がしゃがしゃと厚いアルミの足場を踏んで、果たして同じ生物なんだろうかと疑ってしまいそうなほど屈強な男たちが、ブリーフィングルームと呼ばれる部屋に入ってくる。陸海空特、揃い踏みのその様相に、タブレットを持つの指先に無意識に力が入る。主責任者である生理訓練担当官がこれからの訓練手順を丁寧に説明していく中、は並んで立つ軍人たちを一人一人確認しながら、提出された書類と今朝がた職員により測定された数値に目を通し始めた。ちらり、と軍人たちの好奇心に満ちた視線が前を通るごとに注がれる。それを律儀に一つずつ受けながら歩を進めると、ふいに嗅ぎ慣れた煙草の匂いが鼻先を掠めた。無意識に上げた視線が、じっと静かにこちらを見詰めるトパーズの双眸と交わる。
「訓練の説明は以上。ではセンサーの装着を進めて」
「特別指示がない方は、隣の脱衣室でフライトスーツに着替えてください。フライトスーツは足に通して腰あたりまで、ヘルメットはバッグから出して。準備ができた方からセンサーの装着を進めるので手を挙げて教えて下さい」
カツ、と部屋に響くヒールの音を合図にするように、男たちが移動する。今回も大変そうだねと言い合う他の職員たちとセンサー類の準備を進めながら、は小さく息を吐いた。規律正しく冷静なフリをして、水面下で負けず嫌いな軍人同士がバチバチにプライドをぶつけ合っていることはこの訓練に携わる職員の間ではもはや常識だ。高高度というデスゾーンで人間がどう壊れていくかを試すようでもあるこの訓練は、科学者からすれば、安全に、正確な限界値を採ることが目的であっても、彼らにとっては擬似的に作り出された極限状態を使って、どこまで自分が機能できるかを脳に刻み込む良い機会となる。だから、正常な思考ができない環境にも関わらず、科学的な安全基準を無視してでも自分を追い込みたいという彼らの欲望がたびたび暴走するのだ。
「さん、スナイダー隊長の準備お願いします」
「今行きます」
示された男の姿を認めて、彼が着痩せするタイプなのだと知ったのは一体いつだっただろう、とは思った。分かりやすく体格の大きな男ではないが、180センチの高身長に無駄なく付いた筋肉は見事なもので、ジムで見かけるような見栄えのための筋肉ではないことは、その体つきを見れば明らかであった。可能な限り俊敏に、可能な限り的確に、相手を物理的に制圧することを目的にしたそれは、一人で戦況を変える能力が求められる役割を彼が全うしてきたことを物語っているようだった。
「スナイダー隊長、シャツも脱いでくれる?貴方は心電図も必要だから」
オーケーと言ってシャツを脱いだスタンリーの身体に、手際よく電極とパルスオキシメーターをつけていく。触れる彼の肌は温かくて指先に心地よい。ふと、夏の終わりに触れた彼の体温を思い出す。同時にあの時の不安が心の隅で目を覚まして、そっと目の前の男の体に目立った傷がないことを確認すると、それを聡く拾うスタンリーがただ微かに笑う気配がした。少しくらいは察しが悪くなっていてもいいのに。そう胸中でだけ呟いて、はフライトスーツの中でコードが絡まないようサポートしながら傍でスタンリーを見守った。見事なまでに慣れた手つきで準備を終えたスタンリーはヘルメットを持つと、至極当たり前のようにを見遣って、行ってくんよ、と聞き覚えのある声音で一言だけ投げて寄越すように囁いた。
「1番、正常、2番、正常、」
全員が半刻ほど航空用酸素マスクで純酸素を吸ったのち、チャンバーと呼ばれる低圧室に入っていく。左右に分かれて席に座り、各々で酸素マスクのチューブと通信のためのコード、パルスオキシメーターの接続を行う中、それに並行して個別確認をするの声が響く。それは、普段聴くことのない感情の薄い声だった。あの夜の、温度のない声とも違う、とスタンリーは無意識に記憶の中の声音と比較する。緊張を丁寧に理性で隠して、これだけの軍人とその命の責任を前に一切の反論を許さない態度で指示を飛ばしている女が、自分に近付くたび無意識にその緊張を和らげていたのを思い出して、スタンリーは静かに瞼を閉じた。
「これから高度25,000フィートまで減圧する。全員、マスクを外せ」
チャンバーの中にいる被験者全員が一斉にそれに従い行動すると、見知った女の聞き慣れない声が、立て続けに指示を飛ばす。音声チャンネルは一つだけだ。全員が同じパーティラインにいるせいで、一気に混乱した現場のような緊張感が膨れ上がる。
「1番、100から3ずつ引いた数字を言い続けよ。2番、アルファベットを逆から言え。3番、スイッチボードの1番を切ってから、左手で右耳を触り、その後に現在高度を報告せよ」
声は澱みなく8番目の被験者の指示まで続く。それは、全員が緊張と極限の中でできるだけ迷いなくタスクを理解しこなせるよう、よく通る端的な指示だった。息苦しさが急激に増していく中、音声チャンネルに、自己申告で症状を告げる声と、タスクをこなす声、が指示を出す声が入り混じり、どんどんとカオスになっていく。突如楽しそうに笑い始める男の声と、強くマスクを再装着するよう語気を強めるの声を耳に、スタンリーも自身の指先が痺れ始めたと申告をしながらその時間と感覚を体に叩き込む。指示された通りに計器の数値を読みメモに書く最中にも、息苦しさが容赦なく襲ってくる。背後でインサイドオブザーバーと呼ばれる航空生理訓練官たちが、次々に意識を手放す被験者に強制的にマスクを装着する気配がする。
「トンネル・ビジョンだ 視界の中心しか見えねえ」
「3番、高度計の数字を確認し、そこから1,300を引いた数値を報告せよ。報告後、右手で左肩のパッチに触れ、最後に1分間換算で今の呼吸の回数を述べよ」
賑やかなカオスだった音声チャンネルがいつの間にか静まり返っている。スタンリーは高度計に目をやって、誰もいなくなったかのように沈黙するパーティラインへ回答する。
「現在高度25,000フィート。マイナス1,300、計算値トゥエンティスリー・サウザンド・セブンハンドレッド」
スタンリーはゆっくりと右手で左肩のパッチに触れながら、五感を研ぎ澄ます。万が一の事態が発生した際、脳がシャットダウンするまでの猶予時間に起こりうる自分自身の体の変化を、安全に、かつ、正確に体験して確実に体に覚え込ませるには、この訓練は打って付けだった。
「3番、マスクを再装着せよ」
「呼吸数、毎分約28回。次の指示を待つ」
「3番、マスクを再装着しなさい」
「……うるせえな……まだ、できんよ」
「私の指示が聞けないの?マスクの再装着が次の指示よ」
その聞き慣れた声は、酷くはっきりとスタンリーの耳に届いた。インサイドオブザーバーを呼ぶの声に反応する訓練官を片手を挙げて制して、スタンリーは自身の手でマスクを掴んで装着する。その状況が報告される音を最後に、ようやくチャンバー内は完全なる静寂で満ちた。酸素マスクから送られる100%の酸素を数度取り込んだ後、やや明瞭になった意識で、スタンリーは改めてマスクをしっかりと装着し直す。誰の手も借りない。無言の中に滲むその強い意志に、チャンバーの外でバイタルデータと音声を見守りながらは一つ呼吸を押し出した。まだできる、という掠れた声が耳から離れない。肺が冷えて震えるような感覚に、は眉根を寄せて一度きつく目を瞑る。それは誰かと競い合うためではなく、自分が止まれば誰かが死ぬ世界に立つ者の抗いの音だった。
「さん、ありがとう」
「とんでもない、具合はどう」
「平気だよ」
「まだ強がってるの?顔色が悪いから診て貰ったほうがいいわよ、本当に貴方たち軍人という生き物は…」
「Dr.、ちょっとこっちに来てくれ」
「はい」
リカバリールームには死屍累々と言わんばかりの光景が広がっている。擬似的にとはいえ、高高度というデスゾーンに連れて行かれて、マスクも無しに低酸素の中でミッションをこなしたのだ。いくらその肉体を限界まで鍛え、鋼の精神力を持っているエリートたちといえど、生物学的な壁に挑んだ身体への物理的な代償からは逃れようがない。職員たちが隈なく被験者の様子に気を配る中、は主責任者の質問に答えながらいくつかのデータの確認を済ませる。彼の手元に渡っているデータはすでに自分自身で確認したものだったが、改めて見ても、一人の突出した数値ばかりが目に留まった。
「よう」
「どこか痛むところは?」
「ないね」
肩に毛布をかけられたまま部屋の端の長椅子に座っている男に近付いて尋ねると、彼は首を傾げて何の興味もなさそうに回答する。その双眸は蛍光灯の人工的な光を受けて、丁寧に熟成されたシェリーのような色をしていた。もうすでに医療スタッフが確認したであろう問いにも、少しの億劫さも見せず返答するスタンリーに、は小さく笑って彼の側に屈む。
「手、見せて」
無言で差し出された両手を見て、震えや斑点がないことを確かめる。本来は、それで十分なはずだった。しかし、はそっと自身の手を伸ばす。ほんのわずか、スタンリーの武骨な指先に触れて、ぎゅう、と掴む。スタンリーはひとつの身動ぎもせず沈黙を纏ったまま、ただ、ずっとその双眸を離すことなくに向けていた。はその視線に気付かないふりをして顔を伏せる。触れた体温や聞こえる呼吸に意識を向けると、あの日、格納庫の隅で聴いた心臓の音への愛しさと同時に、訓練中のスタンリーの声とバイタルサインが脳裏をよぎる。一介の科学者の立場だけで見れば、常識をなぞらない彼の生命維持機能の高さは確かに知的好奇心の対象だ。しかし今は、ブラックホールのように底知れない恐怖が、そんな好奇心を嗤うように呑み込んでいる。限界を滲ませた彼の声に心臓が潰れそうなほど怯えた感覚が忘れられない。彼の死の輪郭を、捉えてしまった。は頭上で聞こえる規則正しい呼吸が、二度、三度と続くのを、祈りのように聞く。幼い頃、ベテルギウスの輝きと宿命を知った時に似た感情が、心の中を塗りつぶしていく。
「噛むな」
不意に頭上から落ちる声にはっとして視線を上げると、スタンリーは続けて、唇、と言った。僅かに眉根を寄せるスタンリーに、気付かなかったと小さく返すと同時に、纏ったルージュの、後を引くような苦さが舌先を通り過ぎていく。掴んだままだった指先を手放そうとしたところで、不意にスタンリーの手が握り込まれて、の指先を捕まえる。
「スタン、」
「…」
スタンリーは自身を呼ぶ声に応えない。ただ一度親指の腹での冷えた指先を撫でる僅かの間、大きく規則的な呼吸に隠れてしまうほど小さく速い目の前の女の呼吸に耳を澄ませた。掴まれた指先の温度が混ざる。は与えられる体温と沈黙の中で、強く目を瞑ると大きく深呼吸した。この人の心臓が動き続けるためなら、何だってしたい。あの日そう思ったことを、丁寧になぞって思い出す。そうして自身の指先を捕まえるスタンリーの手を、わずかに握り返す。少し離れた場所で、徐々に元気を取り戻し始めた軍人たちの談笑と職員の忙しなく歩き回る音が聞こえてくる。視線を上げると、蛍光灯の明かりをあまり受けない深い琥珀色の双眸が、待っていたようにこちらを見ていた。彼の死の輪郭を捉えたなら、それを少しでも曖昧にするのがわたしの領分だ。
「ゼノと飯でも行くか」
「うん……このあとあなたが問題なく回復したって判断されたらね」
「もう回復してんぜ」
「……………その態度なら行かない」
「めんどくせえな」
「その態度でも行かないわよ」
「あー OK、わかった またあとで連絡する」
スタンリーはまるで用意していた戦略のように問答を切り上げて、温度を取り戻したの指先を離す。じゃあまたあとで、と言ってその場を離れたの背を見送ると、一つ大きく息をついて目を閉じた。それは小さな笑みを含んで、誰に拾われるでもなく少し乾燥したリカバリールームの空気に溶けていった。
afterimage
03.03.26