ひどい雨が降る夜だった。何かから突如意識が切断されたような感覚とともに目を覚まして、ひとつ瞬きをする。窓を打つ雨の音が、ガラスを隔てて僅かに滲んで聞こえる。次に耳元で規則的に鳴る鼓動に、そして直に触れている体温に、曖昧な意識が触れていく。もう一度瞬きをして一度深く息を吐くと、そっと肌を撫でる指先が吐いた息の余韻を追った。今が何時かも分からないまま、数秒のあいだ雨の音を聴く。外はまだ暗く、室内には少し湿度の高い静寂が揺蕩っている。

「…寝な」

柔らかく当たりの丸い低音が、雨粒の音を遠ざける。声に含まれた息が抜けていく合間に微かな色気が滲む。必要最低限の声音によって散った静寂が形を戻して、室内にはまた雨の音と静寂だけが残った。は身を起こして、自身を腕の中に抱き留めていた男を見遣る。大した光もない暗闇の中で、トパーズの双眸に出会う。何も言わずに自身の腹の上のに視線を固定するスタンリーに、はそっと手を伸ばした。整えられず素のままのバターブロンドの柔らかな髪を避けるように頬に触れて、親指の先で瞼を撫でる。金の睫毛が音もなく揺れる。指先が離れると同時に伏せられた瞳が迷うこと無く再びを捉えた。幾許かの光の侵入を許す暗闇の中、視線だけが交わる。風向きが変わって、雨音が一層強く窓を叩いている。するりとスタンリーの首筋に手を滑らせて、鎖骨を撫でる。細身に見えて、女の自分よりもずっと大きく、筋肉質で強い骨格を持つ目の前の男の肌を、胸筋、前鋸筋、外腹斜筋となぞりながら、はただ雨の音と自分の心拍を聞いていた。好きに触れてくるに視線を添えるだけで、スタンリーはそれを止めるでもなく沈黙したまま静かに呼吸を繰り返す。

「スタンリー」

無意識のうちに夜の静寂に落ちた呼びかけに応えるように、スタンリーは手を伸ばしての頬に触れた。抱き込んでいた時に分け与えた熱を室温に溶かしてしまって冷え始めている肌を温めるように撫でる。その熱の心地よさに目を細めて、は眠気の残る意識を緩めて息をついた。数刻前、何度も自分に触れては理性も言葉も思考も奪っていった男の手が、今度は僅かの眠気を連れてくる。もう数え切れないほど抱かれた、と自身を見上げてくるトパーズの双眸を眺めてシャワーの間まで尾を引いた行為を思い出す。本能的な行為の最中、全てを暴くようなスタンリーの視線はいつもわたしの中の何かを、あるいは全てを、把握しようとしているようだった。そうしてわたしが持つあらゆる武装を解いてしまう。彼の目の前で思考を取り繕う建前も、感情を隠す理性も論理も手放すと、決まってスタンリーはその双眸を細めていつもよりずっと柔らかくわたしの名前をひとつ呼んだ。それが、わたしがいつも確かに覚えられる限りのことだった。過去の恋人たちを振り返っても、これほど一人の人間に触れられて愛し合うのは初めてだった。

「何考えてる」
「…過去の男のこと」
「へえ」

スタンリーの手が頬から離れて、その双眸が緩く細められる。遠ざかっては強く窓を打つ雨音が途切れることなく静寂を湿らせていく。目の前の男を好きだと自覚したのは一体いつだったろうか。微かにカーテンから差し込む外光で青白い暗闇の中、はスタンリーの肌の上で止めていた手を滑らせて、呼吸のたびに上下する腹直筋を撫でた。いつからか、目の前の男に自分という存在の一番深い核の部分を捉えられて、その視線と手のひらで触れられることに、安堵を覚えるようになった。しかし同時に、全貌の見えない宇宙のような恐怖が安堵の外にある。その恐怖に向き合って泣いた冬の夜を思い出して、は、あの夜にはもうすでにそうだった、と胸中で独り言ちた。冬の夜に釣られて、高高度生理訓練で彼の死の輪郭を捉えた時の、抗いようのない恐れが雨音とともに鮮やかに蘇る。肌をなぞる指先に力が入って、僅かにスタンリーのしなやかな筋肉に沈む。トパーズの双眸が、瞬きのたびに暗闇のなかで柔く光を反射する。彼が失われること、わたし自身が終着点に着いてしまうこと、或いはどちらかの感情が変化すること。この状態が変わる可能性なんていくらでもある。

「スタンリー」
「…」
「もし他の人を好きになったらどうする」
「ならねえよ」

その答えは時計の秒針が次の秒を打つより早く、自明の理のように迷いなく音になる。声量は少しも変わらず穏やかなのに、交渉の余地は微塵もない声が真夜中の静寂を散らす。

「わたしは」
「………」
「…未来のことは 何が起きるか分からないと思ってる」

スタンリーの手がするりと伸びる。その指先がの顎を捉えて、無意識に落ちていたの視線を拾う。窓を打つ雨の音は少しも弱まる気配を見せず、ばたたと室内の静寂を追い立てるように鳴っては風によって遠ざかっていく。まるでこの問いが嫌いだと言わんばかりに僅かに眉間に刻まれた皺の下で、透き通ってなお深い金星のような双眸が、何かを測るように静かに向けられている。はそれをひとつの瞬きで受け止めて、もう一度視線を落とした。スタンリーの肌に触れる指先が彼の体温に馴染んで温かい。昔、愛している、と思った男と添い遂げなかったから、今自分はこの男の前にいる。スタンリーに対する感情は、過去のどんな相手とも比較にならないほどのものかもしれない。でも、それがこの先の未来を確定させる要因であるとは言えない。スタンリーにとっても、自分にとっても、未来は決まった一本道ではなく、ここから幾つもの選択を繰り返した先の時間でしかない。いつか、選び続けることをやめる日がきたら。いつか、喪失の際に得るであろう恐怖に勝てなくなったら。いつか、より大きなものに出会ったら。いつか、何かと引き換えに手放す日が来たら。



スタンリーの声が、雨音を退けて意識を撫でる。無意識のうちに視線と思考がスタンリーに結ばれて、雨音が再び窓辺に寄って波のように離れていくまでの間、はその双眸と真正面から見つめ合った。疾うに思案を終えたのか、何かを測るようだったスタンリーの双眸は、煌々と燃えるベテルギウスのような強さを潜めていた。かつて恋焦がれて眺め続けたその星を見るように、目の前の男から視線を逸らすことができない。顎を掴んでいたスタンリーの手が、冷えた肌をなぞるように再びの頬に滑って、親指の腹でその肌を一度撫でる。

「もしそうなったってんなら そんときゃ取り返すだけだ」

何の躊躇いもなく、いっそ不遜なまでに堂々とした低くて艶のある声が、たった一つ温度を持った彗星のように暗闇に生まれて溶けていく。その目元と勝ち気な眉を僅かに緩めて、スタンリーは口角を上げて笑んだ。そうなったとしても、と前提を開いたままのスタンリーの言葉で、不意に、終着点だと思った夜のことを思い出す。はぱちりと瞬きを落とすと、自分の心臓が二度三度と鳴るあいだ、雨が滲ませる寝室の静寂にその場を預けた。ああ、そうか。なんで、と言ったあの時、スタンリーはクローゼットの中で選択するのをやめたわたしを取り返しにきたんだ。彼の部下がいうところの、彼のプライド・ランドの内側へ。はもう一度瞬きをして、そっと視線を逸らす。心臓が強く鳴って、星を飲み込んだように熱い。スタンリーの手のひらが頬から首筋にかけてをなぞる。の唇の合間から微かな音を立てて吐息が滲んで、は観念したようにその視線を目の前の男に戻した。心拍の変化を丁寧に手のひらで味わう目の前の男が、満足そうに目を細めて笑っている。もしいつか、この状態が変わる可能性に出会うとしても、今はこうして目の前で笑う男をずっと見ていたいという願いひとつしか思いつかない。

「…わたしも、」
「…」
「そうなったら スタンを取り返したい」
「んじゃ今んとこ問題ねえな ま、お前が俺を取り返すなんざ夢でも起きねえよ」
「………なんでそんな楽しそうなの」
「…… お前が俺のことで頭いっぱいになってっかんね」
「ねえ もう ねえ 本当にやめて」
「お前が訊いたんじゃん 来なよ もう寝んぜ」

ひとつ喉を鳴らして心底愉しそうに笑うと、スタンリーの低く安定した声が笑いの余韻を含んだまま、寝室の静寂に柔らかく滲む。は自身の感情を落ち着けるように一つの瞬きのあいだ窓を見遣ったのち、寄せては返す波のように強弱を得て鳴る雨粒を聴きながらスタンリーの上にその身を預けた。ブランケットとコンフォーターを掴んで被せるスタンリーの腕がそのまま毛布の下に潜って直にを抱き込むと、耳元にあるたった一つの心臓の音によって、窓を打つ強い雨音も、寝室の中途半端な静寂も、すぐに意識の外に追いやられていく。冷えた肌がスタンリーの体温に馴染むよりはやく、は規則正しい心拍と自分より高い体温に包まれた微睡みの中に落ちていった。








HAECCEITY
04.27.26