「やあ、スタンじゃないか」
「よう」

ビルディング9を出てすぐに、ゼノは差し込む夕陽に目を細め視認したバターブロンドの髪の男に僅かに驚いた。夕方を過ぎ、ライブオークが見事な敷地には徐々に大きくなる虫の音と反響する観光客らの声が入り混じっている。暦の上では盛夏を過ぎつつあってもなお、吹き抜ける風も肺を満たす空気も蒸すように暑く水分を含んで重い。

「どうしたんだい 休暇中のはずだろう」
「俺らにぐーたら寝る”休暇”はねえよ 最悪この身一つで生還しなきゃなんねえ職業だぜ」
「なるほど では仕事中か 例の糧食開発だね」
「ああ ついでにあんたの仏頂面も 拝んどこうかと思ってね」

バターブロンドの軍人の揶揄に音もなく笑って日陰に入り、ゼノは改めて自身の幼馴染を眺めた。テキサスの夏の湿った風が白衣の裾を揺らす。

「本土に帰還して2週間ほどになるか どうかな リカバリーは」
「早えね 体感で分かんよ」

咥えた煙草に火をつけながら、スタンリーはライターの炎に目を細めた。大して涼しくもない風が頬を撫でてバターブロンドの髪を揺らしていく。隣に立つゼノがどこか満足げに笑う音が木立のさざめきに混じる。

「軍人の君たちにとって 彼女の知見は実にエレガントなアドバンテージのひとつと言えるだろうね」
「…」
「おお 僕は見ていないよ 軍人に言い寄られたと聞いただけだ」
「またか」

飄々とそのオブシディアンの双眸を細めて、ゼノが猿芝居の弁明をする。少し離れた池から飛び立つ数羽の鴨が、甲高く鳴いて夕焼けの空に遠退いていく。スタンリーはタバコを咥えたまま大きく息を吸ったのち紫煙を吐き出すと、口角を僅かに上げて短く乾いた嘲笑いを鳴らした。

「誰か知んねえが 勝てねえゲームにご執心かい めでたいね」

夕陽の色を溶かした瞳が、金星の如く煌めいている。先ほどより遠くで反響する喧騒が、一つ二つと小さくなって一日の終わりを示すように消えていく。レイリー散乱によって作られる夕焼けは、まるで見事な絵画を彷彿とさせる色合いで夜の帷に飲まれていく。

「そういえばその当の本人は風邪か?昼に会ったが随分と声が…」

ちらりと向けられたトパーズの双眸に潜む抑止の気配に気が付いて、ゼノは一瞬言葉を止めた。しかしすぐにその意図を拾うと半笑いでひどく温い視線を返す。風に流される白煙の合間で、夕陽に似た橙の小さな火が煌々と明滅している。

「おおスタン 数ヶ月の戦場で忘れてしまったのかな?大事なプリンセスの扱い方を」
「うるせえな 忘れるもなにも んな扱いしたことねえよ」
「仲睦まじいようで何よりだ」

肺に含んだ煙を吐き出しながら、スタンリーは総評を述べるようなゼノの声に緩く口角を上げた。それから煙草を咥え直して、不意に振動する自身のスマートフォンをジーンズのバックポケットから取り出して応答する。

「今行くから駐車場で待ってな ああ その駐車場で合ってんよ」

通話はその一言のみで、スタンリーはスマートフォンの終話ボタンを押して再び端末をポケットに押し込んだ。そのまま慣れた手つきで携帯灰皿を取り出して短くなった煙草を放り込む。太陽に灼かれた土と草木の匂いを纏った温い風が吹き抜けていく。スタンリーの横で自身のスマートフォンをタップしていたゼノが操作を終えて顔を上げる。

「僕もそろそろ戻らねば によろしく伝えておいてくれ」
「んじゃな」

互いに軽く片手を挙げて簡素な仕来りを済まし、スタンリーは自身の車を停めている駐車場へと向かった。観光客の声はもう疎らに聞こえる程度で、時折数頭で移動する鹿の気配とそれを覆う人工的な機器の稼働音が空気を支配している。聞き慣れたジェットエンジンの離陸時の響きが木々の揺れの合間に鳴って拡散していく。駐車場に辿り着いて、自身の四輪駆動車の横に見慣れた姿を捉えると、スタンリーは束の間そこで足を止めた。木々とビルディングの合間に沈んで溶けていく残り火のような夕陽が、シェリーの双眸の奥に火を灯すようにその瞳を丁寧に照らす。射線で言えば長い距離の視線の先でふとが顔を上げてこちらを見遣る。が微かに目を細めて首を傾げるのと同時に、スタンリーは何事もなかったかのように再び歩き始めた。

「なに?なんかあった?」
「いや なんもねえよ」
「ゼノはまだ仕事?」
「ああ」
「ふうん」

短い会話のさなか、無意識に腕を伸ばしたをスタンリーが一度軽く抱き寄せる。会話を続けながら腕の中でがひとつ息をつくのを眺めると、スタンリーは体温と同じくらいの温度で吹き抜ける風に微かな笑いを薄めて流した。助手席側のドアにを促したのち、開錠して運転席に乗り込むと、エンジンをかけ空調を最大にする。車を発進させてすぐに、心地よいエンジン音が包む車内で小さくあくびをするが、何かを思い出したようにスタンリーを窺う。

「そうだ スタン スーパー寄らないと」
「いつもんとこ?」
「うん」
「オーケー」

スタンリーは取り出した煙草を咥えながら滑らかにステアリングホイールを回して、陽が落ちたばかりの路面を右に曲がる。車を走らせて通りをいくつか過ぎた頃になると、フロントガラスの向こうには数多の車のクリアランスランプやヘッドライトが密度の高い銀河のように瞬いていた。スタンリーはその様子を一瞥して、迷いのない手つきで四輪駆動車を別な通りへと流す。心地よい静寂の中、窓を開けた運転席で煙草を燻らせるスタンリーを、はちらりと盗み見る。運転技術の高さによる安定感だけでなく、職業病からかこの区域について熟知している男の判断の速さには感嘆せざるを得ない。大外を回るように細い通りを何度か曲がって、先ほどの通りの空いている反対車線に躍り出ると、二人を乗せた四輪駆動車は大した混雑に呑まれることもなく目的地へと到着した。

「来るたび思うんだけど というか まあ いつも思うんだけど」

社会的な帰宅時間ラッシュも相俟って、店内は賑わっていた。見慣れたと言えば見慣れた状況で、居心地の悪い査定の視線が音もなく次々に刺さる。オーガニックと高級志向と日常使いを混ぜた大型の食料品店に足を踏み入れながら、空調で冷えた空気の中でがひとつ瞬きをする。その横でスタンリーがちらりとその視線をに落としてカートを掴む。

「本当に歩く観光資源だよね スタン」
「的にされんよりマシだな」

大した興味もなさそうに乾いた嘲笑を鼻先で鳴らして、スタンリーは周囲の視線に足を止めたまま動かないの背を軽く手で押した。碌な抵抗もなく歩き出した様子を眺める。自分は一度も意識したことがない四方から注ぐノイズのような視線と声を、目の前の女は律儀にリソースを割いて拾っている。

「買うもんは」

ひどく短いスタンリーの確認の声に、は振り返ってその意識をスタンリーに向けた。揺らぎのない響きの艶やかな声音が乾いた空気に混じって溶ける。トパーズの双眸が、一度向いたの意識を捕まえて固定する。

「野菜は…明後日朝ファーマーズマーケット行くよね?」
「ああ 特に用事ねえよ」
「じゃあいいや 梨だけ買う 赤いやつ 二つ」
「サラダ?」
「そう」
「お前草ばっかだな」
「何言ってんの スタンだって一緒に食べてるじゃん」

は青果売り場の大きな木箱に文字通り山積みになっている梨を二つ選んで、無造作に置かれたビニール袋のロールから袋を切り離して放り込む。袋の口を緩く締めると、スタンリーがそれを受け取ってカートのバスケットに入れる。精肉鮮魚のエリアに向かいがてらがそういえばとスタンリーを見遣る。

「体重どれくらいになった?」
「知んねえ」
「はい?」
「いちいち測んねえよ 帰還直後は検査すっから知ってんだけだ」
「ええ…測ってよ」
「別に感覚で分かんだろ 回復してっかどうかなんざ」

どこか退屈そうな響きの平坦な低音が、スーパーの喧騒に大して抗うことなく呑まれていく。チルドのケースからサーモンの切り身を手に取ってカートに入れ、がチラリと胡乱な視線をスタンリーに向けると、スタンリーはすぐにその意図を読んで喉を鳴らして嘲笑った。柔いトパーズの双眸が白色蛍光灯の強い光に美しく反射する。

「…まあ 人の声嗄れさせるくらいには テストステロンが戻ったことは分かりますけどね」
「飴でも買ってやるから機嫌直しな」

堪え切れずにもう一度笑ったスタンリーの指先がの頬を一度撫でて、掠れた笑いの余韻をなぞっていく。冷えた空気に嗅ぎ慣れた煙草の匂いが混じる。ふと覚束ない昨晩の記憶が滲んで、は一瞬視線を逸らすと諦めと愛着の混じる笑みを落とした。たとえば帰還のたびに同じことが起きたとして、それが嫌だという日が果たして来るだろうか。夜のあいだ、ずっと自分を一番近くで一番深く捉えて見詰めるベテルギウスのような双眸は、暗闇の中でも何ひとつ取りこぼすことがないほど精緻に自分の全てを読んだ。少しの迷いも躊躇いも持たずに触れてくるスタンリーの手は、いつも根底の本能まで暴いて、どんな言語を介すこともなく直接彼の感情を渡してくるようだった。掠れて耳触りの良い声は、すべての防御を崩される恐怖に呑まれる自分をいつだって定置に戻した。

「…ねえ スタンリー」

店内をいつもの順序で回りながら必要なものをカートに入れていくついでほどの声量で、はスタンリーを呼んだ。スタンリーが乾物のエリアでパスタを見繕うために先を行くの背を視線で追う。

「聞こえてんぜ 続けなよ」
「…いつ相談しようか迷ってたんだけど」
「…」
「10月、うちの親を家に泊めてもいい?」

ぱちりとひとつ瞬きをして、スタンリーはその目を瞠った。は観察するようにその様子を見詰めて、取るべき選択肢と言葉を用心深く脳内に並べていく。束の間沈黙する二人の横を、数組の客が通り過ぎていく。洒落た音楽が途切れることなく店の天井付近を漂って流れている。

「退かさねえとな ゲストルームの荷物」
「…本当?」
「なんで」
「いや、だって 会うとかじゃないよ 家に泊まるって結構…」
「何の問題もねえよ お前こそ何ビビってんだ」
「え」

まるで想定外だと言わんばかりに頓狂な声を上げるに相反して、スタンリーは何らの感情の変化も見せずただ静かに瞬きをした。細い金の睫毛が揺れて光を弾く。は何を指摘されているのか思案する数秒、スタンリーをじっと見据えた。バターブロンドの髪の合間で飽きる様子もなく見返してくるトパーズの双眸が、僅かに細められる。すぐ裏の棚でガラス瓶同士がぶつかる薄く細い音がして、その後をショッピングカートの車輪の音が追いかける。自身の行動の振り返りを終え、指摘が正しいことを理解すると、はすぐにその視線をスタンリーから外した。そうして思い出したように棚から目当てのペンネとトルティーヤを掴んで、ショッピングカートを挟んで改めてスタンリーを見遣る。いつものようにすぐに視線がかち合うと、カートのグリップ部分に頬杖をついてを眺めていたスタンリーがどこか愉しそうに口角を上げる。


「…」
「ハッキリしな 会わせてえのか会わせたくねえのか」
「……会って。」
「オーケー」
「スタン、本当にいいの」
「しつけえな それより手に持ってるやつとっとと入れなよ 腹減った」








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05.31.26