テキサス・ブルーとあだ名される雲ひとつない突き抜けた快晴の下、はエリントンフィールドのNASA専用区画ゲートを越え、エプロンと呼ばれる駐機場と、格納庫の間を縫って駐車場に向かう。10月に入り湿度が落ち着いても、ヒューストンの気温は依然夏の名残を引き摺って高い。駐車場に車を停めて降りると、途端に強烈な日差しと、格納庫から漏れてくるジェット燃料の匂いがを包んだ。遮るものが何もなく、熱を吸収して陽炎が立つアスファルトをちらりと恨めしく見遣って、格納庫の側面にある歩行者用入り口へと入る。事務エリアでイヤーマフと高視認性ベストを受け取りながら、かつかつとヒールを鳴らしてもうひとつ大きなドアを潜ると、その先は再び籠った暑さと燃料の匂い、工具が金属とぶつかる音で満ちていた。

「お、ドクター、お疲れ」
「お疲れ様、暑いね」

オーバーサイズのシャツの袖を無造作に捲りながら、顔見知りの整備士に挨拶を返すは足を止めない。暑い、ともう一度胸中で呟いて、事務エリアで受け取ったイヤーマフを装着する。巨大な天井の下に閉じ込められた熱気が、湿った油の匂いと共に全身にまとわりつく。全開にされた格納庫の巨大な扉の向こうのエプロンで、戦闘機の照り返しが鋭く光っていた。ライトブルーのスキニージーンズの先を容赦なく照らす日差しが、じりじりと焦がすようにの足元を焼く。胸元に引っ掛けたサングラスをかけて、は眩しさに抗いながらその視線をエプロンへと向けた。陽炎が揺れる先で、フライトスーツに身を包んだスタンリーが機体の下に潜り込んでいる。傍で作業するクルー・チーフが首にかけたタオルで顔を拭い、彼に何かを告げる。スタンリーはそれに一度短く頷くと、手袋をした手で太陽の熱を帯びた戦闘機の肌を愛撫するようになぞった。少し来るのが遅かったかもしれない、と、すでに離陸前の最終調整に入っているその様子を眺めながら、は格納庫の壁に寄りかかる。横を通った整備士が、目敏くその視線の先を追ってからりと笑う。

「見送りか、熱いねえ」
「内緒にしておいてよ」

はいはい、と楽しげに通り過ぎる整備士の背中を冗談じみた笑みで見送ってエプロンにいるスタンリーへ視線を戻す。最近、教官として指導する姿を見かけてきたからなのか、スタンリーの仕事について、ちゃんと答えを出さなければいけない、と思うことがひとつある。人の命を奪う彼の仕事について。それはずっと心の中にあるものだった。しかし、整理しようとするたびに、答えが出ない。決して無闇に命を奪うわけではない、でも、命を奪うことを求められる仕事であることも間違いない。互いに互いの”正義の旗”を背負って命を賭け合う場所が、残念なことにこの世界には数多あることも理解している。その結果、奪う側と奪われる側がいるということも。そしてスタンリーはその構図で見れば、奪う側であることは間違いなかった。少なくとも、今までのところは。でも、と何度目かもわからない問いから意識を離して、は陽炎が立つ中で戦闘機の周囲を歩きながら、温度のない双眸で射るように機体をチェックする男を見つめる。一瞬、手にしているチェックリストに視線を落とし、クルー・チーフに厳しい目を向け、何かを短く伝えて、彼は再び機体に一分の隙もない視線を向けて歩く。ああ、そうか、と言っては一つ瞬きをした。確かに彼は奪う側だ。でもそれは、誰も近づけない種類の強さを持ち、能力として評価される、脅威として認識される、頼られる、恐れられる、そういった数多の視線の中で、彼が自身で選択し続け、立ち続けた結果でもある。少し前、講義の壇上で生き残るために何が必要かを説いたスタンリーを思い出す。生き残るかどうかは意志の強さで決まる、と言う彼の、生還に対する執着と、現場の温度を真っ直ぐ投げて寄越す誠実さ。命を奪うという彼の仕事について、選択について、肯定するのも違う、否定するのも違う。その行き詰まりの中でずっとぐるぐるしていたわたしは、そもそも今まで見るものを間違えていた。きらりきらりと、真っ青の空の下で戦闘機のチタンが太陽の光を弾いている。遠くで航空機が離陸する音がする。緩い風が砂埃を巻き上げて、オイルの匂いと熱さを押し流していく。奪うか、奪われるかは結果だ。その結果の前に、命を賭けた場所で、自分の意志で、様々な責任と期待を背負って立っている人間が必ずいる。

「おい」

不意にイヤーマフを通してくぐもった音がした。はっとしてが意識を目の前に戻すと同時に、太陽の光を浴びて透き通るように煌めくバターブロンドの髪が風に揺れる。イヤーマフを外す目の前の男に釣られて、も自身のイヤーマフを首にかける。途端、途切れることのない音が四方から飛び込んでくる。整備士の会話、工具の音、遠くのエンジン音、機器の駆動音、それから、すぐ近くで生まれる聞き馴染みの深い声。

「用あんならそっち行ったぜ こんな熱いとこまでわざわざ来やがって」
「自分で来なきゃ見れないものがあるでしょ」
「へえ…何が見たかったんだか」

僅かに含みのある笑みを口角に潜めて、先程までエプロンで機体の最終チェックをしていた男の視線が今度はしばしの間、に注がれる。は黙ってサングラスの向こうにあるそのシェリーのような双眸を見詰めていたが、スタンリーに軽く顎で奥に戻るよう示されて大人しく踵を返す。サングラスを胸元に引っ掛け直しながらちらりと背後をついてくるスタンリーを窺うと、スタンリーは同じようにサングラスを外しフライトスーツのジッパーを胸元辺りまで降ろしながら、目線だけでもっと奥にいけ、と言う。

「ここなら声 普通に聞こえんだろ」

格納庫のショップと呼ばれる区画の隅で、スタンリーはにそう言って足を止めた。その言葉の通り、二人が佇む場所は巨大な格納庫の中で、最も静寂を保っている。は遠く離れて聞こえる途切れることのない人の気配に視線をやって、一つ瞬きを落とした。スタンリーが選んだ場所ならしばらくのあいだ人は来ないだろう、と確信に近い仮説を立てて、再び目の前の男に視線を戻す。

「もう離陸かと思った」
「の予定だったんだがな」

マイナーディフェクトの修理、と格納庫に戻されていく自身の機体を見遣ってスタンリーは腕を組んで壁に寄りかかった。格納庫の巨大な入り口から拡散されて差し込む日差しを受けて、彼の金色の髪もトパーズの双眸も、いつか美術館で見た、何世紀経てもなお人々を惹きつけてやまない絵画のように美しい。

「なんか言いたいことがあんなら、今のうちに言っときな」
「…」
「見りゃ分かんよ」

まるで読みやすい、と言わんばかりに視線を拾って平然と言葉を返す目の前の男に、は小さく苦笑した。思考を読みやすい、と言われたことは生きてきて一度もない。それだけの間、最初は警戒物のように、徐々に被験者のように、やがて日々のバイタルのように、観察され続けていただけだ。

「スタンリー」
「…」
「ハグしていい?」
「…いちいち拒否んねえからとっとと来なよ」

微かに口元だけで笑みながら組んだ腕を緩く解いて、しかし壁に寄りかかったまま動かないスタンリーに、はそっと手を伸ばす。そうしてすぐに手を止めた。ハグなんて、何度も何度も色んな人としてきたはずなのに、どうやってきたか思い出せない。無意識にスタンリーを見ると、彼は黙ったまま、その視線をどこにもやらずにこちらに注いでいる。見事に光を含んで、真夜中に見詰める美しい炎のように煌めく双眸に、畏れを抱きながらもどうしようもなく触れたい、とは自身の中にあるその欲望を初めて手に届く近さで味わった。同時にそれが、もう目の前の男を他人のようには扱えないことを示しているとも気がついた。もう一度手を伸ばして、はスタンリーの腕の中に一歩踏み込む。太陽の温かさと煙草の匂いに仄かなオイルの香りが混じる。頭上でとても小さく笑みが落ちる音がして、は迷いのない強さで抱き留められた。遠くに聞こえた人の気配も、工具の音も、エンジン音も、耳元で規則的に鳴るたったひとつの心臓の音によって意識の外に追いやられていく。この心臓が動き続けるためなら、何だってしたい。それはいつも自分の中にある世界や人間に対する愛情とは異なって、身を焦がすような熱を孕んだ、ただ一人の人間にだけ向けた個人的な欲望だった。特殊部隊の隊長に昇格し、この先さらに多くの責任とリスクを負いながら前線に、あるいは致死率の高い場所に向かうであろう男の名前を呼ぼうとして生まれた声が揺れる。僅かに自身を抱く腕に力が籠って、はそのまま顔を上げることを許されなかった。頬を、フライトスーツの合間に覗くシャツ越しのドッグタグが撫でる。

「大人しくしてな」

腕の中以外には漏らすつもりのない囁きをそっと落として、スタンリーは自身の心拍を追うように緩く瞬きをする。腕の中にいるがほんの少し揺らぎを整える間その様子を眺めながら、あの夜、泣いていたを抱き留め損ねてから随分経った、と無意識のうちに思った。そうしてスタンリーは自身の思考に音もなく笑う。自分があの夜本当はどうしたかったのかを数ヶ月越しに思い知る。しかし、糧食で身体的に生命を支えることを語っていたくせに、結局自分は傷を負ってなお立とうとする意志で生き延びた女に、手を伸ばすことはしたくなかった、とも思った。それは自分にとって、自らの足で立つと決めた人間に対しての敬意に欠ける侮辱行為だった。周囲に人の気配の変化がないことを確認して、スタンリーは僅かに身動いだのために腕の力を少しばかり緩める。お世辞にも涼しいとは言えない格納庫の隅で、しかし、腕の中にいる人間の体温は心地良かった。

「スタンリー」
「ん」
「隊長就任祝い、何がいい?」
「別にいんねえ 何も」
「……確かに就いた時点で必要なものは手に入って完結してるか…」
「分かってんじゃん」
「…そうね」
「…」

ほんの一瞬、迷子のように揺れるの双眸を、スタンリーはその指先で頬を撫でてとても器用に自身のもとに結び直す。そうして、心臓が数度鳴って、滑走路から離陸する戦闘機の音が遠ざかるまで、スタンリーは腕の中のを眺めた。隊長に就任したことで増えるものを気にかけながら口にすることをやめ、あまり見慣れない欲をその瞳の奥に潜めて自身を見上げるにそっとひとつ唇を落とす。啄むように離れる最中に視線が交わる。腕の中のがほんの僅かに体重を預けたのと同時に、スタンリーは音もなくもう一度だけ丁寧にその呼吸を奪った。

「…プロトコルは無視するんだ」

は与えられた口付けにしばし驚いた後、少しの間をおいて、からかうようにそう言った。おそらく世の中に掃いて捨てるほどある、ありとあらゆる交際マニュアルの手順や作法をこんなにも清々しく鮮やかに踏み越えていく男を見るのは初めてだった。

「マニュアル通りにしかできねえ男よりマシだろ」
「ちゃんと生き残るなら何でもいいよ」
「じゃあ何も問題ねえな」

まるで回答を得る前から分かっていたように、スタンリーはその瞳を愉快そうに細めて静かに笑った。腕の中を離れて、は改めてスタンリーを眺める。NASAでの彼の業務は本日付で終了となり、明日からは今ほど気軽に会うこともない。

「頑張ってね」

一機の戦闘機を格納庫からエプロンへ搬出する牽引車のランプ音が反響する。整備士たちの声が一際大きく響いて、整備が完了したことを知ると、スタンリーは壁に寄りかかっていたその身を起こして格納庫の様子を一瞥した。それから再びへとその視線を向けると、行ってくんよ、と言ってひとつゆるく瞬きをする。それはシリウスのように美しく揺らがない、旅立ちを告げる音だった。

「…頑張んな あんたも」

僅かの煙草の匂いを残して、スタンリーはその場をあとにする。それを見送って、は少しの時間、スタンリーの残した言葉を反芻した。そして小さく笑うと、再び陽炎の揺れる日差しの近く、格納庫の入口に立つ。太陽に煎られた風が頬を撫でる。担当者とともにすべての装備を整え、再びの機体チェックを行った後、スタンリーは今度こそ自身の機体に乗り込んで滑走路へと向かっていく。それからまもなくして一機の戦闘機が飛び立つと、その機体は雲ひとつないテキサス・ブルーの空を破るように、美しい軌道を描いて一筋の飛行機雲を引いていった。







ignition.


02.28.26