「中で何があったか、覚えていることを教えてもらえますか?」

パトランプに染まる夜の闇を背景に、青い瞳の警察官が尋ねてくるのを、は一呼吸かけて咀嚼する。真冬の鋭い風が吹き抜けて、肩から羽織ったフライトジャケットを掴む指先に無意識に力が入る。

「2階の寝室に荷物を取りに行っていて 階下で何かが割れる音と友人の悲鳴が聞こえて」

それで、1階を確認したあとすぐに寝室の鍵をかけた。掠れた声が白い息とともに冬の夜風に混じって消えていく。パトカーと救急車両の傍で、背の高い警察官が2名ついている状況を改めて意識する。危険はないはずなのに、心臓の打つ鼓動が鉛のように酷く重たい。ひとつ、ふたつと瞬きをして、視線を彷徨わせる。周囲の一ブロックだけが切り取られたように、真夜中とは思えないほど賑わっている。

「相手の姿は見た?」
「背中だけ」
「武器のようなものを持っていたかは分かりますか」
「見えなかったけど 2階に上がってきてドアを壊そうとしてたので 持ってたと思います」
「ありがとう 先ほど一緒に外にいた男性とはどういう関係ですか?」
「恋人です …外に 連れ出してくれました」
「助けてくれたんですね」
「はい」

目紛しく回転する赤と青の光が、昼夜という定義を壊すように音もなく夜の闇を掻き回し続けている。は手にしたスマートフォンにそっと視線を落とした。階下から聞こえる不気味な音と自身の拍動が入り交じる暗闇の中で、ドア開けな、とだけ送られてきたテキストを思い出す。あの時、最初に思ったことは、喜びでも安堵でもなく、なんで、だった。自分がやれることを全てやった上でここが終着点だというなら、これがわたしの人生の全量なんだろう、と思いながら、悔いのないように最期の挨拶をしたつもりだった。それなのにその相手が目の前に現れて、その腕に抱き留められた時、わたしの中にあったのは、会いたかった、という願い、たったそれ一つだったように思う。

「このまま少しお待ちいただきます 警察が付きますが 恋人の傍にいてもらって大丈夫ですよ」
「友人は」
「救急搬送済みです、心配いりませんよ」

かち合った視線の先の青い瞳は柔く細められたのち、すぐに車載のラップトップへと戻される。は一拍遅れて、分かりました、とだけ言ってその場を離れた。付き添う警察官が芝生を踏む足音を聞きながら、見慣れた四輪駆動車に寄りかかって紫煙を燻らせるバターブロンドの髪の男を視界に入れると、ずっと待っていたかのようにその双眸と出会う。心持ち歩く速度が上がって、は四輪駆動車の前まで辿り着くとその男に手を伸ばした。何の迷いもなくそれを受け入れる腕が背中に回っての身体を抱き留める。


「…」

声をかけても腕の中で顔をうずめて微動だにしないに、スタンリーは呼吸に混ぜて小さな笑いを落とした。幾分か抱き留める腕の力を強くすると、はそれに返すようにスタンリーを強く抱き締めて深く息をつく。付き添いに立つ警察官が、ようやく安心したみたいだ、と苦笑混じりに言って寄越すのを、スタンリーは風下に煙を吐きながら大した興味もなく聞き流した。それからその言葉を拾ってはたと顔を上げ離れようとするを、抱き留める片腕の力だけで何の苦労もなく制止する。スタンリーは手にした煙草を咥え直して、そのトパーズの双眸を腕の中のに向けると、いい、とだけ言った。その後すぐに視線は現場の観察に戻される。は暫くのあいだ緩く風に靡くバターブロンドの煌めきを眺めていたが、ふいに掠めた煙草の匂いにひとつ息をつくと、帰宅許可が降りるまで素直にスタンリーの腕の中でその体温に包まれることにした。








「降りな」

ぱちりと瞼を開けると、柔らかい計器の明かりが幾許かの車内の暗闇を照らしているのが目に入る。覚束ない思考で一つ瞬きをすると、僅かに意識が鮮明になって、温い空気の中で静かに流れるラジオの音に気がついた。聞き覚えのあるそれは、最近いくつもの賞を総嘗めにして巷を賑わせている曲だった。ワルツのように円を描いて揺らぐリズムの中、穏やかなメロディで平穏を歌いながら、サビでそれを失う恐怖を叫んでいる。どうか、行かないでくれ。ああ、神よ、どうか、奪わないでくれ。どうかこの美しい日々を奪わないでくれ。力強く掠れたボーカルの、唯一残された祈りのような声音に、ぱた、と四輪駆動車の助手席のシートに雫が落ちる。なんてタイミングで、と思うより早く、大して頬を伝いもせず次々と熱い雫が落ちていく。運転席から様子を伺っていたスタンリーが、何も言わずにシートに身を預けて煙草を咥え、窓を開けかけて、やめる。それと同時に真夜中の車内に、小さくの嗚咽が漏れた。ああ。クローゼットの中で泣いた時、わたしは別れの準備なんて出来ていなかった。遺言のようにメッセージを送った時だって、願っていたのは別れを伝えることなんかじゃなかった。何より愛しいと思うものにもう二度と触れられないかもしれないことが怖くて、悲しくて、寂しくて、ただただ、一度も言葉にしたことのない気持ちを伝えることで、明日が、終着点の先があることを信じたかったんだ。だから彼は。

「スタンリー」
「いんよ」

低く掠れた声が、最低限の声量でラジオの力強く美しい音を遠ざける。すぐ傍の運転席に座りながら、視界に入っていることを知りながら、いる、とだけ言って火も付けない煙草を咥えているスタンリーに、は嗚咽の合間で弱く掠れた笑いを零す。それは彼自身の位置を示すより、用があるなら言え、と言っているようだった。感情ばかりが溢れて満ちる空間で、スタンリーだけが灯台の明かりのように少しも揺らがない。ぱた、と涙の落ちる音が、まるで音楽に溶けるように鳴る。ひとつ瞬きをすると、温い闇の中で睫毛に散りばめられた小さな涙の粒が煌めく。視線が彷徨う間もなく、真夜中の薄い光を拾って透けるようなシェリーの双眸がのそれを出迎えた。ラジオから流れる曲が、掠れたボーカルの声音を置いて終わりを迎える。は運転席に座る男に手を伸ばす。そうして咥えていた煙草をその指先の合間に引き受けて、助手席と運転席を隔てるセンターコンソールに僅かに身を乗り出すと、ろくに視線を交えて確認することもなくスタンリーの呼吸を奪った。ラジオのパーソナリティの滑舌の良い言葉が妙に浮いて車内に滲む。幾度か呼吸を食んだのちに身を離すと、近距離で交わる双眸は、美しく金星のように煌めいていた。雫が溶けて涙の跡を滑り落ちる。スタンリー、と呼ぶ声が掠れて滲む。ずっとこの身体の中に留まる感情を伝えたいのに、何を言えばいいのかひとつもわからない。好きだなんて言葉で、足りるわけがない。車のエンジンを切ったスタンリーの手が、そのままするりとの頬に触れて指先で涙をなぞるように肌を撫でる。最初に見たのは10代の最後の年だった。次に非常階段で聴いた。最後に見たのは冬の夜の駐車場だった。感情をコントロールしようとしながら、抱えている感情のすべてを自分の目の前で不用心に涙として零す女を、見ていたい、とスタンリーは思った。



静寂が揺蕩う中で、小さく掠れて囁くように呼ばれる名前に、はクローゼットの中で味わった火傷するほどの熱さの涙を思い出す。

「生き延びてえなら使えるもん全部使いな」

スタンリーの指先が頬をもう一度なぞる。はセンターコンソールに身を乗り出す形で助手席に膝立ちになったまま、瞬きもせず、スタンリーのその静かな獅子吼を聴いた。生き延びたいなら。スタンリーは受け取った言葉を通して、わたしよりも先に言葉の生まれた場所を見つけてしまう。車内の静寂に混じる薄く静かな呼吸音に合わせて、ひとつ、ふたつ、と瞬きをするたび、涙の粒が冷えて揺れる。視線を上げて出会った、熱くも冷たくもないトパーズの双眸は、かつて講義室で見た、「生き残るために何が必要か」という一点以外何も求めず与えなかったそれによく似ている。今晩、わたしは助けを求めなかった。そのままでいても警察によって助かったかもしれない。この先同じような危機は訪れないかもしれない。だけど、今夜、願っていたのが別れを伝えることなんかじゃなかったのなら、奪われたくないと思うものがあるのなら。

「スタンリー」
「…」
「わたしの男になってよ」

見事な静寂を微かに揺らして、金の糸で編んだような美しい睫毛が大きくぱちりと瞬く。涙の跡を辿って透明な雫が落ちていくのを指先で感じながら、スタンリーは心臓が一拍打つ間沈黙したのち、呆れたように眉尻を僅かに下げてにわかに笑った。

「いいぜ」

笑いの余韻に混じって生まれる短い音が、夜のしじまを軽くする。それに釣られて小さく笑うと、はスタンリーの肩に預けていた手をその頬に伸ばした。こうして彼がわたしを見て笑う姿を、この先、星の数ほどだって数えていきたい。その願いが叶うなら、きっとわたしは世界中のすべての願いを火に焚べるだろう。

「こっから先は ちゃんと使え」

スタンリーの手がの指先に預けられたままの火の付かない煙草を掬い取る。束の間交わる視線は、幾度も繰り返し降る口付けによってすぐに途切れた。スタンリーの腕によって助手席から運転席に連れ込まれたは、口付けの合間に車を降りて、スタンリーの家に入りベッドの上に降ろされるまで、その後一度もスタンリーの腕の中から抜け出す機会を得なかった。







「…」

もはや朝方と呼べる時間に差し掛かっても朝日の気配すらない真冬の寝室の中で、スタンリーは腹の上で眠る女の肌から直に伝わる規則的な心拍にひとつ瞬きをする。一緒に眠る時はスタンリーの胸の上に置くのが無意識の癖になっているの手に視線をやって、緩く睫毛を揺らしてもう一度瞬きを落とすと、スタンリーはサイドテーブルに放り投げたままのスマートフォンに手を伸ばした。ロックを解除すると同時に表示される、数時間前に扉の前で操作した時のままの画面をしばし眺めて、薄く乾いた嘲笑いの混ざる息をつく。そういえば、と始まる3つに分かれた文章を、数時間ぶりにもう一度追う。今まで言ったことなかったけど。星を砕いたような光を孕んだトパーズの双眸が音もなくそっと細められる。愛してる。

「めでたいね 人にはさんざ生き延びろ、帰ってこいって言う女が 自分はすぐ諦めんだ」

今夜、取り戻すことだけを決めて辿り着いた寝室の中でを見つけた時、なんで、と言った彼女の声はまるで何も持たず孤立無援の死地に赴いた人間のそれのようだった。ちらりとメッセージのタイムスタンプを見遣って警察から聞いた通報時刻を思い起こす。もうやれることはない、そういう諦め方をして何かを選んだつもりで、生き延びようとする生存本能にも、彼女が持っている使えるはずのものにも手を伸ばさず、生き様を振り返って閉じようとした結果がこの文章だったんだろう。しかし、彼女が送ってきた3行は、別れの挨拶でも、SOSでもなく、生への未練と執着だ。助手席で泣きながら、それにようやく気付いて自ら手を伸ばしたの声を思い出す。

「…」

再びスリープモードに入ったスマートフォンの暗い画面に視線を落としたまま、スタンリーは肌を伝って響く自分より幾分か小さな心拍の音を聴く。ただ、良かった、という感覚だけがある。抱き留めた指先での肌をなぞる。セントラルヒーターが温度制御のために作動する微かな音が寝室の静寂を揺らして、窓の向こうで遠く、聞き慣れた航空機のジェットエンジンの遠鳴りが滲む。夜のしじまに溶かすように薄く息をつくと、スタンリーはもう一度画面のロックを解除した。指先で画面を一つ撫でたのち、数度タップする。短い送信音が鳴るのと同時に無造作にスマートフォンを放って、空いた腕でブランケットとコンフォーターを掛け直すと、スタンリーは身動いだを腕の中に仕舞い込んで眠りについた。








LUMINOSITY
04.17.26