「ゼノ、今日ランチ何食べる?」
「そうだな…ランチはどこでも構わないよ だがその前に寄るところがあるだろう、?」
「それも考えてるから大丈夫」

開放感のある青空の下、艷やかで気品に満ちたオブシディアンブラックのドイツ製クーペが三車線の広いウェステイマー通りを曲がる。すぐ隣接した目的の商業施設の入口に着くと、ゼノは静かにエンジンを止めた。そうして運転席を降りて、律儀に助手席側に回ってドアを開ける。

「ありがとう、ウィングフィールドさん」
「気にしないでくれ 当然のことをしたまでだよ」

柔らかな風が建物の合間の道を吹き抜ける。ゼノとは商業施設に入り、バレーパーキングの手続きを済ませるとエスカレーターでフロアを上がっていく。週末の賑やかな施設でも静寂を保つフロアに辿り着くと、その静寂には休日の午前の陽の中に溶けるようにして様々な布地の香りがかすかに漂っていた。

「ステラアワード、ゼノも行くんだよね?」
「ああ 君と同じ ノミニーだ」
「タキシード楽しみすぎる…本当は燕尾服見たいんだけどね…なかなかないよねホワイトタイは」
「略装でもボー・ブランメルの名に恥じない程度には整えるとしようか」
「どっちにするの?インナー」
「さて 悩ましいね」
「カマーバンドに一票」

目当てのブランドのブティックに入りながら勝手に一票を投じたに、僅かに口角を上げて笑って、ゼノは少しばかり歩を緩めて自身の半歩先をに歩かせる。スタイリストがに要件を尋ねているのを大した興味もなく眺めながら、先日職場のカフェテリアで、ガラのためのガウンを見繕うのを手伝ってほしい、と言った彼女を思い出す。僅かに申し訳ないような、しかしそれ以上に期待を抱えた友人のその双眸に対して、ノーと言う理由はひとつも見当たらなかった。

「ゼノ、オリーブと赤」
「どちらもノーだな」
「速すぎ」

スタイリストの提案に躊躇無く誘惑されるに間髪容れず返答して、ゼノは一人用のソファに深く腰掛ける。ゼノの美意識がわたしの美意識に一番近い、と言って連れてきたにしては奔放だな、と肘をかけてその様子を観察する。最近の彼女は、以前よりも上層部との摩擦を起こす頻度が増えていた。それは自身にとっては親近感の湧く光景だったが、彼女の苛烈さが自身と同じ力学で動いたことは今までに一度たりともないはずだった。それに加えて、自身の幼馴染の話題に対して咄嗟に感情が滲むようになっていた。それはほんの僅かの間だけだったが、以前は平然と扱っていたことすら忘れたような瞬間がある。何かがあったことは間違いないが、しかし、互いに多忙を極めることもあり、今日に至るまでその全容を掴んでいない。

、それも要らないだろう」
「試着くらいさせて?」
「不要だよ その色は君の瞳の色に合わない」
「で……、わかった」
「ふふ…素敵な彼ですね」
「ありがとうございます」
「フフ…」

担当に就いた妙齢のスタイリストが軽やかに言った定型句に、は首を傾げて笑いながら嘘でも真でもない回答をする。ゼノが悪戯げに黒曜の双眸を細め、それの後を追うように笑う。訂正するほどの価値がある会話ではないことは、互いに自明だった。

「ゼノ、行ってくる」
「ああ」

ちらりとスタイリストが手にしているドレスを一瞥して、ゼノはを見送る。すぐに別のスタイリストがやってきて、何を飲むか、と尋ねる声に短く返答すると、ゼノはしばし訪れた静寂の中で再びこの数ヶ月を検める。科学者にとって、物事のパターンを見つけ、類似と参照し分類し理解に努めることはもはや呼吸に近い。あの夜の彼女もそうだった。彼女は窓を通し、スタンリーと彼に興味を示した女を、絵画のようだ、と言って外枠から眺めて自分の中にある感情を分類しようとしていた。しかし、そこにある感情自体にはずっと気付いていたはずだ。そしてそれが、彼女のプロトコルでは処理できていないことにも。かつて大きく崩れかけても自身の核である倫理を手放さず状態を持ち直した女が、お見合い、という極めて合理的で結果主義的な手段を口にした時、この均衡が崩れたらどうなるのか興味が湧いたことを思い出す。

「どうぞ」
「そこに置いてくれ」

炭酸水の小さく弾ける泡が賑やかに騒ぎ立てる音だけを残して店の人間が去っていく。必要最低限に音量が絞られた、静寂を薄く彩るための音楽がひどく孤独に流れている。ゼノは傍に置かれたシャンパングラスの中で弾ける小さな気泡に目をやって、あの夜は臨界点を見せていたもののまだ以前のままだった、と先程の思考を再開して自身の記憶を正確に辿った。そこに最近の変化の推論を重ねれば、あの日から今日までの間に、彼女が科学者の性分として分類しようとしながら失敗していた試みを止めるような出来事があったことになる。そしてその試みの対象があの夜と同じ感情であるなら、変化のきっかけとなる存在は、一つしかない。いや、とゼノは無意識にこめかみに添えていた手をソファの肘当てに戻す。果たして自分の幼馴染は、彼女の領域に自ら踏み込むだろうか。個室からスタイリストと会話しながら戻って来るに視線を向ける。そうしてゼノははたと一瞬瞬きを止めた。彼女が選択したことで、変化が生じた。その可能性のほうが遥かに高い。

「おお、だとすればつまり」
「なに?」
「いや こちらの話だ 一度回って見せてくれ」

僅かに吐息に笑いを混ぜてそう言って、ゼノはスタイリストの横でくるりと回るのドレスを検分する。正面はホルターネック、背はバックレスの黒いフロア丈のそれは、繊細な花柄が織り込まれたギピュールレースも、裾とネックラインにあしらわれた贅沢なラッフルも申し分がないほど美しい。トレーン付きなのも趣味が良い。ただ一点、彼女が小柄な分、ホルターネックは詰まって見える。

「何が気になる?」
「許容範囲だけどホルターネックかな ちょっと窮屈」
「同感だ ところで今回のコンセプトを訊いていなかったね」
「んー 武装」
「おお、実にエレガントなテーマじゃあないか 僕は大好きだ」

そう声のトーンを上げて言ってゼノが薄く目を細めると、は、ファッションはわたしにとって常に武装だよ、としたり顔で笑ってソファの縁に腰掛けた。鞄からスマートフォンを取り出して幾度か操作をしながら、はそういえば、と大した意識も向けずに言葉を紡ぐ。

「ガラに知り合いが来るのよね」
「ほう 誰かな」
「それはまあ誰でもいいんだけど」
「ああ、君の元恋人か」

ソファの肘掛けの端に腰掛けて胡乱な視線でゼノを振り返るを、ゼノは頬杖をついたまま大層不遜な笑みを浮かべて眺めた。思想は相容れず仲違ったが、一人の人間としては入局して以来、もう何年も親しい友人として交友がある。それに、互いに相手を観察していればこの程度の仮説は推論さえ不要だ。

 君はあまりに隙が多い もう少し暗号化することを覚えたほうが良いね」
「だから呼んだんだよ ゼノくん」
「おお なるほど 隙だらけの君を 僕が仕上げれば他には読めないということか」

は何も言わず含みのある笑みを湛えている。やや買いかぶりが過ぎると思うがね、と自身の幼馴染を頭の端に置いて返すも、向けられた信頼の手触りは悪くない。に視線だけで着替えてくるように促すと、それを読んではドレッシングルームに戻っていった。ソファから立ち上がり、ゼノは念の為ざっと店内に用意のあるガウンに目を通して、どれにも惹かれないことを確認する。そうして、さて、どのメゾンのものを着せるか、と改めて考え始めたところに、ふとスマートフォンが振動した。

「よう」
「どうしたんだい」
「俺も行くことんなった 4月」
「ようやくか フフ…NASAが借りた以上 呼ばれないはずがなかったがね」
「…何か企んでんな ゼノ」
「おお、大したことではないよ ちょうどの当日のガウン選びに付き合っていてね」
「ああ」
「”武装”するそうだ」
「…へえ」
「一つ聞いていいかい スタンリー と何かあっただろう」
「まだ言う気はねえよ」
「そうか」

通話はそれきりだった。ゼノはどこか心の深いところで、疾うに押しやったはずの懐かしき心地を思い出した。スタンリーが、ない、とも、あった、とも言わない。それが全てを示していた。かつての自分が純粋な善意で手繰り寄せた二つの糸が、数年間の時をかけて美しく編み上がり始めている。

「ゼノ、何してんの」
「やあ すまない 電話を受けていた 
「なに」
「スタンもガラに来るそうだ」
「……え、なん なんで?」
「アスキャンの訓練プログラムにNASAが彼を借りたんだ 招待しないわけがないだろう」
「ああ………」

溜息のような、感嘆のような、悲嘆のような音を生んでひとつ息をついて、はそっと一瞬迷子のように視線を彷徨わせた。ゼノはそのオブシディアンの双眸をほんの少し細めて和らげる。何度言っても自身の前で素直に素を見せて改める気配のない先輩を今一度だけ見逃すことにして、に歩みを促す。

「さて 他に候補はあるのかな?」
「もう一つあるからそこ行こう」
「構わないよ それが駄目だったら僕の案を試そう」
「頼もしい後輩で助かる」
「祝いだよ どうやら僕の先輩はお見合いを諦めたようだからね」
「……。」







gambit
03.13.26