「ゼノ、これ飲んで良い?」
「構わないよ 好きに開けてくれ」
久々にやってきたゼノの家で、はふと目に留まった棚のシングルモルトスコッチに手を伸ばす。ゼノはグラスを二つ戸棚から取り出しながら一瞥もせず答えると、酒とつまみに並べてキッチンのカウンターに置いた。穏やかな間接照明がグラスの端で反射して銀河の星のように瞬いている。
「惚れ込むか大嫌いになるか」
「アイラ島のシングルモルトスコッチか」
「エレガントなもの持ってるね ゼノくん」
「フフ…飲み方は?」
「ストレート」
「実にエレガントだ」
口端を上げて慣れたように茶番の応酬をすると、ゼノはの手からボトルを受け取ってカウンターの上へ置いた。カウンターの席に戻ってきて飲みかけだったシェリーを口にするを眺めながら、仕事帰りに食事に行かないかと久々に彼女が誘ってきたことを思い出す。自宅に場所を移す前、クリアレイク沿いのレストランで海鮮料理を楽しんでいた間は取り留めのない会話ばかりだった。しかし、出会ってから4年の間、悩むとそれを口に出す代わりに自分と食事に行きたがる彼女の癖は一度も変わる気配を見せたことがない。
「何について悩んでいるのかな 僕の先輩は」
「……」
「宇宙飛行士らの宇宙食開発のことか いや、例の軍との共同研究についてかな」
「重量増の許容が現行比2%以内っていうのがね…」
「容易くはない数値だね」
「…2.3%から削れない」
「削ることが苦手だからな 君は」
ゼノは4年経っても変わらないそれを、もはや地球外の惑星で生命の痕跡を見つけることのように思っていた。飽くなき探求と新たなる発見に純粋な喜びを覚え、その価値を正しく理解するも、何を犠牲にするかにおいて決して相容れない一つ上の先輩。まるで同じ場所で生まれた同胞のようでいて、決して交わらない遥か遠くの銀河で瞬く星のような友人。
「 君が言うように僕らをボイジャーだと仮定するなら 何百億マイル地球から離れようとも 我々は人類の無責任な願いと思いばかりを背負わされるだろうな」
「それがなかったら何百億マイルも離れたところにいけなかったでしょ」
煽ったグラス越しにちらりとゼノを見遣って、は空になったグラスをコースターの上に戻した。軽く乾いて鳴るグラスの余韻が消えて、宇宙のような静寂が、簡素だが美しいキッチンのカウンターを包む。オブシディアンの双眸がその無音の中で真っ直ぐにを見つめて瞬きをする。普段なら、辛口のシェリーを好む女が今夜は甘口を選んで買っていた。摂取のペースもいつもより早い。チェイサーを口にするの様子をもう一度見遣って、止めるべきか、とゼノは束の間思案した。例えば彼女が身体的な危険に陥るほどアルコールを摂取するなら止めるべきだろう。しかし、そうでないなら、この場は彼女にとって安全なはずだ。だから彼女はこうして飲んでいる。それなら、自分がこの場ですべきは一つだけだろう。ゼノは溜息に小さく微かな笑みを混ぜて、先ほどカウンターの上に置いたシングルモルトスコッチのボトルを掴んで開けた。コルクが星の誕生のように小さな音を立てて宇宙の静寂を破る。
「飲んだことはあるのかい」
「ない」
「おお では特等席で観察できるね 君がこの酒に惚れ込むのか 大嫌いになるのか」
興味深そうにこちらを一瞥し、先程戸棚から出した二つのグラスに琥珀色の液体を注ぐゼノを、はカウンターに頬杖をつきながら眺める。心地よい室温に軽やかなスコッチの注がれる音が響く。人類の無責任な願いと思いを荷物と捉える男と、燃料と捉える自分の間には明確な思想の崖がある。それでも、互いに道を別つ相手であることは疾うに理解していてなお、まるできょうだいのように近くて信頼の置ける相手でいる。人間同士の関係はひとりでは成り立たない、という大前提に立てば、今こうしていられるのは、彼側も自分の意思で何年もわたしの人生に同席することを選んできたということだ。はふと、かつてビルディング30の廊下で泣き崩れた夜を思い出す。目の前の男が捨てたものを持っていたい、と思ったときの、どこにも光の見えない深宇宙のような孤独が鮮明に蘇る。
「時々 いつか君がオフィーリアのように涙に呑まれてしまうのではないかと思うよ 尤もそんなことは 起きようもないのだがね」
音もなく頬をなぞって雫を掬う指先が、大して滞在もせず離れていく。いつの間にかカウンターの隅に置かれたスコッチのボトルが暖かな間接照明の光を弾いて煌めいている。ほんの僅かに眉尻を下げてを眺めるゼノのオブシディアンの瞳は、その光を受けて、銀河のように那由他の光の粒を含んだまま、ただ静寂の中で細められる。はそれを見詰めながら、ひとつ瞬きをした。この男の前では、思考するより自覚するより先に感情が出てしまうことがある。睫毛の先の小さなダイヤモンドのような水滴が、冷えて肌に触れる。
「あんなふうに後世に美しく残るならそれもいいな」
「残念だが君はそこまで壊れないよ もしもそうなると仮定しても その前にスタンが水面から掬い上げてしまうだろう」
「わたしを泣かせてるのは今のところゼノくんとその男くらいなんですけどね」
カウンターの椅子から降りて箱ティッシュのもとに向かいながらが冗談と涙混じりに言うと、声になりきらないようなゼノの笑いが呼吸に滲んでひとつ落ちる。ティッシュで涙を拭って鼻をかみ、一つ大きく息をつく。窓の向こうで静かな湖畔が金の満月を揺らしている。その前にスタンが掬い上げてしまうだろうね、という言葉を思い返して、実際に彼が掬い上げにきた先月の夜のことが脳裏を過ぎる。途端に静寂が足元から滲むように這い上がってきて、温度のない不安が喉を詰まらせる。他者の家での無音の夜が、容赦なく心拍を追い立ててくる。
「ゼノ」
「何だい … 顔色が悪いな」
カウンターの椅子から離れ、自身の名前を呼ぶの元に向かいながらその顔色を確認してゼノは眉根を寄せた。オブシディアンの双眸がまるで設計図のミスを見抜くような鋭さを得ての全身を確認する。
「さっきの今で急にアルコールが回ったとも考え難い そもそもアルコールに起因する状態変化に当てはまらない 症状から推定するにパニックアタックだな 何があった?」
「話すから いったん わたしの体 掴んでくれる」
「ああ どうすればいいか指示してくれ」
「手 強く 握ってて」
床に座り込むの隣に腰を下ろして、ゼノはが言い終えるより先に冷えて白んだ手を掴む。自身の手のうちに収めてもなお収まる気配のないその手の強い震えにゼノは小さく目を細める。額や首筋に冷や汗が滲むほどなのに指先は氷のように冷たい。浅く早い呼吸音だけが夜の静寂の底に生まれては忙しなく途切れて消えていく。眉根を寄せて瞼を強く閉じながら、はゼノの手を遠慮なく握って自身の体を襲う誤認警報のような具合の悪さに耐えた。内側から崩壊して戻れないような感覚と、行き場のない閉塞感の中で膨れ上がる逃げたい衝動が心身の感覚を奪っていく。
「ゼノ」
「何かな」
「息 できない」
「心配ない できているよ むしろ呼吸しすぎだな」
「そうなんだ ちょっと 肩 借りるね」
「ああ」
目を瞑ったまま、はそっと横で体を寄せたゼノに頭を預ける。しばらくの間そうしたのち、何かを思い出すようには呼吸に意識を向けてその制御の綱を手繰り寄せていく。数拍ずつ呼吸を吐いて吸ってを繰り返して、その合間に時計の秒針の音を聞く。こめかみと手のひらから伝わる見知った人間の体温が、ここが安全圏であることを言葉もなく示している。瞼の合間から落ちる、身体反応でしかない涙をゼノのシャツが大した距離もなく受け止めて隠していく。深く息を吐いて、は落ち着きを取り戻すとぱちりとその双眸を開けて数度瞬きを繰り返した。
「そうだ アイラ島のスコッチ」
「忙しないな 取ってこようか」
「いや まだ いい ここにいて」
「…」
「ゼノ」
「何だい」
「今日 泊まってっていい」
「構わないよ ゲストルームのクローゼットに前に君が置いていったスウェットがある」
電化製品の生むホワイトノイズが散らばる静かな部屋の中で、はゼノの言葉を聞きながら緩く瞬きと呼吸を繰り返す。手の震えや息苦しさや涙が引いていく代わりに、ひどい倦怠感が残される。時計の秒針が静寂を数十回ほど切り刻んだ頃、はようやくその体を起こして立ち上がると、キッチンカウンターに戻って自身のスマートフォンを手に取った。ゼノに向かって、スタンに電話する、と言いながら慣れた手つきで数度タップする。スピーカーにするよりも早くリングバックトーンが途切れる。
「スタンリー スピーカーにしてる」
「ああ どうしたよ」
「今日このままゼノの家に泊まろうと思って」
「了解 明日ん朝迎え行く」
「ありがとう ……」
「… 言いたいことがあんなら言いな」
「…ゲストルームじゃなくてもいい?」
「おおつまり 僕の部屋で寝るということかな 僕は問題ないよ」
「問題ねえな」
「だがいいのかいスタン ベッドは一つだ」
「問題ねえよ チンケな恋愛映画じゃねえんだ 必要ならそうしな それにゼノ 俺にその手の揺すりは効かねえぜ 特にあんたが相手なら」
「そうだったな」
悪戯げな声音で問われた言葉に僅かの嘲笑いを含んでスタンリーが返す。スピーカーの向こうでライターの火が付く音がして、薄い呼吸音が室内に滲むように広がる。ゼノの瞳が柔く細められたまま自身に向くのを感じながら、はちらりと自身のスマートフォンに視線を落とした。スタンリーはこちらの静寂を受けて同じように沈黙している。ひとつ瞬きをして、はゼノに視線を戻す。その黒曜石の双眸はすでに何かを読んでいるように静かだった。
「ゼノ さっき話すって言ってたことさ」
「ああ」
「実は 友達の家で武装侵入の被害に遭ったの もうだいぶ平気って 思って たんだけど」
「…」
「……そうか なるほど」
小さく頷きながら、ゼノはその手を伸ばしての頬を大した苦労もなく落ちようとする涙を拭う。
「さっきも言ったが 僕は構わないよ スタンもそう言っている」
「」
「うん なに スタンリー」
「とっとと寝な」
聞き慣れたいつもの音がキッチンの静寂を破って尾を引いて滲む。他にねえなら切んぜ、というスタンリーの声に、はおやすみとだけ返して電話を切った。再び温い沈黙がキッチンカウンターを満たしていく。時計の秒針がホワイトノイズを刻んで、窓の外で夜の木立を鳴らす風が吹く。ふと嗅ぎ慣れたような、嗅ぎ慣れないようなヨードと潮風の匂いが鼻先を掠めてははたと瞬きをした。
「ゼノ」
「何かな」
「飲もうよ スコッチ」
「おおそうだね 香りが開いてちょうどいい頃合いだろう」
ゼノは一拍程度の思案ののち、グラスを乗せたコースターをの方へ滑らせると、どうぞと言って緩く口端を上げて好奇心に満ちた双眸をに向ける。柔らかに揺れる琥珀色の液体が、クリスタルのグラスの中で丁寧に光を弾いて煌めく。長い時をかけて作られた色と香りが大層美しい。はグラスを手にすると鼻先に運ぶ。海辺で焚き火をしたような匂いに混じって、湿った苔と土のような香りと薬品のメディカルさが鼻をつく。僅かに眉根を寄せて、はちらりとゼノを見遣った。オブシディアンの瞳とアイスシルバーの髪の美しい男は、想定通りと言わんばかりに温い目で薄く笑いながらの様子を眺めている。
「さて 惚れ込むか大嫌いになるか どっちだろうな」
「ゼノはどっちなの」
「僕は大好きだ アルコール自体滅多に飲まないがね」
ふうん、と鼻から抜ける息で相槌を打つと、は意を決したようにグラスの中で煌めく液体を口に含んだ。途端に強い薬品と煙の気配が喉から鼻に抜ける。それに意識を取られているうちに、海の塩気と土や木が舌先に伝って、それを蜂蜜のような甘さがなぞっていく。
「すべてを焼いた煙を液体にしたらこうなるんだ」
「おおさすがは 実に正確な喩えだね アイラ島のスコッチは島の泥炭を燃やして作られる この泥炭が燻されて熱分解されるとフェノール類という芳香族化合物が発生し それが湿った麦芽に吸着されて香りの土台ができるんだ」
「面白いね 薬品臭はそれか 海も?」
「ああ その泥炭には数千年前に堆積した木や苔、海藻が含まれている それに加え、貯蔵庫は海岸線沿いだ 熟成樽が長期間海風で呼吸する つまり アイラのシングルモルトスコッチは実にエレガントでテロワール的な酒ということだよ」
は確かめるように再びグラスに鼻先を近づけて、スコッチを飲む。それを眺めたのち、ゼノも自身の手元にあるグラスから琥珀色の液体を口にした。
「固有の土地のすべて たいして飲まないゼノが興味を持った理由が分かった気がする」
「君はどうだった」
「どう思う?」
「好きだろう」
分かりやすく、黒曜石の双眸が揶揄うような笑いと共に細められる。は隣でグラスを持ったまま自身の様子を伺う男に一つ笑うと、答える代わりにグラスから美しく黄金に透けるアイラモルトを飲んだ。
「しかし君はよく飲むな スタンが毒ガス吸引を習慣とする男なら 君は毒液摂取を習慣とする女性といえるね」
「その例えだと怪異でしょもはや やめてください?」
NOMINAL
05.08.26