「ゼノ、ふざけてるの?」
無機質な蛍光灯が隈なく照らすビルディング9のキャットウォーク上から、驚くほど乾いた声がした。モックアップが並ぶ格納庫の巨大な空間を満たす空調のホワイトノイズに混じって、その声は僅かに滲んで消える。
「おおまさか ふざけてなどいない、事実を述べている」
「これ以上削るなら、“食事”という前提を外して この条件ならもう別のものよ」
「、君が言う理想形は理解している だが現行の機体ではそれは実現できない 分かっているだろう」
「重量も電力も場所も制約があるのは分かってる 否定もしてない」
実物大モジュールの前のキャットウォークに冷えた沈黙が落ちて凍る。沈黙を短く途切れさせる無線の通信音の合間に鳴る靴音が、カン、カン、とスチール製の足場を躊躇なく踏んでいく。
「ただ Dr.ゼノは”実現できない設計”を前提に”人間”を乗せる判断なんだねと言ったのよ」
「リスクをゼロにすることは不可能だ」
「当たり障りのない事実ね それを極力目指すのは不可能とは別物でしょ」
何者にも触れられない氷の如き声が、黒曜石のように冷たい双眸に向けられる。絶対零度の音が物言わぬモジュールの金属に触れてその輪郭をぼかす。ゼノの冷えた瞳が光さえ打ち負かしてを見詰める。
「君が何を言おうと構わないがね システム上はこれが全体最適であることは揺らがない事実だよ」
「その全体に含まれている人間が破綻するなら それはシステムの破綻よね」
「…」
「これ以上は絶対に削れない」
「おお、困ったな」
感情の薄い声での言葉を受けるだけで、ゼノは何も言わない。その様子を見続けるにも、もはや言うべきことは何一つないようだった。しばらくの間、互いにそのケルビンの静寂に身を浸す。の傍に佇む男性研究者が僅かに居心地悪そうに身動ぎする。靴音が階段を登り終えてスチール板を踏むと同時に、はキャットウォークを後にするために身を翻した。しかし不意に目と鼻の先で濃紺の制服と出会って、ほんの僅かにその身を引く。トパーズの瞳が、無機質な明かりの下で一つの瞬きと共にを見る。その視線を真っ向から受けながら、は何らの言葉も感情も渡さずキャットウォークを降りて行った。その後を研究者が倣う。
「やあスタン」
「相変わらず相容れねえな」
スラックスのポケットに片手を預けながら、スタンリーはその金の睫毛を僅かに揺らして瞳を細め、遠ざかるの動きを拾うように追う。
「フフ…ああやって抗わねば自分の領土が脅かされる 彼女の科学を受け取る側が不利を被る」
「…」
「だから状況を理解していても言葉にする おお 愛するもののための 科学者としての極めてストレートで高潔な献身というわけだ」
格納庫の天井から降り注ぐ人工的な明かりを受けて、オブシディアンの双眸が一際深まる。ゼノは傍らの実物大モジュールから視線を外すと、キャットウォークを降り切って格納庫の出入り口へと向かうと研究員を見詰めた。薄く小さな笑いが呼吸に混ざる。
「あの研究員は一度でも口を開けば完膚なきまでに叩きのめされるだろうな 我らがオルレアンの乙女に いや 僕はイングランド側だったね」
「確実にやられんよ 読めてねえって面だ」
「君は行かなくていいのかい 会議だろう」
「ああ、…ゼノ あいつと話して最近気になったことは」
「?いや、何もないよ」
「アレ 片耳聴こえてねえぜ」
その声はまるで何度も解いて分かり切った計算式の解を口にするようだった。横でひとつ落ちる溜息にスタンリーはちらりとゼノを見遣る。そうして何かを思案する様子の自身の幼馴染に、呼吸のついでに小さく笑うと、短い別れの挨拶を落としてその場を後にした。
「先輩、ゼノ博士の言う通り、もうこれ以上は出来ないんじゃないですかね…」
ビルディング9を出て、春先の午前の眩い日差しを浴びるとすぐ、の横を歩く男がぼそりと呟く。それは氷が溶けたかのように溢された心の裡だった。は僅かに睫毛を揺らす。
「ゼノの言う通りってどういうこと?」
「さっき博士が実現できないって言ってたじゃないですか」
「ああ…」
舗装された道を迷いなく歩く足が止まる。確かにもう出来ることはないでしょうね、と言って、は誰に向けるでもなく小さく息を吐いて嘲笑う。風が吹いて、観光客の喧騒が遠くから波のように寄せては返す。視界の端で、空軍のサービスドレスに整然と並ぶ銀色のボタンが新星のように眩く光る。
「今あなたが言った”出来ない”、と、さっきゼノが言った”出来ない”は全然違うものよ 気付いてない?」
「え?」
「現行の機体ではとゼノは言ってた」
「あ」
「専門家として最前線にいる奴が 出来ないって言葉を 自分の諦めのために雑に使うな」
その一言だけが、春の日差しの下ですら凍るような音だった。冷たすぎて燃えるように熱いとすら感じるそれの、正確な温度は判別がつかない。傍に立つ研究員は、その諦めと執着の入り混じる不思議な声音を聞きながら、ただ揺れる睫毛の合間で美しく陽射しを通すの瞳を見ていた。周囲を包む、春風にも流されない沈黙を、傍にやってくるたった一つの革靴の音が僅かに押しやる。
「 遅れんぜ」
「…分かってる わたしこのまま会議に行くから またあとで」
「分かりました」
研究所のビルディングの方向へ足を向けて去っていく研究員の背中を数秒だけ見送って、は無意識に大きく息をついた。風に触れて微かに煙草の匂いが漂っている。池のほとりから飛び立つ鴨の鳴き声が余韻を残して消えていく。スタンリーは残された沈黙を引き受けて、何も言わない。は振り返って、ようやく自身に向けられているトパーズの双眸を見返した。体に沿って仕立てられた、鈍く光を受け止めるサービスドレスに身を包んだ男は、その軍服の整ったラインと抑制された色彩も相俟って見事に規律と職務を体現している。普段に拍車をかけて揺らがないその様子は、時を忘れて眺める星と等しくひたすらに美しい。を見下ろす瞳が、瞬きの度に陽光を弾く。
「会議、俺の右側に座りな」
「……」
「細けえ話はあとだ」
「時間」
はたとスタンリーから視線を外して腕元のスマートウォッチに視線を落とすと、は目的の会議室のある建物への移動を再開する。助かる、と小さく告げる声の柔らかな温度に、スタンリーは微かに喉で笑う。春の柔らかな世界から、無機質な建物に入って、エレベータで目的の階に着くと会議室に向かう。スタンリーがドアを開けて、先にが足を踏み入れる。すでに到着している面々の視線を一つの瞬きで受けると、は自身が正確に拾うことのできない左側をスタンリーに預けて席についた。両組織の参加者が全員揃っていることを確認して、では、と口火を切る。
「まず今回の議題に含まれている多様化についてですが、設計要件として一定の考慮が必要です」
「それなんですがね 結論から述べると NASAが要求するメニューの多様化は認められません」
「…理由は?」
「我々にとって糧食は燃料と同じです 必要なカロリーが計算通りなら、任務に支障はない 好みは個人の問題でしょう」
そこにリソースを割くのは合理的とは言えない、と言って軍服を着た恰幅の良い将校がまるで興味もなさそうに資料を一瞥する。空調のノイズが床を這うように絶え間なく鳴っている。冷え切った沈黙が、嘲笑うように意識に触れて室内を満たす。
「…単なる好みや個人の話ではありません 環境による身体的変化も影響します 高ストレス環境や無重力環境では味覚が鈍化し、特定の味に偏る傾向が出る」
「味付けを強くすれば良いのでは?」
「一部はそれで対応可能ですね ただし一部だけです 辛味や酸味への嗜好変化は個体差があります」
人間という生き物をすべて同じ規格に収められないことくらい分かっているくせに、と胸中でだけ呟きながらも、この評価軸の差がただの視点の違いであることも分かる、とは思った。先日の夜遅くにカフェテリアで、味はどうでもいい、と言いながらも、何が問題かを理解していた男を思い出す。同じ生存を目的としていても、軍にとって、こちら側の言葉は理想論なんだろう。しかし軍の上層の言葉もまた、現場にとっての理想論になりうる。漏れなく同じ規格に収めようとするなら、人間を人間として扱うのをやめる以上に有効な方法はない。だが、現場にいるのは人間だ。
「それでも選択肢の中から食べるでしょう 空腹なら」
「人間は合理的に食べませんよ 機械のように都合よく出来ていない 同じ食品が続くと、空腹でも摂取を避ける行動が再現性をもって観測されています」
ちらりと資料から目を離して、将校がを見遣った。僅かに強まる興味の視線に、は自らの心拍を二つ数えて緩く瞬きをする。会話の応酬を見守る参加者の視線が将校に倣う中、ただ一人、の左側に座るバターブロンドの若い軍人だけが倣わず、室内の全員を静かに眺めている。
「資料6ページ 閉鎖環境試験とISS双方で同様の傾向が出ています 特定メニューの反復で摂取頻度が低下し、代替がない場合は総摂取量が落ちる」
「…」
「これは統計的に再現される行動です 好みや個人の問題ではない」
「我々にとってどの程度影響する?」
「摂取量低下はそのまま体重減少と筋量低下に繋がります そして一度低下が始まると、途中で補正できない 宇宙も、戦場も、補給は限定的ですから」
「不可逆ということか」
「一点良いでしょうか」
将校の隣に座る分析担当の男が、よく通る明朗な声で会議の場に加わる。自身の発言が誤射にならないよう念入りに資料の前半にある要件に目を落として確認すると、その男は顔を上げて真っ直ぐにを見る。
「君たちNASAの設計要件通りメニュー数を増やせば、在庫管理が複雑化する 誤配や期限管理のリスクも上がる」
「…その点は同意します なので、単純な品目増ではなく、基礎構成は維持したまま変化要素のみを組み込む形を提案します 例えばベースは共通化し、味付けや食感を小型モジュール化する」
「それでも追加部品が増えます」
「品目を多様化するよりは限定的です」
「しかし」
「むしろ総摂取量の維持によって、予備カロリーの積載を減らせる可能性さえあります」
しばらくの間資料を捲っていた将校の指先が止まる。視線を受けて静寂に包まれる中で、煩いほどの耳鳴りがする。は手元に置かれたペットボトルに手を伸ばして水を口に含む。その動きをトリガーにするように、視界の端で、動かずに状況を観察していたバターブロンドの髪が僅かな身動ぎに合わせて揺れた。
「現場じゃ同じもん続くと餓死寸前でも食わなくなる奴が出る 根性じゃあ解決できねえらしい」
まるでバグだな、と言って温度もなく嘲笑う音が、会議室の真ん中で彗星のように尾を引いて余韻を残す。将校がスタンリーを眺めて、もう一度資料に目を落とす。それから分析官と目配せをして、将校は椅子の背凭れに体を預けると、一つ大きな息をついた。
「……理解した 完全な多様化は認めないが、モジュール化による変化要素の導入は検討に値する」
「ありがとうございます」
「ただし条件が三つある」
「はい」
「一つ、重量増は現行設計比で2%以内 二つ、補給計画への影響がないこと 三つ、管理工程が単純化されること」
「了解です その範囲で設計案を再提出します」
「好みは目的ではない だが結果として摂取量と任務安定性に寄与するなら、運用上の要素として扱う」
「その位置付けで問題ありません」
そう言って将校とが互いに一度だけ視線を交わした後、会議は別な議論へと移っていく。やがて全ての議題を終えて、忙しなく席を立つ軍の戦闘糧食部の面々を立ち上がって見送ると、スタンリーがの右側のテーブルに寄り掛かる。人気のなくなった静かな会議室に、低く落ち着いた声が滲む。交わる視線の先で、シェリーのような双眸と眉尻がほんの僅かに柔さを見せる。
「…やんじゃん」
「ギリギリだけどね… 援護射撃ありがとう さすが最強のスナイパー」
「うるせえな ホントんこと言っただけだ」
「…ひとまず 設計で解決できる”バグ”を、精神論で放置せずに済んで良かった」
「…」
「訓練されていようが規律があろうが 糧食を受け取るのは生身の人間でしょ」
まるで初めて詳細に捉えた星を観測するようにスタンリーを見詰めながら、は独り言のように呟いた。そっと手を伸ばして、一度だけスタンリーの頬に触れる。蛍光灯の明かりの下でを映す琥珀色の双眸が微かに心地良さそうに細められて、金の長い睫毛が揺れる。柔い静寂が満ちる中、離れてもなお指先に残るその温度と僅かの柔らかさを丁寧に覚えるように、はひとつ瞬きをした。それから、テーブルの上を片付けようとして不意にやってくる強い耳鳴りと揺らぎに、眉根を寄せる。掴みな、と普段と何ら変わらない声音で言うスタンリーの腕を掴んで、揺らいだ平衡感覚を取り戻すまで、目の前の軍服のネームタグにそっと視点を定める。耳鳴りに交じる、空調が生む絶え間ないホワイトノイズが、じわりじわりと室内の乾いた空気を満たしていく。
「…医者は」
「行った」
「…」
「…、…突発性って言われた」
スタンリーはの呼吸に耳を澄ませる。徐々に深く落ち着いていくそれを聞きながら、ちらりと自身の腕を支えにするの手に視線をやって、その指先に先程より力が入っていないことを確認する。片耳で集中して全ての音を拾おうとすれば脳への認知負荷は一気に上がる。いつからこの状態なのかは知れないが、医療機関に掛かったなら原因はある程度分かっているはずだ。問題は、その原因への対応コストを自身で払う気がないか、払う余剰リソースがないことで、この状態が定着するか長引くことにある。症状を逃がすことに成功して深く息を吸うの視線を拾って、スタンリーはその様子を瞬きとともに眺めた。適切にメンテナンスもせず機能するものはこの世界に何一つない。
「、今週の予定は」
「…いや、特にないけど 何かあるの」
「泊まんよ 今週 お前ん家にさ」
「え」
「嫌ならうちでもいいぜ 選びなよ」
不敵な笑みとともに、嫌なら、と言って続く代案が本来の案と本質的に変わらないことに、は数秒のあいだ口を噤んで瞬きとともに思案した。プランAもプランBも、どちらにも共通するのは、今週いっぱいはスタンリーが自身の傍にいるという状況だ。しかし巷のカップルのように、もっと一緒にいたいからなんて理由ではないだろう。は支えとして差し出され、掴んだままだったスタンリーの腕に、そっと視線を落とす。会議の間、彼がずっと自身の左側にいたことを、思い出す。
「……我が家で」
「OK 仕事終わったら連絡しな」
スタンリーの簡素な言葉に僅かの音で返して、は手元の資料とラップトップをトートバッグに入れるとドアへと向かう。最後に改めて室内の状態を確認しながら、会議室の照明をオフにする。会議室のドアが音を立てて閉まり、機械的なノイズを含んだ静寂が廊下に満ちても、ゼノも呼んでお昼食べよう、といって溢れる二人の他愛のない会話は緩やかに続いた。
REDUNDANCY
03.30.26