夜の帳が落ちて一層その美しさを増すオブシディアンブラックのクーペが、ホテルの車寄せに入ってその身を橙の明かりに染める。前に停まる数台の車の対応ののち、バレースタッフがやってきて運転席の男と短いやり取りをすると、スタッフがドアを開けて運転手は車から降りた。そうして車の前方を回って助手席のドアを開ける。
「ありがとう」
「構わないよ」
「ねえゼノ やっぱりドレスのトレーンもう少し調整して短くても良かったんじゃない」
「エレガンスの何たるかを分かっていないな 君は」
「私自身の心配じゃなくて 誰かがこれ踏んだらわたしは泣くぞって話」
はゼノが眇めた目と共に差し出す手を借りて、美しい流線型を描くクーペから降りる。細いヒールがコンクリートを叩く品の良い音が2つなって、助手席のドアが閉まると、クラシカルなイブニングガウンがそよ風に揺れた。ゼノの自然なリードに従って彼の腕に手を滑らせる。車道から歩道に移動すると、ゼノは一度エスコートの腕を離し、立ち止まった。は何をするつもりなのか見当が付いて、一つ溜息をつく。
「ゼノ」
「、エレガントな結果を求めるのなら まずは見た目からだと言っただろう」
一分の隙もないほうがいい。そう言ってゼノはざっとの姿を上から最終検分する。シンプルな真珠のピアス、肌に馴染むミルキーピンクのルージュにダークバーガンディーのネイルが見事に品格を示す一方で、首元に装飾品は一切ない。それが、身に纏うドレスの、バストラインに沿った深いスクエアのネックラインと、控えめなVカットの切り込みを存分に際立たせている。デコルテを華やかに彩るように、胸元部分には立体的な白い花刺繍やビーズ、真珠が隙間なく敷き詰められ、夜の都市の光を受けてジュエリーのような輝きを放っていた。この優美な胸元の白と、漆黒のコルセットライクなボディスとの間に生まれる明確なカラーブロッキングが、視線を自然とバストラインに集める。しかし、あるのは品性と知性だけだ。隙は微塵もない。それが極めて見事な作りだった。
「おおやはり 実にエレガントな毒だ」
「アリガトウ お守りにするね」
「気をつけたまえ、今夜は戦場だろうからな」
まったく意に介さないゼノに苦笑しながら、行こう、と言っては一つ瞬きをする。ゼノはその双眸に確かに普段とは異なるものを見て、”武装”とはよく言ったものだ、と認めながら改めてエスコートを再開した。
「そういえばゼノ、カマーバンドにしたんだね インナー」
「ああ、揃えたほうが良いかと思ってね 最高礼装のスタンと」
ホテルのメインエントランスの手前で、はほんの一瞬足を止めた。エスコートする腕からその動きを拾って、ちらりと隣の女に視線を落とすと、腕に置かれたの手がゼノを諌めるように強く掴む。そうして一歩ホテルの中に踏み込むと、同時に視界の隅に見慣れたバターブロンドの長身の男が見えて、は一つ息をつく。我ながら見つけるのが早くて嫌になる。
「ちょっとまって、」
「…」
「…いや、なんでもない」
「ああ、君は最高礼装を初めて見るのか」
余裕を演じる視線を少しも揺らさず、足取りも変えず、ゼノと言葉の応酬をする。ホテルのロビーにあたる巨大な吹き抜けのアトリウムをゼノのエスコートで横切りながらは緩く瞬きをする。
「自分の顔面偏差値知らないって 大罪だよね…」
「おお、知っているさ 気にしていないだけだ 特に彼はね」
「なんだそれ無敵じゃん…」
今夜のガラにやってくる人々の絶え間ないざわめきが、アトリウムの大空間に満ち満ちていく。ゼノが足を止めるのを合図に、はその視線を周囲から目の前の男に向けた。
「待ったかなスタン?」
「いや」
合流したスタンリーは軍の最高礼装を身に纏って、ホテルの豪奢な内観と着飾った人々の往来の中でも多くの視線を集めていた。黒に見えるほど深い青の腰丈の短いジャケットに蝶ネクタイ、照明を艷やかに反射するサテンの襟、星のように光を弾く、翼と星の意匠の銀のボタン。胸元に並ぶミニチュアサイズの勲章が、スタンリーの動きに小さく軽やかな音を奏でる。銀の肩章、空挺バッジ、特殊技能章、飛行徽章。彼が語らずとも、彼が何者であるかを、今夜はこの服装が何より雄弁に語っていた。こんなに装飾的な装いの目の前の男を見たことがない、とは小さく息を吐いた。そのギャップにも、彼のバターブロンドの金と礼装の銀の美しい対比にも、どう接するべきなのか、記憶の中にはなぞることができる類似の経験はひとつもなかった。
「おい」
「なに?」
ぱちりと瞬きをして、はスタンリーの声に意識を戻す。見慣れたトパーズの双眸が、の視線を捉えて余所見を許さない。エスコートのままゼノの腕に添えた指先に、無意識に力が入る。
「なに、ではないよ 」
「え?」
「せっかくのメスドレスだ、スタンに君のエスコートを託そうと思って君に尋ねたんだが 僕の提案より魅力的なものがあったかな 聞いていなかったようだね」
ゼノとスタンリーの視線が同時に向けられて、は一つの呼吸の間に状況を把握する。そうしてもう一つの呼吸を待って、ちらりとゼノを見遣る。ゼノはその視線を余す所なく拾い上げて、僅かに口端を上げている。出会った頃は手がかからないと思っていた後輩のやんちゃに、いまさら手を焼いているなんて、と胸中で呟きながら、は何だかんだでずっと続いているこの友情を喜ばしく思った。
「最高礼装着てる軍人としての品格を賭けたパフォーマンス演出のために "花"を持たせようってことね」
「おお分かっているじゃないか」
「駄弁ってねえでとっとと決めな」
「お手並み拝見いたします」
そう言って悪戯気に笑んだに、スタンリーは自身の腕を取らせる。先程より浅く添えられた指先が、相手が一般男性ではなく軍人である、という認識を持っていることを示していた。一度だけ隣に立つに視線を落とすと、見上げてくる視線とかち合う。武装するらしい、と聞いたことを思い出す。確かにいつもよりその視線も振る舞いも癖が隠れて均質化されている。しかし、その奥にあるいつもの癖が容易く想像できる自分にとって、目の前にいる女は、結局いつもと変わらない読みやすさだった。視線を外して一歩を踏み出すと、がそれに倣う。ヒールの乾いた音に、黒革靴の音が並んで同じリズムを刻む。低い革靴の音に合わせれば安定して歩けることに気が付いて、ははたと、身長差が大きいにも関わらず、彼が自身に合わせる歩幅が一歩目から完璧なことに思い至った。が視線をスタンリーに投げると、スタンリーはその視線に応じず小さく口端だけで笑う。
「舐めてもらっちゃあ困るね」
「何も言ってない まだ」
「顔に書いてあんよ」
ガラス張りのエレベータに乗り、ボールルームのフロアで降りてホワイエに足を踏み入れる。ホワイエの豪奢な明かりと社交的な会話で満たされた空間を歩く度、のウエストから足元までを包む繊細なシャンティイ・レースのスカートが揺れる。透け感のある黒いレースが何層にも重なって軽やかな一方、動きに遅れてついてくる裾のドレープ性とトレーンが余韻を残す。スタンリーの胸元のミニチュアメダルが星のように光を弾き心地よい音を鳴らす中で、のドレスに散りばめられた黒のシークインが光を捉え、まるで真夜中の空のような奥行きのある煌めきを放っていた。
「ちょっと待ちな」
本来なら添える必要のない言葉を告げて、スタンリーが不意に立ち止まって姿勢を正す。視線を追って、ああ、とは状況を理解した。別な軍の所属を示す最高礼装を身にまとい、向かってくる壮年の軍人がいる。肩章が見事に光を弾き、その胸元では多くのメダルが揺れていた。スタンリーが軽く会釈をすると、彼は人好きのする笑顔でスタンリーに挨拶をして、そのままその視線をすぐにへと落とす。スタンリーはその視線を温度もなく追って長い睫毛を揺らしひとつ瞬きをする。
「こちらはスナイダー隊長のパートナーかな 大層美人な方だ、よく言われるでしょう」
「初めまして、NASA所属研究者のです 軍の糧食プロジェクトでスナイダー隊長と一緒に仕事をしております」
と相手との挨拶が交わされる中、隣のスタンリーはエスコートの姿勢を保ったまま動かない。するりとスタンリーの腕から指先が離れて、が握手に応じるためにスタンリーの半歩前に出る。壮年の軍人に近付くと、その手の大きさにも、磨き込まれた筋肉の量と体の大きさにも改めて驚かされる。背中に良く知る視線がずっとあるのを感じながら、はひどく美しい笑みの上でほんの少し目を細め、相手のボウタイの結び目を検品するように眺めた。
「これは失礼、NASAの研究者の方でしたか あまりにもお似合いでてっきり」
「お褒めいただき光栄です そう見えるのであれば、互いの資質が正確に釣り合っている証拠でしょうから」
想定外の回答に、目の前の大きな体の上からの視線がようやく全ての意識を伴ってを見る。スタンリーが秒にも満たない間、男に視線を向けて、再びシェリーのような美しい双眸を半歩前の女の背に戻す。
「最適解を選び取るのは、私とスナイダー隊長の共通した性質です NASAと軍、互いにリソースを最大限に活かそうとしたなら、自ずとこの組み合わせに収束するかと」
そう言ってルージュを引いた唇が、完璧な美しさで光を弾いて弧を描く。ダークアンバーのアイシャドウに混じるグリッターによって、瞬きの度に金星のような煌めきが瞳を彩る。それは美しくも、パーテーションロープとガラスに隔てられて決して触れることの出来ない芸術のようだった。研究に興味を示した相手へ改めて所属を告げてが丁寧にその背を見送ると、振り返るより早く、無意識に伸ばした手をスタンリーの腕が拾う。それに少しばかり深く指先を預け、くるりと踵を返せば、見事なレースの裾が動きを追って弧を描く。フロントのノーブルな印象に対して、肩甲骨から腰上あたりまで肌が出る大胆でセンシュアルなローバックデザインを持つガウンの二面性が、豪奢な明かりに照らされる。舐めんなよ、わたし自身の仕事と実力でここに立ってんだぞ、トロフィーみたいに言いやがって、と胸中でだけ盛大に暴言を吐いて、は傍を通るシャンパントレイを持ったスタッフからシャンパングラスを受け取って一口含んだ。少し離れたところで他の研究者と社交を深めながら様子を伺っていたゼノが、面白そうにその双眸を細めて笑っている。あれは毒を見て喜んでいる顔だ。
「やんじゃん」
「舐めてもらっちゃあ困ります」
ちらりとスタンリーに視線を向けながら、先程受け取った言葉をシルクに包んだような余所行きの声で返すと、愉快そうに喉で笑うスタンリーの掠れた声が頭上から落ちてくる。シェリーのように深い橙に染まる双眸がにわかに細められたのち、再び前方に向く。それからすぐ、スタンリーは何かに気付いてぴたりと足を止めた。
「あれ 知り合いだろ あんたの」
「…うん、ちょっと挨拶してくる またあとで」
「ああ」
スタンリーはもう一度だけの向かう先とその周辺を一瞥して、そっと自身の腕から離れていく女を見送る。それから人混みと喧騒が刻々と増していくフロアを迷いなく縫うように歩き、その女と自身の幼馴染とを把握できる壁際で立ち止まる。かすかに揺れる度に律儀に光を弾くメダルが落ち着く頃に、が目的の相手の前に辿り着いて破顔する。相手との距離の取り方、表情、動作、相手側の受け取り方。二つ、三つと緩く瞬きを落とす間、その様子を観察して早々にスタンリーはそこにある関係性を把握した。
「彼女 見事だろう 僕を褒めてくれても構わないよスタン」
「ああ、おかげでそこら中面倒くせえ奴ばっかだ」
フルートグラスに入ったスパークリングウォーターを受け取りながら、スタンリーは隣にやってきたゼノに口元だけで皮肉交じりの笑みを返す。ゼノはそれを黒曜石のような双眸で見遣ったのち、視線をへと向けた。彼女本人が気付いているか否かは不明だが、自身が見立てに付き合ったガウンに身を包んで武装した女は今夜、多くの視線に晒されている。しかし、己が狩りの対象であることを疾うに分かっていて、仕掛けられるその罠の浅はかさを見透かして美しく不遜に笑う彼女の双眸は、獲物へ向けられるような関心や老獪さは歯牙にも掛けない、強かな獣性をその奥に孕んでいた。おお、さながら戦場だな、と言ってゼノは自身のグラスのスパークリングウォーターを静かに傾ける。
「一時期 彼女はお見合いをするのが最善だと言って 結果主義に傾きかけていたんだがね」
「…」
「どうやら留まったようだ」
「へえ」
スタンリーは、会話相手に対し何の警戒心も見せないとその周囲の様子から視線を外さないまま、ゼノの言葉に短く相槌を返す。視線の先の男女の間に心理的ハードルは一切見受けられない。しかし、そこには大きな感情の動きも見当たらない。まるで、凪いでいて、よく知った海辺を散歩しているようなものだった。それが、終わりを迎えたからなのか、それとも最初からそれを求めた関係だったのか、とスタンリーは脳の空いた作業領域で思考する。そうして数秒で、きっと後者だろうと思い至って、呼吸のついでのように嘲笑う。
「お見合いねえ 生き残るために他人の取り決めに従おうなんて そんな生温い女かよ」
少し前、夜の駐車場で、賭けたことのないものを提示する恐怖に引き摺られそうになって、無意識にスタンリーの名前を呼んだを思い出す。あの時の彼女の恐怖の原因はおそらく、安心と安定が確実な対価とならないかもしれないと知っていたことだ。それでも言葉を紡いで、自身の科学者としての苛烈なまでのエゴを向けられることに耐えられるか、と尋ねてきた。それが失われたら、自分は生きられるか分からない、と言って。何よりも守ろうとしていたはずの思想や倫理を担保にして、そのリスクの重さを背負ったうえで自分を見つめてくる女は、かつて防火扉の向こうで泣いていた時と同じ、生き残るかどうか以前に自らで生き方を選び続ける人間のままだった。だから、あの夜の答えはもうずっと前から明白だった。
「おおスタン、君もだんだん彼女に詳しくなってきたじゃないか」
「うるせえな 何張り合おうとしてんだ」
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