れた音を不規則に涙が奪う。の声は、もう助けはない、と知りながら、その存在を示し続ける信号のようだった。人工の灯りに負けて何の感動も生まない湿気に滲んだ星空と、ただひたすらに纏わりついて離れない湿った空気の中で、ゼノがかつて言っていた言葉が蘇る。彼女の特異なる点は、科学者としての苛烈なプライドと、愛するものを守るための、極めてストレートで高潔な献身が一つの体に収まっていること。ゼノは相反するものとしてそれを見ていた。しかし、今目の前にあるものの根はすべて同じだ。既成概念に甘んじた停滞を許さないのは科学者としての誠実さ。人が自ら選ぶことを守ろうとするのは、人間への誠実さだ。彼女にとっては、科学を前に進めようとする苛烈さも、人間が好きだという愛情も、どちらも人間が人間らしく生きることに向けられている。合理性もなければ効率的でもない。とんでもない女だ、と思った。いかに筋が通っていたって、この世界でそれを選び続けることは楽なことではない。何度も踏み躙られ、何度も捨てられてきたはずだ。
「…百夜 ほんとはね」
「ん?」
「わたしは結局 何もできなかったんだって 分かってるの 本当は」
間違っているのかもしれない、と涙に混じって乾いた小さな笑いが滲む。の声は、酷く自虐的な冷たさに浸されていた。それはスタンリーがと関わってきた数年の中で、一度だって耳にしたことのない、温度のない音だった。わたしが今まで大切にしてきた道では何一つ、思うような結果に繋がらないのかもしれない、と言う女は、必要のない暴力を彼女自身に振るおうとしている。スタンリーは僅かに眉間に皺を寄せて、火がつけられないままの煙草のフィルターを噛んだ。選んだ時点で最善だと思ったなら、それは間違いじゃない。世界がそれでは回らないことも、結局力が勝つという現実も知っていてなお、それを知らしめてくる世界の中で選択し続けてきた結果がこれなら、今起きていることは敗北でも弱さでもない。
「わたしが信じてきたものでは わたしが大切にしてきたものでは 結局何一つ 大事なものは守れないのかもしれない」
「…」
「わたしには何も打つ手がないことなんて、この世界にたくさんあるってもうとっくに とっくに 分かってたのに」
もういやだ、と言って、は再び涙で声を潰す。
「こんなに辛いならもう辞めたい 百夜、わたしもう、帰りたいよ」
ああ、きっとこの女は、何度無力に打ちのめされても楽な道に手を伸ばさない。誤魔化さない。ついに涙に呑まれたを、スタンリーはどうしてか酷く愛おしいと思った。辞めたい、帰りたい、と言いながら、その声は逃げる気配を少しも持たない。それは肉体的な生存ではなく、自身の人間としての在り方を死守しようとする彼女の生存本能の発露のようだった。どれだけ孤独でも、どれだけ困難であっても、きっと何度選択する機会が来ても、はその生き方を手放さないだろう。彼女は世界を良くするような大きな力を持った人間ではない。誰かを正しく導く存在でもない。それでも、自分の信じる道を丁寧に歩み続けるが故に、替えの効かない一人の人間として立ち続けている。彼女自身が、彼女の望む、生き残るかどうか以前に生き方を選び続ける人間であろうとしている。
「逃げたっていーんじゃねーか 立ち止まったっていーんじゃねーか」
接続された巨大な冷却装置が唸りを上げ、怪物のように闇に鎮座している古い建物の中から、に声をあげて泣かせるほどの百夜の言葉が、夏の夜に滲み出す。
「君はよくやってる」
エリントンフィールドから飛び立った、湿った雲の向こう側を通り過ぎるジェットエンジンの残響が、重い音を引いて鳴っている。スタンリーは相も変わらず昼の熱を持って生温い非常階段の鉄の手摺りから身を離した。今日、あの候補生より先に出会ったのが自分であっても、は同じように泣いただろうか。一度空を仰ぎながら深く息を吸って、静かに闇に溶かすように吐く。自分の肺が吐き出す熱さえ、この蒸し暑い空気の中に一瞬で溶けて消えていく。解が分かりきった問いに音もなく自嘲しながら、スタンリーは防火扉にそっと指先を伸ばした。かちりとほんのわずかの音を立ててラッチが閉まる。きっと泣いている彼女には聞く余裕などないだろうが、それを一番近くで見ている男には聞こえただろう。お前が今、彼女の隣にいる責任を忘れるな。火を付けられなかったまま噛み潰された煙草を携帯灰皿に押し込んで、非常階段を降りながら新しい煙草に火を付ける。蒸して不快に湿った夏の夜の中で、小さく、しかし誘導灯のように確かに煌々と燃える煙草を咥えたまま、スタンリーは金の糸を編んだように美しい睫毛を揺らして一つゆっくりと瞬きをした。昔、一機の戦闘機を見送って泣いた女の瞳が酷く恋しい。
Aphelion.
02.23.26