「この流れで朝いないことあるんだ?」
は燦々と降り注ぐ朝陽の中で、昨晩一夜を共にしたはずの男が忽然と消えている、というその日最初に目に入った光景に瞬きをした。寝起きで曖昧な思考のままベッドの上で僅かに起き上がり、手を伸ばしてスマートフォンを昨晩のバッグから引っ張り出す。辛うじて生き延びたバッテリーがディスプレイに時刻を表示する。朝8時12分。
「待って、まじでワンナイトみたいな展開じゃん…」
窓の外で鳥が鳴く以外はほぼ無音の寝室で、ほとんど居た痕跡が残っていない状況にもう一度瞬きをする。階下からも人の気配はない。え、ともう一度小さく音をこぼして、は手にしたスマートフォンにある通知を開いた。チャットアプリが起動して、PTあとに戻る、とだけ残されたメッセージに、一瞬の沈黙が落ちる。
「タイムスタンプ5時て」
この男どうなってる。昨晩の最後の記憶の片隅で窓の外が白んでいたことを思い出しながら、もう一度チャットを目にする。ルーティンの身体トレーニングを終えたら戻る、というメッセージを改めて読んで、それならこれも悪くはないか?と、誰もいない寝室を眺めて半ば無意識に小さく笑うと、はベッドから降りて浴室に向かった。
シャワーを浴びて朝の支度を済ませ、キッチンで朝食の準備をする。グラノーラを計るために秤に器を置いて、はふと、炭水化物、と独り言を呟いた。手元に置いたスマートフォンを掴んで今朝開いたチャットに文字を打ち込むと、それがすぐに既読になったことを確認して準備に戻る。グラノーラを計り、二つの器に移して、コンロで沸かしていたお湯に卵を一つ入れる。キッチンタイマーをセットして、戸棚を開けて珈琲豆を選ぶ。ローストされた深くて芳しい豆の艶と香りにほんの僅かに笑みが溢れる。毎朝この瞬間が一番ほっとするかもしれない、と思いながらコーヒーメーカーに豆と水をセットして電源を入れた。窓の外から絶え間ない波のように差し込む木漏れ日が穏やかに休日の朝を彩っている。その美しさに釣られて窓を開けようと思ったところに、スマートフォンが鳴った。通話ボタンの向こうで、微かなジャズの音楽と人の騒めきが生まれる。
「数は」
「2,3個でいいんじゃない?」
「オーケー」
は数秒で終わったその会話が生んだ静寂のなかで戻ってくるまでの時間を見積もると、窓を開けて一つ瞬きをした。ふと、誰かの帰りを待つのはいつぶりだろうか、と考える。まるで初めてのダンスパーティで相手の迎えを待つ少女のようなこの心地がひどく懐かしい。春先の柔らかい香りを含んだ風が頬を撫でる。は窓際に腰掛けながら、月もない静かな夜の中で自分に触れる全てが熱かった、と昨晩のことを思い出した。交わした言葉があったかどうかすら朧げなのに、スタンリーは過去のどんな時より雄弁だった。数年前から知っていたはずの視線も、瞳も、今までを思い出せなくなるほど貪欲だった。彼の双眸に見詰められると全てをなぞって見透かされるようでいて、わたしに触れる彼の手はわたしを彼以外の世界の全てから隠してくれるようだった。夜のあいだ、溶けるような熱で何一ついつも通りに思考できない恐怖も、それを少しも取りこぼさず正確に見詰められる安心も、ずっと彼の心臓の音から与えられていた。窓の外で鳴る聞き覚えのあるエンジン音に、そっと顔を上げる。次いでタイマーが鳴って、はキッチンへと戻った。お湯を捨てて冷水に卵を浸す間に、手頃なサイズにカットしたバナナをグラノーラの上に乗せて、計ったヨーグルトをその上にかける。自分の分にだけ最後に蜂蜜を添え、テーブルへ運ぶ。来客用のマグを出して珈琲を注ぐと、階下の玄関に鍵が差し込まれてドアが開く音がした。は不意に一つの事実に思い当たって笑いを噛み殺す。かつて軍人に食事に誘われた時も、昨日も、そうだった。スタンリーは自分が持っている鍵を悉く奪っていく。
「何一人で笑ってんだ」
「なんでもない おかえり…じゃない、おはよう」
「…」
焼きたての小麦の香りを溢す紙袋をテーブルに置くと、スタンリーはキッチンカウンターの隅に背を預けてを眺める。ちらりとその様子を横目で確認して、座って、とはテーブルに着くよう促す。珈琲をテーブルに置きながら、は向けられるその視線をくすぐったい、と思った。
「そういえば礼装は?」
「置いてきた」
「家帰ったんだ」
「ああ」
トレーニング後のシャワーと着替えを済ますついでに礼装も片付けてきたんだろう。向かいの席に着く男の長い睫毛を少しばかり鑑賞して、軽く相槌をして席に座る。開けた窓から滑り込む朝陽を乗せた風が、木々の梢が鳴る音と春の匂いを連れてくる。ダイヤモンドを砕いたような朝陽が食卓を照らす。スタンリーが一口珈琲を啜った後、茹で卵に手を伸ばして口に運ぶ。はそれを、両手で持ったマグから珈琲を啜りながら視線で追った。
「パティオにすればよかった 天気良いし勿体ない」
「別にどこでもいいだろ 飯食うだけじゃん」
「…スタンリー?あなた今地雷原にいるから 発言 気をつけたほうが良いかもね?」
グラノーラにスプーンを差し込んで口に含みながら、鼻で微かに笑ってスタンリーは目の前で無意識にずっと自身の食事を観察する女を見遣る。出会った頃から、食事の席を共にする時はいつもこうだった。数年間続けている癖なのに、未だ本人に自覚した様子は微塵もない。それを教えてやろうと自分が思ったことも一度もない。スタンリーは咀嚼しながら器のグラノーラとヨーグルトをスプーンで掬って、もう一度呼吸に笑いを混ぜる。
「飯 食いな」
「分かってる」
「どうかね」
「分かってるって 急かさないでよ」
マグカップを置いてようやく自身の朝食に手をつけ始めるに、急かしてねえだろ、と言うと、スタンリーは珈琲を口に含んで自身が持ってきた紙袋に手を伸ばす。何買ってきたの、と尋ねるの声に答えようとして、僅かに手を止める。そうしてからのメッセージを思い返す。ベーカリー寄れたらパン買ってきて。何を買ってこい、とは言われなかった。数は確認した。それ以外は、除外対象がないという認識さえあれば十分だった。結果、完全に自分の意思で選んで買ってきた。極限にいる人間への糧を研究するこの女の職業柄、対象となる人間が何を好むのかは重要な情報だ。
「…へェ、やんじゃん」
「あ、やっぱチーズクッペは買ってくると思ってた ベーグルか なるほどね」
スタンリーは紙袋を掴む手を、席から立ち上がって紙袋の中を興味深そうに覗き込むの頬に伸ばす。触れた瞬間に視線が交わる。しかし交わったのは数秒だけで、すぐに逸らされる。なに、急に、と言って何もなかったかのように努めて自然に席に戻って食事を再開するは、一度もこちらを見ない。スタンリーは朝陽の中でベテルギウスのような煌めきを潜めた双眸を細めてその様子を見極めると、微かに口端を上げて笑った。
「何で逸らす、目」
取りそびれた紙袋を再度掴んで中からチーズクッペを手に取る。は僅かに唇を噛んで数秒口を噤む。スタンリーはチーズクッペをひと齧りしてその様子を面白そうに眺める。
「いや、だって…ごめん無理」
「何が」
「………近距離はちょっと 直視できない……」
「とっとと慣れな」
朝の食卓の静寂がなければ風に吹かれて消えるほど覚束ない言葉を耳にしながら、スタンリーは目の前の女の首筋でその拍動を視認する。自然と喉で笑う声が漏れる。その音を聞いて、ぱちりとが瞬きして視線を上げる。
「お前心拍速すぎだろ」
「ね〜〜〜もうやめて本当 そのスキルずるいって」
「諦めんだな」
BARYCENTER
03.25.26