清々しい風の遥か上から、夏の名残を携えた太陽光が容赦なく降り注ぐ。事前に発行されたビジターパスでエリントンフィールドの軍基地ゲートを通り、駐車場に車を駐めると、はカツカツと軽やかに鳴るヒールの音を連れて管理棟へ向かった。入口の分厚い扉をくぐり、背後でガチャリと重たい音がした瞬間から、外界の音が消える。外で鳴っていたジェットエンジンの音すら侵入できない無機質な静寂の中に、気付かないほど自然にジーという電源ノイズのハミング音が混じっている。窓の少ない廊下の先で、見慣れたバターブロンドの髪が揺れる。自身に向けられた双眸が僅かに細められるのを認めて、は建物に入ってからようやくひとつ息をついた。
「よう」
「スタンリー、おはよう」
「…」
長い睫毛の間で微かな光すら拾って自らのものとしてしまう美しいシェリーの瞳が、一つの呼吸の合間、観察するようにに注がれる。その視線を自由にさせたまま、は蛍光灯の下で鋭利に光を弾くネームタグに視線をやって、それからすらりとした軍服姿の目の前の男を改めて見詰めた。端正に隙無く着こなした軍服の上に、経歴を語る水平な色の積層が美しいリボンラックと資格や所属を表すバッジが、少しの偶然も許さない配置で並んでいる。何度見ても心の底がちりつくその姿に、は幼い頃から飽きることなく眺め続けている、観測可能な宇宙の最果ての写真を思い出した。
「問題ねえな」
「ちゃんと聴こえてるよ 再発もしてない」
「来な 先に書類からやんぜ」
数ヶ月かけて様子を見てきた左耳の状態は、最初のうちこそ症状が安定せず手に余したものの、その後はゆっくりと、しかし順調な回復を見せていた。後遺症も再発もなく、投薬ももう終わる。は、来な、と言うや否や、踵を返して歩き始めるスタンリーの背を数秒のあいだ眺めた。すぐに床のタイルを叩く革靴の音が止んで、大して反響もせず壁に吸音されて消えていく。嗜めるような低い声が、次の静寂を待たずに生まれる。
「」
「今行く」
光を含んで金の糸のように美しいバターブロンドの髪の先が、立ち止まった余韻で緩く揺れる。音もなくこっそりと笑んで、は追いつくまで動かないその背を追った。ドアを通り過ぎる合間にかろうじて人の気配を寄越してくるぼやけた会話が聞こえるだけで、人の形をしたものとはすれ違わない。その代わり、至る所に設置された監視カメラの視線だけがびたりと付いてくる。息の詰まる密度の高い沈黙が、規律と権威と管理を滲ませて満ち続けるこの建物に来る度、自らが異物であることを自覚させられる。それはまるで、壁一つ向こうにどこまでも続く宇宙の恐ろしさを感じながら密閉された狭い宇宙船の中に一人で居るような、ひどく不安定で、孤独な心地だった。スタンリーは歩く速度を合わせたまま、胸ポケットに入れた煙草の箱から煙草を一本取り出す。無駄のない慣れた手つきでそれを咥えながらライターを手にして、辿り着いた扉を押し開ける。空調のホワイトノイズが揺蕩う無人の会議室は、過剰なほど丁寧に蛍光灯に照らされていた。
「読んだらサインしな」
そういって渡された書類に目を通しながら椅子に腰掛けて、は手慣れた様子で書類にサインをしていく。スタンリーはテーブルに斜めに腰掛けて、カチリと煙草に火を点けた。深く息を吸う柔らかな音が、密度の高い沈黙を遠ざける。嗅ぎ慣れた煙草の匂いに、は書類から目を離して、紫煙を換気口に向けて吐き出すスタンリーのトパーズの双眸を見遣る。
「本当にたった一つの最悪なバグよね」
「うるせえよ」
口端に不遜な笑みを浮かべて返される声音が、電源ノイズのハミング音をいとも容易く追い払う。が最後の書類にサインしてペンを置くと、それを合図とするようにスタンリーは煙草を咥えたまま書類を手にしてそれらに目を通す。ひとつ瞬きをして書類をバインダーに戻し、急ぐでもない様子で優雅に一服を嗜む見慣れた男を、はテーブルに頬杖をついて眺めた。煙草の灰を携帯灰皿に落とし、スタンリーは煙草を咥えて肺に煙を含めながら、の視線を拾う。科学者としての矜持が煌々と奥に潜む双眸には、一抹の緊張と安心が混ざっている。二人分の微かな呼吸音が会議室の静寂を温める。
「いつでも行けんぜ」
「…煙草、終わってからでいいよ」
頬杖をついたまま呆れたように呟くに喉で嘲笑って、スタンリーは咥えた煙草を最後まで丁寧に味わった。
「おし 揃ってんな」
来た時よりも強い太陽光がエリントンフィールドの格納庫脇のコンクリートを容赦なく照らす中、遠くでアイドリングするT-38のジェットエンジンの音と燃料の香りが五感の殆どを支配する。もはや少しの気休めにもならない風が頬を撫でるのを感じながら、は横に立つスタンリーの静かな、しかし絶対的な声音に耳を傾ける特殊部隊員らを眺めた。
「長期生存糧食テストを行う 手順はプラン通り 変更はねえ」
装備を身に纏って整列した全員の視線がにわかにに向くも、即座にスタンリーがその視線を全て回収する。ちらりと、サングラスをかけた褐色の偉丈夫が何かを確認するように再びを見たが、それもほんの一瞬の間だけだった。まるで暑さなどないかのように涼しい顔で酷く短い言葉を発する男の声はジェットエンジンの遠巻きな唸りにも微塵も掻き消されない。
「補足は」
「では改めて この長期生存糧食のプロトタイプは不時着後の救助待ちを想定し、負傷で下がるエネルギー生成を補いながら、最小限の体積で生存確率を最大化させるためのものです 忌憚ない意見をお願いします」
「全員聞いたな 問題は報告」
「了解」
「開始」
強い重力を持つ声が、たった一音節の英単語で全体を動かす。はちらりと横のスタンリーに視線をやると、当たり前のようにそれを拾うトパーズの双眸を読んで隊員らに近づいた。屈強な隊員の中でも圧倒的な肉体を誇る女性隊員と、サングラスを掛けた偉丈夫の隊員と並ぶ、鷲鼻が特徴的な痩せ型の隊員が、片手で開ける、と言ってタクティカルグローブでパウチを掴んで歯で開ける。辛うじてジェットエンジンの音の合間を縫って届く小さな、聞き慣れた音に、しかしその軍人は僅かに動きを止めてしばし沈黙した。そして傍にやってきたをちらりと見下ろす。
「…博士、森や原野には、枝が折れる音や葉が擦れる音、動物が動く音はいくらでもありますが この音の周波数は自然界に存在しません」
「……。どこに不時着するか分からない以上、不自然な音だとリスクがある もし敵対的エリアなら」
「そうです 私ならこれだけで敵の位置を特定できます」
はたと顔を上げて、は瞬きも忘れて目の前の軍人を見た。音がすると心理的に食べられない、という声は幾度もテストで拾ってきた。しかし音の大小ではなく自然界の周波数について、果たして今まで意識したことがあっただろうか。
「すごい」
「いえ…」
控えめに賛辞を受け取る隊員は、すでに地面に座り込んで手元のタブレットをタイピングしている女の様子を見遣ったところで、不意に何かを察知したように音もなく視線を上げ、バターブロンドの男を確認する。軍服を見事に着こなしてなお、涼しい顔で容赦のない陽射しの下に立つこの隊を束ねる男は、しかし少しも位置を変えず全体を見ていた。その横で、開けたパウチの中身を豪快に口に含む女性隊員が声を上げる。
「すごぉ〜い 水なしでいける〜 思ったより喉に来ないねえ」
「塩分量を」
「な〜に?」
「…」
二メートルを超えるかというほどの恵まれた体格の女性隊員が、地面に座るの声を拾いきれずに屈む。図らずも強い日差しが遮られて、は和らいだ陽射しに密かに安堵の息を吐きながらその女性の生命力に満ちた美しい瞳に返事をする。
「塩分量を調整してます」
「待って」
「…」
「味は悪くないんだけどぉ」
スパイラルパーマの女性隊員が残りの糧食を口に入れて、耳の裏を指で叩き、周囲に視線を動かす。その視線の種類には酷く見覚えがある、とは一つ瞬きをした。そうして先程の動作の意図を探って、胸中で仮説を立てる。女性隊員が、食べる音で周りの音聴こえないのよねえ、と呟くのと同時に、メモを取る。どの程度口に含んだか、どの程度の時間咀嚼したか、咀嚼音の減衰時間はどの程度か。タブレットの液晶に映るテンプレートの枠内に打ち込んで、備考欄を埋めていく。
「水分依存も知りたいので喉の渇きが出るかどうか後で教えてください」
「はぁ〜い」
「そちらはどうですか?」
「ん?ああ、サイズは完璧だな だが…」
そう言ってサバイバルベストのポケットに糧食を差し込んでその感覚を確認しながら、サングラスの奥の瞳が僅かに困惑する。手元を見ずに、指先の勘だけでポケットに入れた糧食を引き抜こうとして手を止める。
「嬢ちゃん こいつは綺麗すぎる 道具としての個性殺しちまってんぞ」
「…ごめんなさい、もう少し詳しく」
「手触り良すぎてこれが”食料”なのか”予備の弾倉”なのか、脳が即座に判別できねえ」
はタブレットに置いた手を動かすこともせず、太陽の下でひたすらに健康的な偉丈夫を凝視して沈黙する。サングラスの向こうの瞳が知的な好奇心を携えて笑う。
「サバイバルギアにはもっと指先に不快な異物感が必要なんだよ」
「…」
「これもな お嬢ちゃんの目には食料だろうが 兵士にとっちゃ弾薬と同じ装備だ」
ざわりと肌が粟立つ感覚に、はようやく一つ瞬きをした。無意識に詰めていた呼吸を微かに押し出す。かつて、同じ言葉を宇宙飛行士候補生らに暴力的に投げていたトパーズの瞳が美しい男と、ベテルギウスを眺めるようにその男から目が離せないでいた自身の焼けるような感情が蘇る。
「音が鳴らず、目立たず…確実に機能しねえと、どんなモンも現場じゃ不良品てわけだ」
はタブレットに置いたままの手を僅かに握った。極めようとすればするほど押し広げるべき境界線は円になっていく。嗜好性は極限状態における人間性の最後の砦だ。しかし同時に、”弾薬”としての機能性が伴わなければ生存確率を最大化出来ない。追跡から逃れるための音の擬態、索敵能力を妨害しない身体性の維持、どんな状態でも迷いなく手にできる識別性。は地面に座ったまま、サングラスの向こうの双眸を見詰め続けた。じわりと太陽よりもずっと近いところで熱が生まれて目頭を焦がす。それを、夏の尾を引くテキサスの太陽が余すことなく拾って瞳の中に星のような光の粒を生む。わたしは彼らが教えてくれたことを、活かせる場所にいる。どんなに小さくても、いつか彼らを窮地から救い出す可能性を、積み上げられるかもしれない。
「嬢ちゃん えらい良い目してんな 気に入ったぜ 名前は」
「」
「ブロディだ」
「わたしマヤ〜」
「レナードです」
よろしく、と言っては思い出したようにタブレットに視線を落とす。得られた情報を入力している間に、テストを終えた隊員らが集まってくる気配がする。一通り入力を終えてタブレットを閉じると、は立ち上がって土埃を払った。鋼のような分厚い肉体を持つ隊員たちが自分を囲んで感想戦をしている。はたと気付いて、は周囲の軍人らに視線を投げる。
「水分依存について聞かせてください 喉の渇きは?」
「なに?」
「喉の渇きは?」
「ゼロとは言えないが耐えられる」
「俺は結構渇いててこのままはきつい」
「そうですか」
「ん?」
「…えっと」
首を傾げる隊員に、は視線を合わせたまま一つ瞬きをして沈黙する。遠くで航空機が離陸するジェットエンジンの音がして、僅かな風が吹き抜けていく。なんでもないです、と先程より大きな声で言って笑うと、隊員が人好きのする笑みを返して、装備を片付け始めた。
「俺らの糧食も引き続き頼むよ、NASAの先生」
「あれもこれも叶えるんじゃ大変だろ」
「まあ…今完璧を作れなくても やれる方法を探すことは無限にできますから」
「バハハ!良いねえ」
「先生、働きすぎると早死にしちまうぞ 俺たちと違ってあんた鍛えてないんだから」
「じゃあそれまでに後継者を見つけないと」
「え〜そういう感じなの〜?意外ね〜」
「そうだ、プロトタイプのゴミと残りはすべてこちらで回収します」
少しの距離をおいて聴こえてくる会話に眉根を寄せ、スタンリーはその睫毛の影に潜んで温度の知れないトパーズの双眸をすっと細める。大きな肉体の合間に見える女を片時も見失わず、沈黙を纏ったまま観察しながら煙草を咥えて火を点ける。深く息を吸って、太陽光に煮詰められたように重い空気に煙を吐き出す。が回収までのタスクを終えて、思い出したように自身を見て戻ってくるのを、スタンリーはスラックスのポケットに片手を預けたまま眺めた。
「スタンリー」
「声、張んねえと聞こえねえぜ あいつら慣れてねえかんね お前との身長差に」
風下に煙を吐いて煙草を咥え直すと、スタンリーはその口端で僅かに不遜に嘲笑う。トパーズの双眸が晩夏の陽射しを受けて光を弾くのを眺めながら、返事を紡ぎかけたはしかし何かを考えるように束の間沈黙した。ひとつ、ふたつと瞬きする度に撓む睫毛が、はたとスタンリーに向けられた視線と共に大きく揺れる。
「え、わたしこれから声張ったほうが良い??」
「いんねえ 俺には聞こえてる」
聞き返したことねえよ、と言ってと視線を結んだまま一つ瞬きをすると、スタンリーはその視線を部隊に戻す。もう一度深く肺に煙を入れたのち、煙草を携帯灰皿に押し込んで、一歩前に出る。少し離れた距離にいる隊員らがそれに気付いて手を止める。
「記録は後で提出しな」
「了解」
「解散」
それだけを隊員らに告げて、スタンリーは視線でに退席を促すとそのまま屋内に繋がる扉へと歩き始めた。は数秒のあいだ隊員らを眺め、振られた手にいくつか振り返してスタンリーの後を追う。開けられた通用口をくぐるとジリジリと首筋を焼く陽射しが和らいで、ジェット燃料の香りに慣れた鼻先を煙草の匂いが掠める。昼飯どうする、という声に視線を上げると、蛍光灯の下で出会ったその双眸はベテルギウスの煌めきのように美しかった。
SIWARHA
04.05.26