幾重にも重なって途切れることのない人の会話が、朝のにわか雨の湿度に溶けて店内に満ちている。焼いた卵やベーコンの油、メープルシロップの匂いが鼻先を掠めるたび、どこかのテーブルで僅かに空気が波立つ。
「おお 食べながら寝そうだね」
「寝ないって」
「…」
は向かいで面白そうに目を細めて頬杖をつくゼノに遺憾だと言わんばかりの視線を投げる。事件に遭遇してからの一週間をスタンリーの家で過ごして、ある程度の日常を取り戻したつもりだ。ちらりとゼノの隣に座るスタンリーを見遣ると、窓から差し込む薄曇りの自然光を受けたシェリーのような双眸と出会う。頬杖をつくゼノとは対照的に、スタンリーは椅子の背凭れに身を預けて沈黙していた。緩い瞬きにあわせて揺れる金の美しい睫毛の影を眺めて、はこの一週間、夜中に目を覚ますたびに必ず彼の瞳か声が傍にあったことを思い出す。少し離れたカウンターから生まれるオーダーを通す活気の良い声が、食器の触れ合う音に混じる。プレートから切り分けたパンケーキをフォークの先で刺して口元に運ぶついでに、は改めて手持ち無沙汰な様子の二人を見た。
「てかさすがに男性諸君食べんの早すぎない?」
「今更だろ」
「今更だな」
自分が遅いわけではない、という異論を潜めた言葉に対し見事に揃う声に、ぱちりと瞬きをする。ぺち、と音を立ててフォークの先に刺したはずのパンケーキの欠片がプレートに落ちて、僅かの沈黙がテーブルに漂う。まずい。意図せぬ失態に、は一瞬視線を彷徨わせる。眠いことも、それがいつもより挙動の質を下げていることも、事実だった。ある程度の日常を取り戻しても、未だに睡眠についてはいつも通りとは言えない。スタンリーが傍で寝ているからこれで済んでいる、というこの一週間のうちに立った仮説が、今日から先で実証される可能性を思い出してひとつ息をつく。改めてフォークの先から飛び降りたパンケーキを救って今度こそ口に含むと、スタンリーが徐ろに椅子を引いて立ち上がる。
「ゼノ こいつがちゃんと飯食うか見てな」
「ああ 任されようか」
「待って、子供じゃないんだが??わたしが一番年上なんですよ??」
へえ、と言って不遜な笑みを浮かべるとスタンリーはジャケットのポケットから煙草の箱を掴んでテーブルを離れた。椅子の背凭れに取り残されたフライトジャケットを眺めて、は珈琲のおかわりを尋ねてきたウェイターがゼノのカップに珈琲を注ぐ音でその視線をゼノに向ける。時折椅子を引く擦過音が店内の喧騒を割っては、靴音と出入り口のドアベルのチリン、という音が重なる。椅子に座り直したゼノが、観察するようにを見遣る。
「、随分と寝不足のようだね」
「…ちょっとね」
「……」
低くて柔らかい声が雨の湿度に滲む。黒曜石のように艷やかな黒の双眸が細められて、コーヒーマグの上から覗く。はその視線を受けながら、先程より大きめに切り分けたパンケーキをメープルシロップに浸して口に運んだ。ゼノには事件のことは伝えていない。ゼノの様子を見る限り、おそらくスタンリーも、わたしが自ら言うか言わないか判断することとして保留にしている。隠す必要はどこにもないが、敢えてその話題を口にする機会を増やすには、今はまだ早いような気がして、はもう一度ゼノを見る。
「…あとで話すから それまで時々心配してよ」
「いや、君が話したくないことは僕にも不要だ 心配は そうだな 時々しようか」
冗談じみた声音でいたはずのが小さく動きを止めたのを見て、ゼノは珈琲から湯気の立つマグカップを置いた。今週彼らはスタンリーの家にいると言っていた。スタンリーが自身のテリトリーに入れた上でこの状態を引き起こす、或いは放置するとは考え難い。つまり最も可能性が高いのは、これが外的要因で発生した事象で、スタンリーにも本人にもコントロールしきれないものだということだ。そしてその類の事象にまつわる良い話は聞いたことがない。静かに思考するゼノの前で、ふとが思い出したように口を開く。
「…そういえば 火星の話 聞いた?」
「宇宙政策司令第一号か」
「あれでさ、ゼノのことを考えたのよね」
「ほう なぜかな」
「もう70年も前から構想としてはあったものでしょ 火星に行く話は」
「ああ、そうだね ロケット工学者のヴェルナー・フォン・ブラウンが1940年代に提案している」
が何を言わんとしているかを理解して、ゼノは薄曇りの微かな光の粒を湛えたオブシディアンの視線を一度窓の外へ逃した。食器の触れ合う強い音に、柔らかい朝食の匂いが漂う。は薄曇りですら良く映えるアイスシルバーの髪を眺めて、パンケーキを口に入れる。火星に挑む話は、工学的には70年以上も前から検討されていたものだ。1969年のアポロ計画の成功後、その勢いのまま火星へのミッションも続くかと思われたが、予算と政治的優先順位によって凍結された。それからずっと、技術的には可能だと言われ続けながらも、成功した際の国益の不透明さや、失敗した際の政治的ダメージの大きさによって止まったままなだけで、火星探査は最近になって突如持て囃されるようになった未知への挑戦ではない。はパンケーキを咀嚼するのを一つの瞬きのあいだ止めて、ゼノの黒曜石の双眸を見た。分かっているリスクと危険に対して誰が責任を取るのか、という問題が、もしなかったら。科学はどのくらい発展しただろうか。リスクや政治、金の問題、倫理、世論。そういったものが複雑に絡み合っていることを理解したうえでなお自分の中にある、科学の停滞を嫌うその気持ちは、昔からずっと目の前の男の思想と重なっている。
「ゼノ」
「何だい」
「わたしたち ボイジャー1号と2号みたいじゃない?」
「……実にエレガントな喩えだな おお、どうだろうね」
少しばかり首を傾げて笑んで、コーヒーマグに手を伸ばすゼノを眺めながら、はひとつ瞬きをした。確かに同じ場所にあったはずの思想が、もうそこにはないと明確に知ってしまった日のことを思い出す。それでも、科学者として相容れなくても、友として傍にいることを選んできた。心の何処かで、長い人生、生きていればいつかまた状況は変わるかもしれないとも思っていた。生きていれば、という言葉に、無意識に視線が落ちる。NASAに入局した翌年から、何かと世話を焼こうとして焼かれたり、食事に行って夜な夜な語り合ったり、ぶつかったり、助け合ってきた。かつて同じ方向にあったはずの、今はもう遥か遠くにいる綺羅星のような存在に、今もまだ自分が渡せるものはあるだろうか。隣のテーブルの上で片付けられる食器とカトラリーの音が忙しなく鳴って、遠慮のない椅子の擦過音が続く。賑やかな会話の合間に出入り口のドアベルが響く。目の前のテーブルでことんとマグを置く音が控えめに生まれて、は落ちていた視線を上げた。曇天の静かな光を受けるゼノの双眸は、真っ直ぐにに向けられながら、何かを思い出すように細められている。薄い冬の雨の匂いを連れて、スタンリーが大した音も立てずに戻ってくる。僅かに湿気を帯びた沈黙がテーブルの上に揺蕩う。
「…ゼノ」
「何かな」
「もしボイジャー同士なら今言っておきたい きょうだいみたいに一緒にいられて 嬉しいことを」
の声にそっとその意識を現在に戻したゼノは、鼻先でひとつ息をつくと小さく眉尻を下げる。スタンリーは静かにその場を眺めながら、テーブルの上のグラスを手に取り口にした。グラスの纏った雫が、薄曇りの中でさえ一粒残らず光を弾く。
「…随分と感傷的だね 我々はもう 土星を通過するのか」
「………」
「…」
「……まだ木星かも」
「そうか」
ボイジャーの通信よりも微かで小さな笑いを含んだの声に、ゼノは目を細めて心持ち悪戯げに笑んだ。はゼノの双眸をしばらくの合間眺める。薄曇りで光の粒を湛えて煌めくそのオブシディアンの瞳は、かつてメンターとして見てきた彼にどこかよく似ていた。からん、とテーブルに戻されたグラスで揺れる氷の音が、生まれてすぐに、家族客のテーブルを立つ音に揉まれて消える。はパンケーキの最後の一切れを口に運んで咀嚼すると、温い珈琲の入ったマグに手を伸ばした。
「ちなみにゼノが弟ね」
「実に不可解なことを言う 君が妹だろう」
「なんで???ゼノ後輩だし年下じゃん」
「おお 僕は今さっき君が食事を無事に終えるまで 保護者として機能していたと思うがね」
「目の前でコーヒー啜ってただけなんですけどこの人…」
「なんで俺見んだ」
からの胡乱げな視線と、ゼノからの確認を取るような視線を同時に受けながら、テーブルに頬杖をついていたスタンリーはその表情を少しも変えずにべもない言葉を返した。食ったなら帰んぜ、という言葉に、束の間の沈黙のあと、まだ珈琲飲んでない、というの声が続く。スタンリーがひとつ瞬きをして、何も言わずにただの視線を拾う。しかし、はすぐにその視線をトパーズの双眸から僅かに逸らして手に持ったコーヒーマグに口をつけた。ゼノがその様子を眺めて、テーブルの上の沈黙を拾う。
「今日の君はマリー・アントワネットと食事時間で競えるね ゆっくりするといい 僕は全く構わないよ」
「…」
「もう飲んだ いいよ 行こう」
「おおスタン 無言で女性の食事を急かすとは… なかなかエレガントな圧力だな 適切な場面かどうかは別の話だが」
「急かしてねえだろ」
軽口を言い合いながら会計を済ませ、三人で駐車場に出る。来たときには小雨だった天気は、冬の寒さを湿度で包んだような曇り空になっていた。互いに短い別れの挨拶を交わしたのち、とスタンリーは四輪駆動車に乗り込む。ドアの閉まる重厚な音が、車内の静寂に彗星のように長い尾を引いて残る。それが消えないうちに、は薄く深い息をついてシートベルトを締めた。スタンリーはいつものように慣れた手つきでエンジンを掛けてアクセルを踏み、四輪駆動車を伸びやかに加速させる。心地よい沈黙の中、朝の名残を携えた冬の空気が呼吸の度に肺を満たす。信号に従って緩やかに車が停まると、運転席から、こちらを観察する気配とひどく静かで規則的な呼吸が聞こえる。はひとつ瞬きをして、ちらりと運転席を見遣る。
「…スタンリー」
「……」
「……全部が普段通りにできてから言おうと思ってたんだけど」
そうが言いかけたところで信号が青に変わって、スタンリーは視線をフロントガラスの向こうへ戻してアクセルを踏んだ。は動き出した車にあわせて何かを思案するように一度言葉を止めると、流れていく景色を眺めながらしばらくのあいだ口を噤んだ。そのまま静寂に解けていく意識の横で、スタンリーが煙草を咥えて、運転席の窓を開ける。ライターの火が灯るとすぐに紫煙が窓の外に白波のように流れ始める。ウィンカーのカチカチという軽い音が、心地よいエンジンの重低音に数秒混じって消えていく。
「 寝んなら言いかけたこと言ってから寝な」
「…言いかけなきゃ良かった…」
あまりにも後悔の滲んだその声音に、静寂を割るようにスタンリーが喉を鳴らして小さく笑う。もはや眠気に身を浸していたは、言いかけたことを見逃す気のないスタンリーに口籠ってひとつ息を吐いた。運転席側の窓から滑り込む冬の朝の風が頬を撫でていくのと同時に、嗅ぎ慣れた煙草の微かな匂いが鼻先を漂う。事件の翌朝に見たチャットの通知を思い出す。この一週間、色んなことを考えた。
「スタンリー そのうち一緒に 暮らしてみるのはどう」
スタンリーはステアリングホイールに軽く左手を預けたまま、煙草を右手で挟んで、肺に含んだ空気を窓の外へと逃がす。薄曇りの合間から薄っすらと差し込む太陽の気配を拾うトパーズの双眸は、透き通って金星のように煌々としている。はスタンリーが再び煙草を咥え直すのを視界の端で捉えながら、その珍しい沈黙を前にどうすべきか考えあぐねた。しかしすぐに、急ぐことでもない、と結論付けて沈黙の処理を諦め、自身の家の近所の景色をぼんやりと眺める。
「来月」
「…… はい?」
冬の外気を含んだ車内の静寂に短い音が落ちて、は幾許かの沈黙ののち酷く訝しげな声を上げた。携帯灰皿に煙草を押し付けて火を消しながら、スタンリーはステアリングホイールを緩やかに回しての家の通りに入る。見慣れた、しかし久々に見るタウンハウスが視界に入って、の意識がスタンリーから逸れる。ドライブウェイに滑り込んで、美しい四輪駆動車はとても静かにその身を停めた。窓を閉めてエンジンを切ると、スタンリーはステアリングホイールに肘をついてその双眸を真っ直ぐにに向ける。
「俺ん家かお前ん家で始めりゃいい 引っ越し先探すよか早い」
選びなよ、と言う柔らかい声が、後を追って抜けていく呼吸の余白に滲んで溶ける。柔らかいのに全く揺れる気配のないその聞き覚えのある言葉に、は無意識に小さく笑った。スタンリーは大抵の場合、相手に自分の決定を覆させる気がない。しかし幸運なことに、それが確認もなしに一方的な決定として自分に向けて使われたことは、今までに一度たりともなかった。
「いいけど 来月までに全部普段通りになってろってこと?」
「言ってねえよ 回復すんのに無理に期限決めんな 逆に遅れんぜ」
僅かに眉を緩めながらそう言うと、余韻に薄く笑みの気配を混ぜて、スタンリーはするりとの頬を撫でた。は心臓が何度か鳴るあいだ、幾重にも蜜を混ぜた金星のような双眸をじっと見詰める。一デジットたりとも温度のぶれない声音が、降りな、と柔く滲んでその輪郭を静寂の中にぼかしていく。その声に素直に応じて荷物を手に助手席から降りると、は玄関へと向かいながら後ろを歩くスタンリーをおもむろに振り返った。
「……スタン、もしかして最初からこのこと」
「どうかね まあ、お前が言い出して決めたんじゃん 俺じゃねえよ」
LAGRANGE
04.21.26