階下でワインボトルの割れる音がして、はひとつ瞬きをした。ドアが施錠されていることを目視で確認する。カーテンが開いたままの窓から音もなく美しい夜光が注いでいるのを少しのあいだ眺めて、はそっとクローゼットの中に踏み込むと扉を閉めた。もはやどこにも安心など残っていないのに、無意識に隅に身を寄せてうずくまる。人生で見たこともない、クローゼットのルーバーから差し込む僅かに滲んだ光が、ここが終着点であることを告げているようだった。柔軟剤が利いた衣類の匂いと、身体を下から包む布地の柔らかさを感じながら、心臓に幾度も透明な針が刺されるような感覚に息を詰める。壁に頭を預けて、ひとつ、ふたつと意識して息を吸う。階下から足音が絶え間なく生まれては消えていく。数刻前まで、いつもと変わらない週末のはずだった。仲の良い友人と女子会と称して友人宅で食事をし、ひたすら会話に花を咲かせ、延長戦のために泊まりに切り替えたほどの豊かな時間が、数分前の友人の悲鳴によって沈黙に変わるまでは。何を言っているか分からない人語が下から地鳴りのように不規則に響く。ぞわりと肌が粟立って、は手にしたスマートフォンをぎゅうと握りしめる。そうして、ああ、と思い出したようにスマートフォンに視線を落として液晶画面をつけた。画面の輝度を最低限にしてから、通話画面を起動して、9、1、と緊急通報を始めかけて手を止める。
「…」
は止めた指先で通話画面をバックグラウンドに追いやって、そのままチャットアプリを開いた。リストの二段目にあるトークを開くと、数刻前に見たきりの画面が表示される。今日泊まりにするから迎えいらない、明日の朝タクシーで自分の家帰る、という自分のメッセージに、オーケー、とだけきた返信を、そっと指先で一度なぞる。普段は既読を返事代わりにすることも多いくせに、たまにこうして返してくる、その揺らぎが愛おしかった。今何をしてるんだろうか、もう寝ただろうか。早鐘のように強く鳴る拍動が聴覚のほとんどを支配している中で、辛うじて最後に聴いた彼の声を思い出す。彼に名前を呼ばれるのが好きだった。彼に触れられるのも、と思い返すと、寂しさも恐怖も孤独も悲しみも、その愛しさに比べれば全てが一時的なもののように思えた。今夜ここがわたしの終着点なら、今のうちに言っておかねばならないことがある。冷えて感覚の薄い指先で、画面をタップする。数回に分けて短いメッセージを送るあいだ、睫毛の合間から幾度も幾度も火傷するように熱い雫が落ちる。滲む視界で送信したことを確認すると、階下から2階へ上がってくる怪物のような気配を感じながら、はすぐに通話画面に戻って911を押した。
液晶画面に表示される真新しさの無い評価フォームを眺めながら、スタンリーはラップトップ横に置いた煙草の箱に手を伸ばす。煙草を一本取り出して咥えながら、ライターで火を点ける。一度深く呼吸して、煙草を咥えたまま画面に視線を戻す。射撃精度、体力、判断速度、チームワーク、ストレス下での行動。見慣れた評価軸に沿って表示される部下の評価について、認識に齟齬がないかだけをざっと確認してキーボードを打ち、署名すると、立て続けに別の部下のフォームを同じような温度で確認していく。時計の秒針だけが響く夜の静寂の中で、煙草を指先に挟んで息を吐く。灰皿に灰を落としたところで、スマートフォンが振動して点いた画面に視線を移すと、スタンリーは一秒にも満たない刹那、全ての動きを止めた。次の瞬間にはラップトップを閉じ、煙草を灰皿に押し付けてスマートフォンを掴む。
「…」
眉根を寄せて、続く通知をタップしメッセージを追う。通話を幾度か試みながら、玄関に向かう途中で壁に掛けられたフライトジャケットを掴んで無造作に羽織る。玄関手前にあるコンソールテーブルの上から家の鍵と車の鍵を拾って引き出しを開けると、スタンリーはコンシールドホルスターに収まった状態のグロック19を掴んで、酷く慣れた手つきでジーンズのウエストの内側に差し込み、玄関を出た。呼吸の数ほど触れたと思える銃の、肌に伝わる冷たさと硬質な表面がどんなものより思考を鮮明にする。杞憂ならそれでいい。冷たい風が一つ吹く。冬の夜の温度に混じりきらない呼吸が白く滲む。玄関の鍵を締めて踵を返すと同時に車の鍵のボタンを押し、短い解錠音が鳴るのを聞きながら運転席に乗り込みスタンリーは車のエンジンをかけた。ドライブウェイから公道に滑り出て、アクセルを強めに踏むと、事前に聞いていた住所に向かう。真夜中の閑散とした道路を飛ばしながら、ダッシュボード上に置きっぱなしだった煙草の箱を手にとって一度振り、中の煙草を歯で咥える。運転席側の窓を開け、ライターで火を点ける。進行方向の信号が赤になって減速する間にスマートフォンを手にして電話をかけると、車載スピーカーを通して鳴るリングバックトーンが刺すように車内の沈黙を揺らした。
「ハリス郡保安官事務所 非緊急窓口です ご用件をどうぞ」
「エルラゴ、ヒッコリーリッジドライブ付近 対応中の案件あるか」
「ヒッコリーリッジドライブですね 少々お待ち下さい」
信号が変わるのに合わせて、美しい四輪駆動車は夜の冷えた闇の中で少しも怯むこと無く、しなやかに加速する。スタンリーは煙草を片手に預けて窓の外の冷えた空気に紫煙を流すと、煙草を咥え直して再び深く息を吸う。柔い計器の明かりに混じって、煙草の先で酷く生々しい火が明滅する。カーブを曲がってウィンカーを上げながら左折すると、車載スピーカーに先程のオペレーターの声が戻ってくる。
「その件についてお答えできる情報はありません」
「分かった」
ステアリングホイール横の終話ボタンで躊躇無く通話を切って、スタンリーは一つ瞬きをした。ない、とは言わなかった。その上でオペレーターが状況を一つも明かさないなら、これは公開可能な軽微案件ではなく、現場の安全確保と戦術対応が必要な案件だ。警察が現場に到着していればすでに対応が始まっているだろうが、このエリアの警察の応答時間はここ最近目標値を大きく下回って悪化している。通報タイミングによってはまだ誰の介入もない状態も有り得る。最悪のパターンで考えれば、現場は武器を持った脅威が排除されないまま手付かず、そこにとその友人が残されている。家を出る際、通話中で一度も繋がらなかったへの発信を思い出す。スタンリーは眉間に微かに皺を刻みながら、夜の薄い明かりを拾ってなお一度の温度もないトパーズの双眸を細めた。軍には軍の、民間には民間の法と規則がある。現役の軍人である自分が民間の事件で下手に動けば面倒なことになるだけだ。ステアリングホイールを回し目当ての通りに入って、咥えていた煙草を携帯灰皿に押し込む。無造作な衣類の上にアウターを羽織っただけのちぐはぐな格好の数人と、その中で泣きながら取り乱す女がみえる。目的の番地の前で車を止めて、シートベルトを外し車を降りて施錠する。月明かりを弾いて、スタンリーの長い睫毛が美しく揺れる。この場で私人としてやれることはごく僅かに限られる。だがやることは一貫して一つだけだ。やれることが限られていても、何の問題もない。コンクリートの上を女に向かって歩きながら、周囲に視線を巡らせる。通りに集まる人間はの友人を含めて4人、どれも民間人だ。近所で騒ぎを聞きつけて出てきたくちだろう。片手に通話状態のスマートフォンを持つ女に大きな怪我は見当たらない。遠くの音を拾っても警察が到着する気配はまだない。
「中にまだ人いんのか」
「わたしの友達が取り残されてる!!」
スタンリーは小さく顎を引きじっと獲物を探すように、正面玄関を中心に左右対称なコロニアルスタイルの建物を観察した。玄関ドアの曇りガラスから隣室の窓にぬるりと移動する影が一つある。正面から確認できる明かりは玄関を除けばその一部屋だけだ。外観からは建物への被害は視認できない。この距離まで聞こえてくる音もない。スタンリーは女の声の余韻も消えないうちに視界の全てを把握すると、ちらりともう一度だけ女を見た。トパーズの双眸のなか、光源の薄い夜によって僅かに開いた瞳孔は、いかなる情報を得てもなお強い重力を持つ小さなブラックホールのように揺らがない。
「玄関以外の入口は」
「左手に、裏口、裏口がある 友達は2階 たぶん 待って 分からない あいつに見つかってたら」
途切れない不安定な言葉には少しの興味も示さず、スタンリーは何らの迷いも躊躇いもなく静かに行動を開始した。しなやかに、歩幅を詰めた走りで道路から前庭を一気に抜ける。建物の壁に身体を寄せて自身のシルエットを環境に溶かしながら、隣家も含めた全ての窓とドアからのラインを警戒して壁沿いに裏口に進む。建物側面の角で腰を落とし一度減速して聴覚と視覚で状況を読むと、スタンリーは一拍より短いあいだ頭と肩を僅かに出して建物背面の視界を取った。脅威がないことを確認して、死角から裏口の扉のレバーハンドルを静かに押すと、錠が壊れたような音がギイ、と鳴って扉は何の抵抗もなく開いた。冷えた空気に馴染ませるように薄く息を吐く。脅威となる対象がここから入ったか、家主がここから逃げたか、とスタンリーは一つ緩く瞬きをして思考を片付けるとその身を建物内へと滑り込ませた。
「…」
入ってすぐに、人が住んでいる民家特有の空気に混じる異質な緊張が肌を撫でる。気配を消してランドリールームを兼ねた裏口からゲストバスルームを抜けて、その隣のキッチンに入る前にスタンリーは足を止めた。同じフロアで人の気配がする。重心を落とし、呼吸にすら身体を動かすことを許さないほど静止したまま視線で周囲を走査する。ぎしり、と深く床板が軋んで、直後にぶつぶつと呟くような、人間の声帯から生まれる低い音がした。物が落ちる音でおおよその距離を掴んで、スタンリーはそのままキッチンとダイニングが接続された空間を進み、そこから玄関ホールに抜ける扉の手前でもう一度状況を読む。少なくとも同じ階にある脅威は一つのみだ。飽和量の緊張と攻撃性を孕んだ静寂が毫も揺らがず、敷き詰めた砂のように空気を圧迫している。不意にリビングで男の淀んだ声が破裂する。
「なんで どこだ 俺は」
その音の呼吸のリズムを拾うスタンリーのトパーズの双眸は、暗がりの中でびたりと対象の方向を見据えて絶対零度を閉じ込めたように冷えていた。目の前の扉に手をかけ、男の発する叫び声に合わせて開ける。ざくり。ざくり。ざくり。玄関ホールを挟んで向かいのリビングから、繰り返し柔らかい何かを刺している音がする。自分の心臓が打つひとつの拍動が、その一瞬だけ意識に触れて消えていく。スタンリーは音もなくその美しい金の睫毛を揺らして瞬きをしたのち、階段に身を寄せて死角を取ると、男の位置を確認して2階に上がる。血の臭いはしない。肉を裂く音でもない。ランディングに辿り着くとスタンリーはジーンズのバックポケットからスマートフォンを取り出してチャットアプリを開く。数度タップして仕舞うと同時に階下で物が壊れる音がした。脅威の存在が位置を変えていないことを確認しながら2階で人の気配が動くのを捉えると、損傷のあるドアに寄る。鍵が開く小さな音が空気に溶けて消える合間に静かにドアを開けて、スタンリーはその身を寝室へと滑り込ませた。少し離れた位置に見慣れた女の姿がある。どんなものを数えるよりも短い間、身体が止まる。しかしすぐに視線だけで目の前の女に怪我がないことを確認すると、スタンリーは数歩進んで、思考が追いつかないまま立ち尽くすたったひとつの命に手を伸ばす。窓から差し込む月明かりを受けて、柔らかく光を滲ませるトパーズの双眸が、冬の夜の闇の中でベテルギウスのように煌めいている。
「」
「…なんで…」
「出んぞ」
その音はひどく短く、揺らがず静かで、血の通った熱を持っていた。スタンリーは極度の緊張と恐怖で脳の指示を上手く受け取らないであろうの腕を掴んで強く引く。慣性に従って自身の身体側につんのめるのを受け止めながら、心拍が一つ鳴るあいだ強く抱き締めると、スタンリーはその身体を離して再びの二の腕を掴んだ。寝室の扉の前で気配を探ってから、ドアを開けて来た道を戻る。階段を降りる手前で男の叫び声が聞こえて、の身体がびくりと揺れる。掴んだ腕の力を少しも変えず、数秒のあいだスタンリーはその温度のないトパーズの双眸を階下に向けたのち、階段を降りていく。階段を降りると、先にリビングの死角にを置いて、スタンリーは後続する形を取った。裏口に進むよう掴んだ腕を押してを促す。キッチンを抜けてゲストバスルームを通過した頃、不意に男の声が酷く反響した。男が玄関ホールに出てきている。何かが割れる音を聞きながら、スタンリーは裏口のドア手前で外に異常がないことを確認し、と共に裏庭へと抜けた。冬の夜の風が鳴って、静寂が散る。すぐに裏口の死角となる建物の側面側に移動して、スタンリーは一瞬だけに視線を向ける。
「ディスパッチャーに情報入れな」
そう言ってフライトジャケットを脱いで無造作にに被せると、スタンリーは再びの腕を捉えてその視線を裏庭側へと戻す。はその言葉で思い出したように、繋ぎっぱなしだった通話を再開するためにスマートフォンを耳に当てた。もしもし、という言葉に続いて、待ち構えていたように通話口の向こうからディスパッチャーの声がする。
「何があったか状況を教えてください」
「建物の外に出ました 側面側にいます」
「安全ですか」
「はい」
「他に誰か一緒にいますか」
「男性が一人 中から外に連れ出してくれました」
「なるほど 彼は武器を持っていますか」
「…確認します」
はスタンリーの腰回りを確認するために、掴まれた腕を解くよう自身側に引く。しかし、スタンリーはそれには応じずにちらりとを見遣ると、持ってんよ、一丁、とだけ言って警戒に戻った。遠くで霧散していた、けたたましいサイレンの輪郭が強く鋭利になってくる。は幾許かの瞬きのあいだ、風に揺れるスタンリーのバターブロンドの髪を見詰めて沈黙を食んだのち、その視線を静かに落とした。通話口の先に辛うじて届く程度の、ほとんど吐息のような掠れた声が何にも混じらず消えていく。
「拳銃を所持してますが 使っていませんし手にもしてません」
「分かりました 建物には戻らず、そのまま安全な場所で待機して下さい」
赤と青の光が忙しなく切り替わって夜の闇を染めるのを眺めながら、はスマートフォンをスピーカーに切り替える。ここまでくれば音があっても大丈夫だろう。いつぶりに呼吸したかと思うほど久々に息をつく。呼吸と同時にフライトジャケットに残る煙草の匂いが鼻先を掠めて、は自身の身体が震え始めていることに気がついた。寒いが、震えるほどではない。感情がひとつも入らない空の涙が幾度も頬を落ちていく。隣で警戒を緩めず微動だにしなかった男が、警察車両の到着と同時にの名前をひとつ呼んで、腕を離しての手を掴む。するりとその親指の腹が、冷えたの手を小さく撫でる。夜の暗がりで、シェリーのような双眸がじっとを見詰めている。
「ただのストレス反応だ そんままでいい」
「スタン」
「聴取終わったら車まで戻ってきな」
そう言うとスタンリーは緩く息を吐いて、手を離す。武装状態でやってくる警察に向かって揃って両手を上げると、状況を把握するための短い質問の後すぐに、二人はそれぞれ物理的に分けられて事件の収束を見守った。
RAPTOR
04.13.26