「ねえスタンリー」

ソファに座るは胡座の上に載せたラップトップのキーボードを叩きながら、パティオから春の温い夜風とともにリビングに戻ってきたスタンリーに声をかけた。スタンリーは呼吸に混ぜた僅かの音で返事をする。リビングに仄かに煙草の匂いが混じる。

「この間の会議で 空腹でも摂食を避けるようになるって話あったでしょ」
「ああ」

キッチンに寄って常温の水を手に取ると、スタンリーはペットボトルのキャップを開けて歩きながら水を喉に流し込んだ。キャップを閉めて、の隣に無造作に腰掛ける合間に、伸ばされた手にペットボトルを手渡す。ソファの背凭れに両腕を預けて、が水を飲んでテーブルの上に置く間、それを眺める。途切れたタイピング音の代わりに外で聞こえる街路樹の騒めきが窓をすり抜けて夜のしじまを飾る。

「あれ 何でか知ってる?」
「知んねえよ」
「…。」
「俺の仕事じゃねえだろ」

スタンリーが喉を鳴らして低く笑う音がリビングに滲む。は隣で生まれたその音を聴きながら、もうこのリビングの静寂にも慣れた、とふと思った。普段なら途切れなく音楽が流れているはずの室内に、音が必要なくなったのはいつからだったろうか。多くの会話があるわけでも、何かを言われたわけでもないのに、その習慣は自然に変化して不思議と生活に馴染んだ。彼といる時間は、音がないほうが豊かだった。

「んで」
「生物学的には生存本能なの 本来はね」
「へえ」
「生存のために多様な栄養素を摂取させようと、単一の味の繰り返しを脳が否定するのよ」
「つまりホントは生き延びるための仕様が現場で足引っ張んのか」
「そういうこと」

満足げに笑うの瞳がスタンリーの視線と交わる。そりゃあ皮肉だね、と言って、スタンリーは再び仕事に戻ったに視線を向けたまま、ひとつ緩やかに瞬きをした。月の光で編んだような睫毛が揺れる。月曜から泊まり始めて数日経ったところで、いくつかのことが自然と変化した。隣に座る女は楽だからと言って自分の持ってきた着替えを当然のように部屋着にしている。一昨日以降、常に何らかの音があった部屋から音が減った。は言葉を選ぶために思考する癖が僅かに緩んできている。

「ところでスタンリーさん あなたはそろそろ寝ないとじゃない??朝早いでしょ」
「まるで問題ねえよ」
「…」
「教えてやってもいいぜ、寝ないで動かねえ スナイプの待機時間」
「いや、いい、いらない、生物学的な基準を優に超えてくることだけは既にわかる」
「だべってる暇あんならとっとと仕事終わらせな」

一つ伸びをしてちらりと時計を見ながら、もう終わる、と言うが、ラップトップに視線を戻しキーボードを打とうとしてふとそのままその手を止める。

「スタン」
「…」
「本当にないの」
「ねえよ」
「まだ何のことか言ってない」
「さっきん話だろ」
「…」

ソファ前のテーブルに置かれたペットボトルに手を伸ばして、スタンリーは大した抑揚もなく返す。ラップトップの画面を眺めたまま、沈黙とともに二つ、三つ、四つと自身の心拍が耳の奥で鳴るのを聴いた後、はキーボードを再び打ち始めた。定速の軽やかなタイピング音が途切れることなく静寂に混じる。スタンリーはその様子に目をやったあと、掴んでいたペットボトルを口元に運んだ。立ち上がってキッチンへと向かいながらペットボトルを潰して捨てる。ひどくはっきりとした輪郭の音が静寂を割るも、直後に雪崩れ込む柔らかな夜の沈黙が余韻の生き残りを許さない。キッチンの電気を消して、スタンリーがもう一度ソファまで戻ると、ちょうどラップトップが閉じられる軽い音がの深呼吸に混じって消える。

「終わった…」
「先寝るとこだったぜ」
「えじゃあもう少しやっても良かったな 寝顔見…」
「…」
「……」
「最後まで言いなよ」
「…」

の横、ソファの肘置きに腰掛けたスタンリーが不敵に目を細めて嘲笑う。柔らかに曲線を描くバターブロンドの髪が揺れて、嗅ぎ慣れた煙草の匂いが微かに漂う。はオーバーサイズのスウェットシャツの、指先を隠してもなお余る袖口で顔を覆った。喉で笑う愉しそうな音が、掠れて夜のリビングに滲む。慣れた、と思うたび、この場所に連れ戻される。心の中がひっくり返されて、綺麗に整理したはずのものを台無しにされるような心地に、は小さな呻き声を上げた。顔を覆う袖と頬の間にスタンリーの手が滑り込む。否応なしに顔を覆っていた両手を降ろさざるを得なくなって、は大した力も要せずに自身の防御を解いて視線を奪ってしまう目の前の男に、いよいよ一つ溜息をついた。家の前の道路を、一台の車が通り過ぎて行く音がして、その後を夜風に揺れる木々の梢が追う。間接照明の明かりを受けて、真っ直ぐに自身だけに注がれる双眸は金星のような色をしていた。腹の底で熱を持つ酷く原始的な欲求に、僅かに息が詰まる。ずっと長いこと、遠くから美しいと眺めていたはずの星はもう、何も知らずに見詰められるほどの未解明ではなくなっていた。

「スタンリー」
「…」

それはかつて夜の深い森で聴いた、自身の本能を満たそうと対の雄を呼ぶ生き物の音によく似ていた。ソファの肘置きに腰掛けたまま、スタンリーは静寂の中たった一度呼ばれる自身の名前に応じるように身を屈める。先ほど添えた手での頬を撫でて、何度も繰り返し小さく呼吸を奪う。微かに響く鼻にかかるような音がリビングの温い夜の温度を上げる。首筋に伸ばされた腕の柔い引力に従って重心を僅かに預けると、スタンリーはソファに倒れ込むの上にそのまま覆い被さった。ぎし、とソファが軋む。生物として圧倒的に優位な自身に組み敷かれながら、少しの警戒心も拒絶もなく見詰めてくる瞳を眺める。頬から左の耳を撫でると心地良さそうに双眸を細めてその身を預ける目の前の女の呼吸を、もう一度奪う。愛用する銃のように、全部バラして隅々まで理解したい。全部自分の手で組み立てて、自分の体にだけ馴染ませたい。スタンリーは微塵の遠慮も迷いも持たない手のひらを、自身の着替えだったはずのスウェットシャツの裾から差し込んでの肌をなぞった。スタンリー、ともう一度呼ばれる名前に、ひとつ瞬きをする。あの冬の駐車場で自分を呼んだ時と同じ音が、欲を潜めて呼ぶ声にこうして時々入り混じることを、幾度数えたか知れない。何の思考にも言葉にも変換されない、純粋な情報に満ちた反応を拾いながら、スタンリーは呼吸の合間に呼ばれる自身の名前に幾度も耳を澄ませた。








QUALIA
04.02.26