「やあスタン おはよう」
「へェ 思ったより寝れたって面じゃん あいつのお喋りに付き合って徹夜すんのかと思ったぜ」
「そうか それならアルコールに助けられたな」
玄関を開けてバターブロンドの髪の幼馴染を招き入れると、ゼノは双眸を細めて悪戯げに笑った。春先の早朝の風がドアから滑り込んで室内に流れ込む。階段を上がる二人の背後で軽くドアが閉まる音がして、外界の音が静まると、室内には時折響く鳥の囀りと通りを通過する車の走行音だけが残された。
「何時頃寝た?」
「明け方だな 外の明るさで概算すれば4時頃だ」
「平気かよ あんたも災難だな」
「研究職なら日常の範囲だよ スタン 君は何時に寝たんだい」
「あの電話の後すぐ」
「おお 規則正しいね 実に軍人らしい」
寝室のあるフロアに辿り着いて、ゼノは一度足を止めて後続する男を前に通す。スタンリーはゼノの後ろからするりと抜けると、寝室のドアを大した音も立てずに開ける。まるで呼吸するように迷いなくスタンリーはその身を寝室に滑り込ませて、ベッドの上で寝息を立てる女の様子に視線を向けた。ベッドの縁に腰を下ろすと、春先の温い朝陽が差し込む静寂の中で僅かにスプリングが軋む。
「」
「………」
「起きな」
「………いまなんじ」
「7時半」
「…………」
お帰りくださいと言わんばかりに寝返りを打って布団に潜るの様子を眺めて、スタンリーはひとつ喉を鳴らして笑った。聞いているか否かも確認せず、着替え置いとくぜ、とだけ言ってベッドの縁から立ち上がって再び寝室の外に出る。ドアを閉めるとちょうどゼノが珈琲を手にキッチンから戻ってくる。焙煎された豆の豊かな香りがリビングを満たしていく。
「飲むかい」
「ああ」
ゼノから珈琲を受け取ると、スタンリーはそのままリビングに接続された小さなパティオへ繋がる窓から外に出た。サイドテーブルにマグカップを置いてポケットから煙草を取り出し火をつける。緩い風に紫煙が靡く。通りの向こうで、朝陽を反射して湖面が煩いほどに煌めいている。スタンリーに倣ってパティオに出たゼノが椅子のひとつに腰掛けると同時に、眼下でどこかの一家を乗せた一台の車が通り過ぎていく。
「図らずも事件後のリハビリとなったわけか」
「ま そうだな 回復を期限付きの成果指標にすんなっつったんだがな」
「現場から連れ出したのは君だと聞いている 君の手を借りた負い目もあるんだろう 彼女にその自覚があるかどうかは 不明だがね」
「…」
肺に溜めた煙とともに深く息を吐きながら、ちらりとスタンリーはゼノを見遣る。湯気の立つ淹れたての珈琲を啜りながら、ゼノは椅子の背凭れに背を預けて黒曜石のような双眸を含みのある笑みで細める。
「それについてはあいつが自力で慣れるしかねえよ 昨日の症状は?」
「パニックアタック一度だ うまく処理していた」
「じゃあ十分だな 似た環境でそれならよ」
「だが敢えて自ら泊まると言って試すとは 些か無謀がすぎるな」
「まあ できねえかもって予測だけで降参すんのが嫌なんじゃん あんたと似てんよ さすが “きょうだい”だね」
揶揄うような嘲笑いを一つ落として吸い終わった煙草を携帯灰皿に押し込むと、スタンリーはサイドテーブルに置いたマグの縁を無造作に掴んで口元に運ぶ。ゼノはそれに僅かに口端を上げて得意げに笑って、ふと昨晩、好みが大きく二分されるほど癖の強い酒を臆することなく試したの様子を思い出した。そうして、そういえば、と言って吹き抜ける柔い風に一つ瞬きをする。
「睡眠障害が残っているとは聞いていたが いつもあんなに寝ないのか」
二本目の煙草を口に咥えたところで聞こえてきた困惑混じりの言葉に、スタンリーは大きく笑うと一度煙草を右手に預けながらパティオの柵に寄りかかってゼノに視線を投げる。窓の向こうで、Tシャツとスウェット姿のが半覚醒のままバスルームに向かう。
「はしゃいだんだろ昨日は お泊まり会にさ」
「そうか」
「何話した?」
「色々だな 仕事の話 酒の話 宇宙の話 食事の話 言語の話」
咥え直した煙草の先を手で覆い、風除けをしながらライターで火をつける。ひとつ深く息を吸って、春の陽気の中でスタンリーは緩やかに瞬きをした。煙草の煙に混じって珈琲の香ばしい香りが漂う。若い緑の葉が軽やかな音を立て旗のように風に揺れる。
「君の話もしたよ スタン」
「…」
「彼女は君をよく見ている」
「……へェ」
「……ずっと揺らがないな 物事を単純化せず 人間の選択と責任に価値を置く彼女の誠実さは… 相も変わらず あまりに非合理だが」
ひどく静かで落ち着いた声音がパティオに落ちる。ゼノはそのオブシディアンの瞳を柔く細めて、何かを思い出すように視線をどことも知れない空に置く。手摺りに両肘を預けたまま、咥えた煙草の合間から紫煙を逃してスタンリーはその双眸を室内へと向けた。窓に反射する煙草の小さな火が明るく揺れる。かつて、蒸すような夏の夜に非常階段で聞いた泣き声が蘇る。ゼノの変化に傷つきながらも友でいたいと言い、自身の誠実さに追いやられて辞めたい、帰りたいと泣いていた女はあの夜から、逃げずにここまでやってきた。スタンリーは、顔を洗い随分と意識のはっきりした様子でバスルームからこちらにやってくるを眺める。果たして彼女はまだ、当時と同じままの孤独を感じているだろうか。
「」
「おはよう」
「おはよう よく眠れたかな」
「うん ゼノは」
「必要十分は寝たよ」
スタンリーは煙草を咥えたまま風下に煙を逃して、ゼノの返しに笑いながら目の前にやってくるの頬に手を伸ばす。親指の腹で瞼を撫でて、頬をなぞる。が緩くたなびく紫煙に束の間視線をやって、何かを言いたげにその双眸を眇めるのを認めると、スタンリーは小さく喉を鳴らして嘲笑った。あとを追うように、温い風が吹き抜けていく。
「うるせえな」
「まだなんにも言ってないんですが???」
「バグだって言うんだろ」
「ゼノ 助けて 寝て起きたらわたし発言権すらないみたい」
「おおそれは大変だ」
CONATUS
05.09.26