白色蛍光灯が白いキャビネットを照らし、半光沢のビニル材の床に鈍く反射する。ラボと呼ぶに相応しい、ステレオタイプな政府研究施設の雰囲気をもう何十年も保ってきたであろう空間に、宇宙飛行士候補生らの賑やかな会話が踊っている。

、ラーメンできねえか」
「できるかできないかで言えばできるよ 難易度の話しないならね」
「ラーメンいいなあ わたしも好き」
「リリアンは来て初めての官能評価でしょ?どうでしたか?」
「面白かった」
「ならよかった」

スタンリーは少し離れて輪郭の滲んだその音を大して気にもせず、目の前のデスクに置かれた試作品の小型モジュールを見慣れた糧食パウチと併せて手に持つと、その厚みと包装を押した時の感覚に意識を向けた。小袋の香辛料、酸味追加ジェル、乾燥食感パーツ、風味オイル。研究員らが官能評価の後始末に慌ただしくする中で、スタンリーはデスクの上に散らばった開封済みの試作包装を退かして下敷きとなっていたレビューシートを一瞥する。各モジュールの機能、重量比較と包装法の表の横に、見慣れた文字でいくつもの書き込みがある。風味維持、許容。副シール削除済。追加包装削減済。重量比較枠にはさらに、+3.1%から始まって何度も修正された赤文字がある。それはモジュールD+2.8%、+2.4%、モジュールF+2.5%、+2.3%と続き、最終的に「あと0.3%」と書かれた一つの付箋に辿り着く。

「お疲れ様です あ、軍との糧食開発のやつですか」
「ああ」
「大変ですよねそれ 待ってるならさん呼びましょうか?」
「いや いい」

白衣を着た、見たことのあるようなないような顔の職員が、官能評価で使った紙コップや備品を片手にちらりとデスクに目を向けて去っていく。スタンリーはそれに碌な反応もせず、ボールペンでレビューシートに書き込みを入れる。白色蛍光灯に照らされる金色の睫毛が瞬きに揺れて、美しい針のように煌めく。もう一度試作のモジュールを個別に手に取りながら、スタンリーは僅かに目を細めた。開封口を確認し、試作品を強く押してその感覚とパウチの反応を見る。候補生らの会話が止んで、研究室に短い静寂が降る間も、ペンが紙をなぞる微かな音が続いていく。維持。任意。不要。弱い、裂ける。強めに回された換気扇の音が、静寂のふりをして途切れることなく室内を満たしている。

「…」

欄も枠も無視した書き込みを入れていると、不意にポケットから振動が伝わって、スタンリーはペンを置いた。忙しなく行き来する研究者の足音の中で、するりと端末を取り出して僅かに操作したのち視線を落とす。ひどく静かな呼吸一つのうちに画面を見終えると、スタンリーはそれを再びポケットに仕舞いながら官能評価ブースへと向かった。年単位で幾度も足を運んでいるからか、職員らのスタンリーへの視線は当初の異物を見るような好奇のものから、日常のものへと変化していた。


「…」

候補生らの感想戦を見守っていたが、一拍を置いてスタンリーを見る。釣られて一斉に自身に向く候補生らには一切の反応を見せず、スタンリーは軽く顎で自分に倣うよう示してを外へと促した。それは、誰かが名前を呼ばれる、たったそれだけの日常的な光景であった。しかし、周囲の候補生らは誰一人会話を再開せず、スタンリーとの姿が扉の向こうに消えるまでただひたすらに二人を目で追い続けた。

「50分後に出る」

廊下の突き当たりに辿り着くや否や、スタンリーはただそれだけを言った。昼下がりであるにもかかわらず、建物の外れには静寂が吹き溜まりのように堆積している。シリウスのように揺らがないトパーズの双眸をこちらへ向けてそれ以上を言わない目の前の男を、は数秒の間黙って眺めた。体の中で、氷のように冷えた心拍が混じるのを、上手く無視することができない。少し前から、スタンリーはアラート期間と呼ばれる即応待機当番期間に入っていた。基本的には一定周期で、期間中でも何も起きないことのほうが多い。同棲を開始してからはまだ一度も召集までいったことはない。だから状況を過小評価していた、と胸中で呟きながらは自分自身に嫌気がさした。それは、願いのふりをしたただの正常性バイアスだった。そもそもスタンリーはずっと特殊部隊の所属のまま、一時的にNASA案件へ軍側から差し込まれている軍の”アセット”だ。今までも何度も不在だった。ただ、彼が事前にこうして告げることがなかっただけだ。今までは不在であることそれ自体が、彼が任務に赴いているという合図だった。

「分かった」

そう言ってが無意識に伸ばした手を、スタンリーが緩く掴む。リノリウムの床に反射する初夏の日差しを受けて、トパーズの双眸が金星のようにその色を光に揺らめかせている。指先での手の甲を一度なぞると、スタンリーはその手を離して慣れた手つきで振動する端末をポケットから取り出した。通話をするために壁沿いに寄りながら、静かに手元の腕時計を見遣る。

「何人動く …了解 今向かってる ああ 一旦ポープだな」

軍特有の端的な発話での会話を聞く合間に、はいつかの格納庫で見た、戦闘機の飛行前点検を思い出す。あの日、命を懸けた場所で、自分の意志で、様々な責任と期待を背負って立っている人間のことを、見ていたいと思った。その心臓が動き続けるためなら、何だってしたいと思った。幸運なことに、自分にはただ祈って彼を待つ他にできることがある。それは科学者としてやるべきことであり、同時に、たった一人を何が何でも生かしたいという個人的な欲求のために必要な手段だった。空調の低い稼働音と扉の向こうの人の気配が漂う静寂の中で、通話を終えたトパーズの双眸が当然のようにを捉える。

「へェ マシな面になったじゃん」
「わたしのこと見すぎ」

端末をポケットに戻しながら、スタンリーは悪態のように飛んでくる声に口角を上げて小さく嘲笑う。今更だろ、と言い終わるより早く、自身の腕の中に踏み込んで抱きついてくるをスタンリーは躊躇いもなく抱き留めた。そうして数秒で見通しの良い廊下を走査すると、抱き留める腕に僅かに力を込める。周囲に動きそうな人の気配はまだない。

「…他に言える情報ないの」
「ねえな」
「……出発前にこうして言ってるだけましか…」
「…。ま お前が気楽な一人暮らしに飽きる前に帰んよ」
「ぜひそうして」

はいつもと変わらず少しの揺らぎもない柔らかな声を聞きながら、その余韻を溶かすように強く鳴る心臓の音に数拍のあいだ耳を澄ませた。スタンリーは規則的な呼吸を繰り返すだけで、何も言わない。

「ねえ さっき スタンが隊長に就任した時のこと思い出したんだけど」
「…」

そう言ってが顔を上げてスタンリーを見遣ると、スタンリーがひとつ瞬きをする。

「覚えてる?なんか今と似て」

真っ直ぐに自身に向くシェリーのような双眸が僅かに含みを持って細められるのを見て、は言いかけたその言葉を止めた。体の中心で心臓が煩いほど鳴るのを聞きながら、予想した通りに降ってくる口付けに、一瞬その身を引きかける。しかしすぐに、丁寧に呼吸を奪う男を受け入れて、目を閉じた。スタンリーが周囲を把握しないまま行動を起こすことはない。嗅ぎ慣れた煙草の匂いが鼻先を掠める。天井のダクトから落ちてくる低い送風音に混じって、金属製カートの車輪音が階段を伝って階下から反響する。離れていく合間に交わる視線を拾いながら、緩められた腕の中から抜け出すと、はひとつ小さく笑った。覚えているか尋ねるためだった未完の言葉が、たった数秒で見事に意味まで奪われている。スタンリーは再び端末をポケットから取り出して数度の操作をしたのち、今度はそれを仕舞うことなく片手に持ったままに意識を向け直す。

「見られたらどうするつもり」
「そんときゃお前がなんとかしなよ お前ん職場だかんね」

起こる可能性がほぼない仮説を薄い笑い混じりに投げると、それに返ってくる温度の低い柔らかな声が余韻を残して静寂に溶ける。

「やっぱプロトコル無視なんだ」
「お前じゃん 抱きついてきたの」
「ハグは挨拶の一部だから この場ではギリ プロトコル通りです」

廊下の突き当たりに溜まる静寂を笑い混じりの小さな声で追いやりながら、どちらからともなく歩き出す。硬い靴音とヒールの音が並んで直線廊下に反響する。スタンリーはちらりとに視線を落として、緩やかにひとつ瞬きをした。

「お行儀の良い”お見合い相手”じゃねえんだ マニュアル通りは諦めな」
「何そ…………待って なんでそれ」

かつ、とヒールの音が止まる。ひとつ、ふたつと硬いソールの靴音が数歩立ち止まることなくリノリウムの床を叩いて響く。空調の換気扇の音が遠くで鳴って、廊下の反対端でドアの開く音がする。スタンリーは数歩後ろで立ち止まったを振り返って、何か言いたげなその視線を受け止める。美しいバターブロンドの髪が緩く揺れる。その下で、窓からの反射光を掬ってほんの僅かに細められる双眸は、ベテルギウスのように深い橙に煌めいていた。

「もう行くぜ お前も仕事戻んな」
「…行ってらっしゃい」
「ああ 行ってくんよ」








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05.14.26