「、君は本当に人間に甘いね」
「悪役のセリフすぎない?それ」
「人類への愛情は君の美徳とするところだが こうも狙われると考えものだな」
ゼノはそう言ってすっと目を細めた。光さえも飲み込むようなその黒曜の双眸に、はなんとも言えない心地になって苦笑する。やはり僕と一緒に衆愚を、と言いかけたゼノへの意識を、のスマートフォンの振動が奪う。先程からは、どれも興味のない他人からの通知と知りながら、振動するたびにスマートフォンの液晶画面を律儀に覗き込んではラップトップに視線を戻していた。それこそが、隣で同じように業務に勤しむゼノが、人間に甘い、と指摘していたことだった。
「一応わたしにも ここの職員の立場ってものがあるでしょ ちゃんと律儀に機関の看板背負ってんの」
「本当に スタンが聞いたらウェルテルのように涙しそうだよ いや カルメンかな」
軍の合同の訓練を終え、その整理と報告のためのデスクワークに勤しむは、隣の席で同じようにキーボードを叩くゼノを胡乱げな目でちらりと見遣る。それに気付きながらも視線を返さず、ただ含みのある笑いを浮かべて、これでは本当に君を想う男が埋もれてしまうね、とゼノが言う。しかしそのゼノの声に重なるようにスマートフォンが振動して、再びの意識を彼の言葉から遠ざけた。
「マジで集中できない 限界」
「おお 可哀想に」
間髪置かず、ほとんど抑揚のない声で言葉を返す隣の男に、は堪えきれずに一つ声をあげて笑う。一瞬、フロアで働く職員たちが反射的にこちらに視線を寄越す。笑う要素など見当たらなかったゼノも、ついに釣られてキーボードを打つ手はそのままに視線だけをへ向けた。
「全部拾ってくれるじゃん ゼノのそういうところ、昔から大好き」
あ、ノンセクシュアルウェイでね、と付け足して、スマートフォンをサイレントにしたは再び自身のラップトップの画面に向き合う。今度こそタスクを終えるべくキーボードを叩くことに集中すると決めたようだった。ゼノは心底無邪気に笑った彼女にも、投げられた言葉にも、咄嗟に返す言葉が見つからず、しばしの間その手を止めた。そうしてややの後、静かに目を細めて視線を自身のラップトップに戻す。がスマートフォンをサイレントにしたのなら、自分のスマートフォンに幾許かの注意を払っておかねばなるまい。もう一度だけ小さく口元を緩めて、ゼノはバターブロンドの美しい髪を持つ自身の幼馴染のことを思った。
「スタンはもう駐車場で待ってるようだね」
「はっや え、一回帰ってシャワー浴びて着替えてから来るって言ってなかった?」
ちらりと己のスマートフォンに視線を落としてポケットへ仕舞ったゼノに、はアウターを着ながら信じられない、という視線を投げる。軍人としての癖だな、というゼノに、わかってはいるけど、と言いながら、支度を済ませたは何をするにも早い彼の幼馴染を思い浮かべた。廊下を歩きながら、何食べる、とスマートフォンに集中するが隣を歩くゼノに声をかける。ゼノはしばし考える素振りを見せた後、反対から歩いてくる同僚に彼女がぶつからないよう、同僚にちらりと目配せしてのすぐ前に移動する。はありがとうと言って、何の疑問も持たずに親の後を追う小鴨のようにスマートフォンを見ながらゼノの後ろをついていく。
「が選ぶなら何でも構わないよ、君の選ぶ食事はいつも実にエレガントだ」
「食への執着は日本人の誇りだからね」
「どうやらそうらしい 百夜と君はその点において共通だね」
「そしたら今日は赤身肉が美味しいステーキの店にしよう」
そう言って、エレベータホールに差し掛かり歩みを緩めたゼノにぶつかりそうになったが視線を上げる。どちらにしろ、最終的にはスタンリーに必要な栄養素が得られる場所を提案するつもりだったゼノは、下へ向かうエレベータのボタンを押したのちすぐに同意を示した。
「高高度生理訓練を行ったスタンにはタンパク質が必要だな」
「今日のあの人に一番必要なのは安静にしたうえでの早めの睡眠だけどね」
「どうだろうな、案外…」
エレベータが到着して扉が開くと、ゼノはそれを押さえて後ろにいるに先に乗るよう促す。するりと自身を追い越してエレベータに乗るの表情が僅かに普段と異なるのを伺い知ると、ゼノは紡ぎかけた自身の言葉をそのまま沈黙の中に手放した。今日の食事は彼の方から誘ったというのでもう少し喜んでいるかと予想したが、訓練で通信係を務めたことで、まだその感覚が彼女の多くを占めているのだろう。いや、むしろ、だから誘ったのか、とゼノは幼馴染の思考の片鱗を掴んだ気がしたところでエレベータに乗り込んだ。
「、スタンが心配かい」
「……分からない 今は… 色んな感情が混じってる」
「ふむ…」
「ゼノ、わたし今日飲んでいい?」
「構わないよ、車はどうする?ここから僕の車で行くか、」
「あ、じゃあ」
「それとも君の車を帰りにスタンに運転してもらって家まで送ってもらうか」
「そ……………」
「……………」
予測した通り、見事すぎるほど言葉に詰まるに、ゼノが無言のままからかいの色の混じった視線を落とす。エレベータのベルが鳴って扉が開く。夕闇に染まりつつある空にちらりと目をやって、はひとまずの回答を保留にするためにエレベータから一歩を踏み出す。するとちょうど帰宅際の数名の軍人が目に留まって、それが小一時間前にメッセージのやり取りをした相手だと理解したは、ああ、しまった、と小さく声を漏らした。止めるには遅すぎた一歩によって、かつ、と高めのヒールが鳴る。彼らの視線が自然とに向けられる。
「ゼノごめんけど先に行っててくれる?」
「おお、さながら戦場のような光景だね あるいは狩り場かな」
「冗談はいいから 一旦店までは自分で運転していくわ 最悪店で飲まなくても良いし」
バッグから鍵を出しながら、あとで合流しよう、というの横で、ゼノはちらりとその様子を確認する。玄関に向かっていた足をこちらに向けてやってくる軍人らに一瞬にして切り替えて対応するような愛想の良さを、一体何度横で見てきただろうか。先だって彼女が述べたように、組織の看板を背負うなら、確かにその組織に属する人間に求められる姿を演じる必要がある。しかし、そうやって個人の外側にある”責任”という他者からの視線を背負うことは、同時に彼女の在り方を固定させるものだ。ゼノは、果たしてその看板を背負ったまま彼女がこの場を切り抜けられるかどうか、と疑問に思った。しかし、組織の看板を背負っていて動けないなら、この場については明らかに自身よりも適任者がいる。駐車場で待っているその男に判断を任せることにして、ゼノはその場を離れて駐車場へと足を向けた。
「さん、今帰るところなんですか?」
「お疲れ様です、体調良くなったみたいで良かった」
体格の良い男たちに人懐こい笑顔で囲まれて、は明るいトーンで無難な返しを口にする。あと二、三回ラリーをしたらもしかしたら離れられるかもしれない、と思うと同時に、人を雑に扱っているのではないか、という罪悪感が腹の底に生まれる。大人になって以来、たびたび出会うそのジレンマに今再び睨まれて、はその窮屈さに辟易した。
「ちょうど皆で飯の話してて、近くで美味しい店知りませんか?ビールの種類が多い店でも」
「アルコール摂取は訓練後24時間禁止ですよ」
「そうだった」
「…すぐ近くに老舗のイタリアンがあるから、良かったら行ってみては?」
がしばし考える素振りを見せて一つの提案をすると、迷彩服を着た男たちがどこ、とスマートフォンを取り出してマップアプリを開く。じゃあ、わたしは予定があってもう行かないとだから、と完璧に会話を締めくくるカードを場に出そうとしたは見事に次の手を封じられて、あー、とそのマップアプリを覗き込んだ。そもそも一対多数は分が悪い。しかも相手が、高度25,000フィートを生身で体験できる肉体を持つ男たちとなれば、心理的にもフェアとは程遠い。
「」
ちょうどアプリを覗き込んだところで、不意に出入り口の先から聞き慣れた声がした。弾かれるように顔を上げて声の方へ視線を向けるが、目の前の逞しい肉体によって視界のほとんどが塞がれて何も見えない。外の木々の香りを掴んだ風が、機械の駆動音と遠くの観光客らの喧騒に乗って頬を撫でていく。沈黙が漂い始めた施設内に躊躇のない靴音が踏み込むと、途端に目の前の男たちが、サー、お疲れ様です、と敬礼したきり直立不動になった。先程までの緩い空気も、楽しげな声も、人懐こい笑顔も、もうどこにも見当たらない。よく見知った男が、こうして一瞬で場の空気を支配する様を間近に見るのは初めてだった。はこちらに背を向けて微動だにしない士官らを眺めながら、その男が、休め、と慣れた様子で彼らに返す声を聞いていた。所属部隊が違っても、同年代であっても、階級や任命時期の差は軍の世界では絶対なんだろう。ましてやそれが18歳で任を受け、空軍から最年少で特殊部隊の隊長になった男であればなおさら。美しくプログラミングされたように目の前の軍人たちが手を下ろす。
「よう空軍、そいつ引き留めんのに随分気合入ってんね」
「あ、いえ…」
「誘うなら、せめてそいつが自分の車の鍵握る前にしな 戦闘機乗りのくせに遅すぎる」
言葉を探す彼らに対するスタンリーの追い討ちは何一つ核心に触れていなかった。しかし、その言葉の全てと冷えた声がただただ、どんくせえな、邪魔だから帰れ、と言っている。見知らぬ軍人世界の文法を前に、そんなウィットに富んだ話術スキルがあったのか、と一瞬思ったはしかし、これをウィットと呼ぶべきか悩ましいと思い直した。一般感覚で言えば、もはや丁寧な暴言と言ったほうが差し支えない。
「申し訳ありません、直ちに失礼します」
スタンリーの言葉の真意を理解したのか、そういう身の守り方なのかは分からないが、老舗のイタリアンの場所を知りたがっていた被験者の面々は、短く返答して蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの帰路についていった。途端に静寂が雪崩込む。は、差し込む夕陽を背にその場に残ってこちらを眺めるシェリー色の双眸とようやく出会う。シャワーを浴びて着替えてきたうえでもう駐車場で待っている、とゼノが言っていたはずのスタンリーは、しかし普段よく見る軍服を身にまとっていた。数秒かけてその意味を理解して、は僅かに熱を持った双眸を誤魔化すように幾度か瞬きをする。心臓が溶けるように熱い。何してんだ、と僅かに呆れを含んだ声が玄関ホールに響く。それに押されるようにがエレベータの傍らから足を踏み出すと、スタンリーがおもむろに手を出して、鍵、と言った。
「飲むんだろ 運転すんよ」
大丈夫、と言いかけて、はその言葉を喉に留める。行きの運転を任せる必要はどこにもなかった。しかし、許される限り、目の前の男と一緒にいたい、と思った。心臓がいつもより速く一つ二つと時を刻んでいる。先程の声音とも、訓練時の声音とも違う、深く満ちてただそこにある夜空のように凪いだスタンリーの声が、この世界のどんな音より愛しいことを、覚えてしまった。は一度視線を外して思案するように瞬きを落としたのち、そっと彼の掌に鍵を乗せる。触れた指先は相変わらず温かい。ちらりとスタンリーを見遣って玄関に向かうを見返して、スタンリーは鍵を得た手をポケットに入れるとの半歩後を歩き出す。
「…それにしたって権力えぐいって…」
「あれが一番早え こっちは腹減ってんだよ」
Pulsar
03.04.26