空調で冷やされた空気が僅かにアルコールの香りと間接照明の熱を含んで、人工的に秩序を保たれた空間を漂っている。至るところで生まれては消える会話が、グラスのぶつかる細い音と心地よい音楽、バーテンダーのシェイクする液体音に混じって溶けていく。ひどく曖昧でまろやかな夜を演出する空間の端のブース席で、はギムレットを口にしてテーブルに頬杖をついた。向かいの席に座る百夜が呆れとも心配とも知れない表情でそれを眺めている。しかし、先に口を開いたのはその隣に座って同じように頬杖をついていたリリアンだった。

「話変わるんだけどさ  今日軍人さんに言い寄られてたでしょ」

リリアンの手元に置かれたシャンパンが明かりを弾いて泡を鳴らしている。はちらりとリリアンを見遣って、すぐにその手前のシャンパンに目線を置いた。溜息のように吐いた呼吸が、手触りの良い絨毯のような柔らかい喧騒に沈んでいく。

「そうなんですよねえ」
「なーぜか軍人にばっかモテんだよなは」
「そうなの?」
「いやそもそもモテるわけじゃないよ 稀に声かけてくるのが不思議なことに軍人ってこと てかばっかって何よ百夜おじさんさあ」
「わりーわりー」
「だいぶ酔ってるね〜!」

けらりと笑ってリリアンがシャンパングラスを傾ける。それに釣られるように、は自身の目の前にあるギムレットを口に含んだ。高い天井と布張りの壁によって反射を潰されて輪郭の掴めない会話音が、人の気配を途切れることなく生んでいる。革靴が厚いカーペット端から石床へ移る硬い音が反響して、エレベーター到着を知らせる小さな、しかし切れの良いチャイムが、上品な猫の首輪のように鳴る。

「そういえば軍との共同開発のやつ どうなったんだ」
「あと0.1%」
「さすがだぜ」
「まだ未達」
「でも着実に詰めてんじゃねーか 何事も一歩ずつ だろ」

そうだね、と小さく笑ってはギムレットの最後の一口を喉に流し込んだ。スタンリーを送り出した日に見つけたレビューシートの書き込みを思い出す。欄も枠も無視した無造作な様子に相反して、示されていたのは得難い角度からの端的な情報だけだった。あれがあったから更に数値を削れた、と思う一方で、未だに目標値に到達しきれないもどかしさが腹の底で煮えている。極限環境下で命を懸けて全力を尽くす人々に届けたいものがある。メモを残し、できる、という信頼を置いてくる伴走者に応えたいという純粋な気持ちがある。

「何かお飲みになりますか」
「マンハッタン」
「かしこまりました お持ちいたします」
「その辺で止めといたほうがいいんじゃねーか?さすがによー」

チェイサーに手を伸ばしながらは何も言わずに百夜を一瞥する。百夜はその視線を受けたまま日本酒を啜ると、見たことのある言語だ、との恋人である恐ろしくも飛び抜けて優秀な軍人のことを思い浮かべた。知りうる限りで最も正確に目の前の女を読み、まるで戦術と等しい判断を下し、狙撃手らしく虎視眈々と時機を見る男は、初夏に官能評価ブースで見かけて以来、この茹だるように湿った真夏の夜にもまだ戻ってきていないようだった。

さ そんなにたくさんの感情 抱えたまんまじゃ 潰れちゃわない…?」
「…潰れたことないよ でも ありがとうリリアン」

滲むように柔い笑みを湛えてそう言うと、はその言葉の余韻が消えるまでの間、バターブロンドの髪が美しい男のことを考えた。テーブルに頬杖をついたまま、店内の客の様子に視線を向ける。その閾値を超えられたことがない、が正確かも、とがそっと言い直すのを眺めながら、百夜はソファの背凭れに背を預けて日本酒の入ったグラスを手に取った。誰もいない廊下で彼女が迷子のように泣きじゃくっていた夏の夜が脳裏をよぎる。潰れたことがない、というのは大局的に見れば正しいが、局所的にみれば表現として語弊がある。そして閾値を超えられない、というのも、果たして彼女がいうほど正確かどうか、自身の目からは判断がつかない、と百夜は思った。あの日に聞いたラッチの閉まる小さな音を思い出す。致命的な破綻はきっと彼女の傍にいる男が止めるだろう。しかしそれ以外は、傷つくことも、孤独になることも、潰れることでさえ、彼は一切拾わないのではないかという気がした。あるいは、自身が潰れることの閾値を致命的な破綻と同一に置いているなら、それについてはまるで解がわからなかった。

「…… ヨシ、歌うか」

不意にリリアンがシャンパンをぐいと飲んで身を乗り出す。テーブルに注ぐ照明に、サファイアの双眸が美しく煌めく。

「……………はい?」
、こういう時はね 歌だよ やっぱ」
「え、まって、どういう理屈でそうなった?てかリリアンが歌うってこと?それは色んな意味でやばいからやめ」
「うん だからが何か歌って」
「ん?いや、え???」
「お待たせしました マンハッタンです」

ピックに刺さったマラスキーノチェリーが少しも揺らがないほど小慣れた動きで、ウェイターが冷えたクープグラスをの目の前に置いた。ガーネットの赤を含んだ琥珀色の液体が、ダイヤモンドのように煌めく薄いガラス縁に照らされている。スパイスとバニラを混ぜたような、甘くて冷たい香りがテーブルに微かに漂う。

「………………いやそれもどういう流れ?」

礼を言おうと上げた視線に少しの相槌だけを返し去っていくウェイターの背中を目で追いながら、は辛うじて途切れた会話の端を思い出した。だいぶ酔いが回り始めている、と瞬きの合間に自身の感覚を確かめて、チェイサーを口に含む。

「いや、案外いいアイディアなんじゃねーか カラオケだと思えば」
「オーイ カラオケにできないでしょここを 社会的な死しか待ってない」
「思いついた歌 なにかある?」

はぱちりと大きく瞬いたのち、テーブルに両肘をついて尋ねてくるリリアンをしばらくの間凝視した。そうして、まるで流れ星を待つ子供のように無邪気な瞳を向けてくる世界的な有名人に、降参したように苦笑する。わかった、と言って大きく息をつくと同時にリリアンが最大級の笑顔で小さく拍手をする。遠く、ミキシンググラスの中で撹拌される擦過音に混じってシェイカーを開ける音がする。その余韻が消えるのを待って、はそっと息を吸った。冷えたマンハッタンのグラスがじわりと光を滲ませるのを眺めながら、記憶をなぞるように歌を紡ぐ。アルコールによってわずかに掠れた歌声が柔らかく空間に溶ける。囁く程度の、誰に聞かせるつもりもない音がリズムを作る。若さや才能、理想的な出会い方がなくてもいい。恋愛映画のような劇的なイベントもいらない。リリアンがスマートフォンを構えていることに気付いて、は歌う合間に微かに笑った。ただ傍にいたい。老いて忘れてしまってもいい。でも先には行かないで。揺らぐ声に涙の気配が薄く混ざる。瞬きでそれを誤魔化して、はちらりと向かいに座る二人を見遣る。リリアンはスマートフォンを構えながらもその双眸を真っ直ぐにこちらに向けて柔らかく笑っている。この場でたった一人、自分が歌う言語を母国語として理解する百夜は、泣きたいのか笑いたいのか分からない顔をしてこちらを見ている。その様子を目に、は、生まれて初めてベテルギウスという星を望遠鏡で眺めた幼い日のことを思い出した。

「誰か電話鳴ってない?」

突如生まれた怪訝そうなリリアンの声に、と百夜がそれぞれのスマートフォンを探る。自身のポケットに手を当ててすぐ百夜が、俺じゃない、と言う。それと同時にバッグの中で光る液晶画面がの視界に入った。心臓が強く鳴って指先が冷える。見慣れた名前が映るスマートフォンを掴む手の甲に一粒の涙が落ちる。

「はい」


耳に心地よい甘さと冷たさが混ざったような声が、真夏の夜のすべてを遠ざけていく。

「今本土戻った 来週そっち帰んよ」

少しも揺らがない声に混ざる、吐息の艶やかな余韻が耳元を撫でる。

「スタンリー」
「なんで泣いてる」

聴き慣れているのにひどく懐かしい声が、電話の向こうで何かを探るようにトーンを落とす。それを聴きながら、は何の労もなく落ちていく涙の隙を縫って笑う。

「飲んでる」
「…だいぶ酔ってんね」
「無事?」
「ああ」
「気をつけて帰ってきて」
「了解」

薄い笑いが電話口に滲んだ後、じゃあなと言って通話が切れる。はその無頓着さにもう一度笑って、スマートフォンを無造作にバッグに放るとソファの背凭れに頭を預けて両手で顔を覆った。言葉になりきらない感情が、溜息とも呻き声とも名状しがたい音になってブース席に滲む。向かいの席で百夜とリリアンが大きく笑う。

「ふふ めっちゃ嬉しそう わたしも嬉しくなっちゃう」
「ね〜 もう 涙出る 嬉しいどころじゃない わたしの男がいちばんなんだから」
「ウヒャヒャ こりゃあかなり酔ってんな」
「酔ってますねえ」

バーカウンターでボトルのコルクが抜ける音がして、バーテンダーが削り出した氷が、からん、とクリスタルグラスの内壁に触れる。不意にソファのレザーの香りが鼻先を掠めて、はそうだ、とその身を起こした。冷えて届いたはずのマンハッタンは、そのグラスに随分と結露を纏っていた。

「スタンリーさんの帰還を祝って乾杯しようよ」

そう言って大層華やかに笑うリリアンがシャンパンのグラスを掲げる。が煌めく深い琥珀色を湛えたクープグラスを、百夜が日本酒のグラスをそれぞれ持ち上げると、グラスの交わる美しい音が鐘のように鳴って、空調でわずかに乾いた真夜中の空気を揺らした。樽の香りに混ざってシナモンとカラメルのような匂いが鼻先を掠める。度数の高いアルコールの喉を焼くような熱が通り過ぎると同時に、スイートベルモットの甘みとスパイスの苦味が舌先をなぞっていく。ふとは、だいぶ輪郭の曖昧になった思考が、睡魔の訪れによって心地よい重みを持ち始めていることに気が付いた。

「急にねむいかも」
「まあもー1時前だもん これ飲んだら帰りましょ」
「なに百夜 ニヤニヤして」
「いやー なんかほっとしてよ ずっと平気ですっつー顔してるつもりだったんだろうが 憑き物が落ちたみてーな顔してるよ今」
「…」

は呼吸に混ぜた笑みで返事をして、手にしたカクテルを口に含んだ。テーブルの沈黙を壊しきらない温度で、しかし相変わらず淡白だな、と苦笑混じりに溢れる百夜の声に、どこかのテーブルでの別れの挨拶が重なる。気付けば何組かの恋人たちが残るばかりで、来た時とは比較にならないほど店内は閑散としていた。同じように苦笑するリリアンと百夜を見ながら、は言葉の意味を掴みかねて一瞬その動きを止める。しかしすぐにその視点の差に気がつくと、手にしたマンハッタンを僅かに揺らしてひどく愉しげに笑った。

「…何言ってんの百夜さん」
「え?」
「この時間に掛けてきたじゃん」
「……そっか!?まって、やだ ときめいちゃう」

ニヤつく女性陣の視線を受けて、百夜は理屈のない小さな居心地の悪さにもう一度苦笑する。自身の視点を改めながら、残った温い日本酒を喉に流し込む。そうして酔いが回っていつもより感情が前に出るの軽やかな笑いに釣られて、百夜は猛獣に狙われていたような感覚をおぼえたいつかの夏のカフェテリアを懐かしく思った。

 スタンリーさんと同棲してるんだよね?帰ってきたらお祝いとか特別なことするの」
「ううん特に 彼18歳からずっと軍人だから もう自分なりの過ごし方があると思うんだよね 邪魔しないほうがいいかなって」
「なるほどね それはそうだ」
「ごはんはわたしのほうが絶対に良いからそれはやるけどね ブリトーばっか好き放題食べさせられない」
「日本人の情熱には勝てねえよな 飯は」
「譲れん」
「ぶはは!武士じゃん」








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05.19.26