「俺 猛獣に狙われてるかもしれねえ」
「さすがにそれは治安悪すぎわろたなんですが」
パティオの端のテーブルに座っていたは、世界観どうなってる?と言って手に持ったドリンクカップのストローを咥えると、目の前にやってきた候補生を見上げた。昼時の人々の喧騒が、寄せては返す波のようにとめどなくカフェテリアの出入り口から流れてくる。約束からやや遅れてやってきた百夜はランチの乗ったトレイをテーブルに置いて席に着くと、ひとまず遅れてすまん、と人好きのする笑顔でひとつ謝罪した。晩夏でも強い日差しが木々の隙間から降り注ぐ中、休むことのない送風機がヒューストンの夏の茹だるような暑さを僅かに押しやってくれる。左右に首を振る送風機が自分たちのテーブルを通り過ぎた頃、で結局何の話?とは笑いを何とか噛み殺しながら、テーブルに頬杖をついて些か様子のおかしい目の前の男を見遣った。
「ん?あー、いや……何となくそういう気がするっていうか…まあ、なんだ…」
「何か気にしてるなら日本語でもいいよ」
言葉を濁す百夜は一つ頬を掻いて視線を逸らす。猛獣発言は咄嗟に口をついて出た冗談混じりの軽口だったが、それが何かは、何語だろうが言えるわけがない。先ほどカフェテリア内で見かけた、自意識過剰でなければおそらく己にやや容赦のない外部教官を思い出す。あの晩、非常階段に繋がる防火扉の先にいた人物は彼で間違いない。何かとてつもなく厄介なものに巻き込まれた気がする、と百夜は天を仰いだ。青いポロシャツの上で、夏の日差しを受けてプラチナの髪が揺れる。はただ自分たちのテーブルの上にだけ生き残った沈黙とともに百夜のその奇妙な様子を眺めていたが、風が吹いて木陰が揺れると同時に堪えきれない笑いを手放してひとつ大きく笑った。軽やかな笑いに合わせて長い睫毛が揺れて、瞼を彩る上品なアンバーのアイシャドウとグリッターが光を弾いてきらりきらりと煌めく。夏の日差しの中に生まれたあまりに見事な笑顔に百夜は一瞬呆気に取られた。そうして釣られて笑う。
「何はともあれ 元気そうで安心したぜ」
「…その節は大変お世話になりました」
「いやあ、俺は何もしてねーよ その後ゼノたちとはどうなった?」
「おかげさまで変わりなく。…いや、どうかな、互いに愛のこもった毒を差し向ける頻度が増えたかも」
「ぶはは!」
飲んでいたドリンクで咽せそうになりながら豪快に笑う百夜から、安堵を湛えた双眸が向けられるのを、は丁寧に受け取ってもう一度笑った。周囲ではアロハシャツを着たベテランエンジニアたちが、昨夜のミッションコントロールのデータを肴に談笑している。そういえば来週の高高度生理訓練さ、と言ってフォークでサラダを混ぜながらが百夜を見ると、喧騒の波が寄せる入江のようなカフェテリアの出入り口付近で、不意に観光客の集団が騒めく気配がした。一瞬視線をやって状況を理解すると、ああ、とは新鮮さの欠片もない反応を落とす。サラダボウルの中のフルーツトマトをフォークで的確に捕まえるその指先では、鮮やかなオレンジのネイルラッカーが夏らしさを謳っている。会話を再開しようと視線を百夜に戻すと、その顔には、状況をまだ把握しきれていない、と書いてあるようだった。は捕まえたフルーツトマトを口に運んで、再び頬杖をつきながら、あれ、スタンリー、とだけ言った。
「え?!」
「え?知らないの?観光客の視線すごいんだから」
もはや歩く皆既日食と呼んだって差し支えない。そう言ってはもう一度、騒めきのほうへ視線を投げる。それは色んな感情が絡んで混ざったような表情で、不思議と尾を引いて余韻を残した。
「確かにあいつとんでもねー男前だしな そりゃそーなるか」
「そうなんですよ わたしなんてゼノ見慣れて耐性あるのにそれでも無理だったからね」
「え??」
百夜がうっかり聞き返すと、は即座に沈黙を身に纏ってサラダに視線を落とす。長い睫毛が何事もなかったかのように瞬きに寄り添って揺れて、アンバーのシャドウが夏の光を反射して宝石のように煌めいている。そっか、と言うどこか慈愛に満ちた百夜の声を耳にしてが安堵すると同時に、今度は百夜が視線を彷徨わせて僅かに落ち着きをなくす。が視線をあげると、観光客の騒めきは知らぬ間に自分らのテーブル付近を取り巻いていた。
「おお、 申し訳ないんだが」
「席、分けてくんね」
オブシディアンの瞳とトパーズの瞳が一斉に注がれる。真夏の日差しが揺れて、彼らの双眸を一際美しく仕立て上げる。は周囲を見渡してパティオに空席がないことを確認したのち、同席者の意見も伺おうとちらりと百夜を見遣った。しかし、視線の先の百夜が光のような速度で、絶対に自分を見る必要がなかったことを無言のうちに言い返してくる。仕方ない、いいよ、と了承して、はおそらくいまこの敷地内で誰より視線を集める二人のために一度席を立った。観光客の騒めきが煩わしい。
「そっちに座っときな しばらく風向き変わんねえ」
「了解」
「フフ そこまで気遣うならいっそ吸わないでいたらいいと思うがね」
「うるせえよ」
軽口を叩き合う二人をよそに、席を入れ替えてが百夜の隣に座ると、自然と真向かいのスタンリーの双眸と出会う。晩夏の日差しを受けて、を真っ直ぐに見据えるその瞳はこの世で一番美しい宝石のように光を弾いていた。ここ最近のトパーズの双眸から向けられる視線は、いつかエリントンフィールドで見た、戦闘機を丁寧に点検するクルー・チーフの視線に似ている。は自身を観察する視線を許したまま、静かに一つ瞬きをして、ストローを咥えてオレンジジュースを喉に流し込む。最近ゼノとの間でダイナミクスの変化があったからなのか、彼がそうする明確な理由は分からないが、その視線が嫌だったことは不思議と一度もない。スタンリーは以前よりは長く、しかし一般的なコミュニケーションでいえば短い間、そのクルー・チーフのような視線で何かを探したあと、陽を受けてガラスのように美しい睫毛を揺らして僅かに柔く双眸を細めた。
「飯、食いな」
「分かってる 急かさないで」
「急かしてねえよ」
「スタンはもっと食事を味わって食べたほうがいいな」
「癖なんでね 職業上の」
「お前らほんと仲良いな…」
絶妙な間合いでじゃれ合うパティオの端テーブルの状況を、百夜はどこか少し嬉しそうに眺めていた。しかし、スタンリーの琥珀色の視線が無造作に向けられた途端、僅かに緊張して視線を彷徨わせる。は隣の席からそれに気が付くと、ああ、と短く声を漏らして、百夜ごめん、と日本語で続けて眉尻を下げた。
「ごめん せっかく気楽なランチのはずだったのに しかも教官と一緒なんて気が利かなかった」
「いや、それは別にいいんだが…」
「おお、内緒話かい?僕も混ぜてくれ」
「え?」
「……ハイ?」
突然の第三の日本語話者の登場に、四人で取り囲んだテーブルは数秒の間、完璧な無音になった。しかし、かちりとスタンリーが何食わぬ顔で煙草に火をつける音が、すぐにそのテーブルの静寂を割る。その音を聞いた途端、誰にみられているでもないはずの百夜が、まるで処刑を待つ人間のように一瞬その身を硬直させる。ゼノは悪戯気に黒曜石の双眸を細めて、と百夜を眺めている。揺れる木陰から差し込む日差しの下でなお、そのオブシディアンの瞳は深く、しかし確かに煌めいていた。の脳裏に、例の小学生のメールもあって日本語に興味を持った、と言っていたゼノの姿が浮かぶ。しかし、そんなに短期間で、と胸中で反論しかけて、は彼がかつて飛び抜けた神童であった事実を思い出した。この男の嘘みたいに全方位に高いポテンシャルが怖い。不意に真向かいで、く、と喉を微かに鳴らして笑う音がする。
「ゼノくん?」
「何かな?」
「突然他人の母国語を流暢に喋り始めるのやめれる???」
想像だにしなかった事態に一拍遅れた謎の笑いが込み上げつつも、自身の後輩であり、思想を分つ相容れない科学者であり、愛すべき友人でもある男に、はあらん限りの胡乱な視線を差し向けた。対して、ゼノは飄々とした表情で慣れたようにその視線を受け流している。
「おお、すまない、まだ勉強中で喋る機会が欲しくてね」
「これもう一種のプライバシーの侵害でしょ」
「おいゼノいつから日本語勉強してたんだよ すげー喋れんじゃねーか」
「フフ…」
百夜の素直な感嘆とゼノの自慢げな笑いに、は呆れたように一度肩を落とす。そうして一つ溜息をつくと、一応自慢の友人ですからねと言ってその眼差しをそっとゼノに投げた。
in your flow
02.25.26