スコールを運んできた雲に連れ添って遠ざかっていく雷鳴が、低い地鳴りのように尾を引いて響いている。先ほどまで豪雨に追いやられていた空調と換気扇の音が室内に戻って、火の上でコトコトと揺れる鍋の音に混じる。蓋が少し開けられた鍋からは、甘く煮込まれた玉ねぎと羊肉の脂の柔らかい匂いと、それを包むローズマリーやカルダモンの香辛料の香りが漂っていた。不意にスマートフォンが鳴って、は鍋の様子を見ながらその着信を取る。
「ママ」
どうしたの、と問う声に続く通話口の会話を拾いながらオーブンの中を覗く。網目の厚い窓の向こうで、庫内灯に照らされたカンパーニュが黄金色に焼けている。
「え?あー…… あの ちょっと検討させて」
オーブンが短い音を立てて稼働を終える。は母親の不審げな問いにどう返すべきか思案する合間に、ミトンを嵌めてオーブンの扉を開けた。素朴な小麦の香りが室内に雪崩れ込む。
「いや そうじゃなくて 実は そのー… いま同棲しててですね…」
徐々に小さくなるの声を打ち消さんばかりに、電話口の向こうから驚愕そのものという大きな音が飛んでくる。一気に興奮を帯びた母親の言葉に笑いの混じる相槌を打ちながら、はオーブンからカンパーニュの乗った角皿を取り出し、コンロの空いている口の上に置いた。ミトンを外して鍋に意識を戻し、蓋を開けてレードルでゆっくりと鍋の底を撹拌する。芋にも似たひよこ豆と、華やかな酸味を思わせるトマトの香りが空気を染める。母親の矢継ぎ早の問いに苦笑すると同時に、突如として遠雷に重なった、耳馴染みのある四輪駆動車の力強いエンジン音がの聴覚を支配する。
「ママ ちょっとまた今度電話する」
いくつかの相槌のあと、じゃあねと言っては通話を切った。コンロの火を消して、少し開けていた鍋の蓋を閉じる。エプロンを外して壁にかけると、はそこでようやく自分の心臓が大きく跳ねていることに気がついた。それは初めてのダンスパーティのデートが迎えにきた時の心地の良い緊張によく似ていた。雨粒の残る窓の向こうでヘッドランプの明かりが夜の闇に滲んでいる。階段を降りて、フラットシューズを引っ掛けて玄関のドアを開ける。途端、昼の熱を残した湿気が肌に纏わりついて、濡れた土草の匂いが温い空気に混ざって香った。ドライブウェイに停まった四輪駆動車のヘッドランプが消える。幾許かの雫を乗せるフロントガラスを挟んだ運転席から、トパーズの双眸が真っ直ぐにを捉える。は玄関のドアノブに手をかけたまま、窒息しそうなほど水気を含んだ真夏の空気の中でただ、ひとつふたつと息をした。見慣れたはずのバターブロンドの髪も、トパーズの双眸も、まるで何年も記憶の中で繰り返し思い出していたかのように懐かしい。ポーチライトに照らされる双眸が僅かに細められて、車のエンジンが切れる。途端に押し寄せる静寂の中、どこかの家でタイマー設定されたスプリンクラーが稼働する音がやけに耳につく。運転席のドアが開いて、重厚な音と共に閉まる。
「」
柔らかく迷いのない声音が、たった一つ雨上がりの夜に響いて滲んだ。空のどこかで遠雷が鳴る。夜の中、シェリーに似た色の瞳が少しの誤差もなくの視線を捉える。しかし名前を呼んだきり、まるでこれから起きることを知っていると言わんばかりにスタンリーはその場から一歩も動かない。
「スタンリー」
玄関のドアがゆっくりと閉まる音がすると同時に、スタンリーは手にしていた荷物を地面に落として、自身に飛びつくを両腕で抱き留めた。そうして自身の首元に顔を埋めて笑うの声に、そっと耳を澄ませる。密着した身体からいつもより随分と早いの鼓動が伝う。
「体幹えっぐ」
「犬飼った覚えはねえんだがな」
スタンリーは小さく喉を鳴らして笑いながら、片手でを抱え直して地面に置いた荷物を掴むと、首元に抱きついているに頬擦りするように僅かに頬を寄せた。ぎゅうとの腕の力が強まる。
「おかえり」
「ああ」
の声に返事をしながら一つ瞬きをして、スタンリーはを抱き上げたまま玄関に向かった。湿ったコンクリートを踏むたびに生まれる一人分の靴音が、遠くの高速道路を走る車両の音に混じる。フロントポーチの数段の段差を飛ばして玄関に辿り着くと、がその身を少し離してスタンリーを見た。嗅ぎ慣れた煙草の匂いが、ようやくの意識に触れる。スタンリーは沈黙したままの視線を拾う。透き通る双眸が、ポーチライトの下で金星に似た光を孕む。
「……スタン、何キロ痩せた?」
「4kg」
「いつもどれくらいで戻る?」
「まあ こんくらいならひと月ってとこだな」
じっと何かを思案して視線を落とすを眺め、スタンリーは音もなく口端だけで笑った。玄関のドアを開けて室内に入ると、空調で冷えた空気に混ざる小麦の香ばしさと、煮込まれた玉ねぎと肉の香りが鼻先を掠める。外気よりも涼しいはずの室内は、暖色の照明と食事の匂いで心地よい温度に保たれていた。スタンリーは再び質問を重ねようとするを降ろし、階段を上るよう促す。
「 それ以上はあとにしな まずは飯にすんぜ」
「準備するから先に荷物置いて着替えてきて」
先に階段を上るがキッチンに向かうのを一瞥して、スタンリーはさらに一階層分の階段を上がる。窓や、暗闇の中に生まれるさらに深い影に無意識に警戒網を敷きながら、フロアの電気をつける。久々に見る室内の光景は、作戦出立前とほとんど変わっていなかった。家具や柱の木の匂い、本棚の書籍から香るインクと紙の匂い、洗濯されたリネンの柔らかな匂い、薄く残ったキャンドルの匂い。同棲を始めてたった数ヶ月にもかかわらず、その家はすでにひどく懐かしいと感じるものになっていた。廊下を進んで突き当たりにあるゲストルームの手前で一度足を止めて、暗い部屋の様子を探る。階下で食器が触れ合って細く鳴り、冷蔵庫の開閉音がする。スタンリーは微かに口元に笑みを滲ませると、半分荷物置き場と化しているゲストルームのうちのひとつに無造作に荷物を放り込んだ。
「スタン」
「どうしたよ」
「降りてくるとき寝室にあるマグカップ持ってきて」
「了解」
廊下を戻って反対側の寝室に向かう途中、階下からの声に返事をする。間接照明による穏やかな照度の寝室に入ると、スタンリーは室内を見渡してひとつ息をついた。薄く外界の闇を透かす紗のカーテンの先で、輪郭のぼやけた遠雷が反響する。クローゼットに向かいながら服を脱いで、いつもの位置に積まれているTシャツとスウェットパンツに着替えると、久しぶりに嗅ぐ柔軟剤の匂いが肺を満たす。バスルームの籐籠に脱いだ衣類を入れて、スタンリーはふと洗面台の鏡裏の戸棚を開けた。常備薬に並ぶオレンジの筒を掴んで、の名前が印字されている処方箋ラベルに視線を落とす。就寝前に一錠、という用法の下に掠れた文字で記載されている処方日を一瞥して、棚に戻しながら透けて見える残量を確認する。瞬きによって揺れる金の睫毛が硝子のように光を弾く。戸棚を閉じて寝室に戻り、マグカップがドア側のサイドテーブルに置かれていることを視認すると、スタンリーはほとんど静寂に支配された室内に吐息のような笑みを落とした。
「ひとりで随分贅沢に使ってんじゃんよ ベッド」
「今日から狭くて寝れなくなるかも」
「少なくとも俺ん側は使えねえな」
階段を降りてキッチンに向かい、シンクにマグカップを置きながらスタンリーは双眸を細めて嘲笑う。含みのあるその笑いに小さく目を眇めるに促されてスタンリーがいつもの席に座ると、向かい側でも席に着いた。テーブルの真ん中に置かれた鍋が湯気を立てて、まるで教科書通りの家庭的な匂いを漂わせている。その横に何切れか切り分けられたカンパーニュが並び、オリーブの匂いがするサラダとレモンソースらしきものがかかったヨーグルトが小鉢で自分の前に置かれている。久々に眺める目の前の女の手料理は、いつもと変わらないように見えて、記憶の中のものよりも丁寧に設計されているようだった。コップに注がれた水を喉に流し込んで、スタンリーはスプーンでラムとひよこ豆の煮込みを掬う。
「んで いない間何があった?」
「特に何も起きてないよ いつも通りの数ヶ月だった」
は記憶を思い返すために視線を右に落とす。スタンリーはスプーンの上でやや冷ました煮込みを口に含むと、まだ熱さの残るラムの赤身肉をゆっくりと咀嚼しながらただ静かにの様子を眺める。
「軍との共同開発のやつさ」
「ああ あったねそんなんも どうなった」
「まだ未達」
「期限まだだろ 何が足りてない」
「0.1%分の重量比削減」
元々あの将校が出した条件は易しいものではない。スプーンで肉と豆を掬っては口に運びながら、スタンリーは鼻先で小さく息をついた。僅かに居心地の悪そうな様子で視線を落としているはその先の言葉を続けない。スタンリーはその沈黙の中で、鍋の横に置かれたカンパーニュの一切れを掴む。まだ熱を保って柔らかなそれを齧ると、小麦の素朴な味に混じる蜂蜜の甘さが舌先を通り過ぎていった。煮込みの皿の底をパンで拭って咀嚼したのち、小鉢のヨーグルトをスプーンで掬って口に含む。冷たい塩味とレモンの酸味がラムの脂の重さを押し流す。が手にしたスプーンで煮込みを掬いながらちらりとスタンリーを見遣る。
「スタン 今度研究所来る時少し長めに時間とってくれない?」
「問題ねえよ 俺んとっても仕事だかんね どんくらいあればいい」
「2時間くらいかな」
「オーケー」
ようやくいつも通りスタンリーの食事の観察に戻ったに密かに笑って、スタンリーは食事を続ける。サラダを入れた食器とカトラリーが微かにぶつかる軽やかな音に、空調と電化製品のハミング音が重なる。遥か彼方に遠ざかった遠雷が鳴って尾を引く。
「」
凪のような声音が、掠れた余韻に美しい艶を含んで食卓の静寂を押し除ける。反射的に視線を上げたの瞳を捉えて、スタンリーは目線だけで食事を促す。
「他には?」
水の入ったグラスに手を伸ばしながらそう続けるスタンリーに、は一拍の間思案した。そうして、目の前の男の口数がいつもよりもほんの僅かに多いことに気付く。口に含んだパンを咀嚼することを沈黙の言い訳にして、は改めて目の前のスタンリーを眺めた。向けられる視線の懐かしさに気を取られていたが、その視線や意識にはずっと強い警戒心が滲んでいる。小さな音や、窓や玄関からの外の気配に神経を割いているその様子に、は年の初め頃に友人宅から自身を連れ出したスタンリーのことを思い出した。人間は環境が変わったからといって合理的には変われない。数ヶ月かけて極限状態に最適化された身体はスイッチを切り替えるように日常には戻らない。実際いま目の前にあるのは交感神経優位が抜け切らない、戦場にいるままの身体だった。はパンを咀嚼しきって、いつもよりも随分と簡素に食事を終えたスタンリーの手元にある空の食器に視線を落とす。食事を通してできることは、何も栄養摂取だけではないはずだ。警戒を維持しなくても良いと身体が思い出す環境を、食事の時間そのものを使って作ることだってできる。
「ねえ スタンリー」
テーブルの向こうで、スタンリーが小さく首を傾げて無言のまま返事をする。緩慢な動きに揺れるバターブロンドの合間で、シェリーのような瞳がダイニングの柔い光を反射して美しく煌めいている。
「明日朝 トレーニング行くでしょ」
「ああ」
「帰って来たら起こして 一緒に朝ごはん食べよう」
「… いつもそうしてたじゃんよ」
要領を得ないの言葉に、スタンリーが僅かに眉根を顰めて何かを探るように双眸を細める。
「明日もそうしたいの」
はそう言って自身の中に微かに滲んだ涙の気配に口を噤んだ。それは、遠く極限環境にいる相手に届ける糧食や宇宙食にはできないことだった。糧食や宇宙食のように一食にすべてを最適化して詰め込む必要も、システムの制限も、必達要件もない。目の前の男への食事は何度も作れる。明日も、明後日も、その先も。彼が不在になったとしても、生還する限りは、何度でも。
「んなもん訊くまでもねえだろ お前の飯に付き合わされんのなんか 19の頃からずっとだかんね」
掠れた含み笑いが混じるスタンリーの声は、少しも揺らぎがないのに柔く解けていく不思議な音をしていた。使った食器を下げるために椅子から立ち上がったスタンリーが、テーブル越しにするりとその手を伸ばしての頬に触れて、その肌を小さくなぞる。椅子の擦過音に割られた静寂が戻るまで、はただじっと目の前で何かを確かめる男の様子を見守った。触れて肌に伝う体温が、ひどく懐かしくて恋しかった。
「コーヒー飲むけどお前は?」
「うん」
「んじゃとっとと飯食いな」
「さっきから食べてるじゃん」
「どうかね 減ってんのかよそれ」
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05.24.26