「スタン?」
「いんよ」

ガレージと室内を繋ぐ防火仕様のドアが開いて呼び掛けられる声に、スタンリーは振り向きもせず声だけで応じた。ラッチの閉まる音がガレージに孤独に反響する。それを追って街路樹を鳴らす夜風がシャッターを撫でて通り過ぎていく。鼻先を掠めるコンクリートの床とタイヤの匂いに、微かにオイル類の香りが混じる。例年通り、テキサスは9月に入っても真夏と言って差し支えないほどの残暑だった。

「見にきた」
「すぐ終わんだがな」

そう言ってを一瞥し口端を小さく上げると、スタンリーはすぐに自身の手元に視線を戻した。ガレージに来る際の定位置となっている短めの脚立の上にが無造作に座る。手にしたマグから柔く漂う、淹れたての紅茶の甘い香りが人工的なガレージの匂いを一時的に薄める。まるで朝起きて顔を洗うのと同じと言わんばかりに迷いのないスタンリーの手がグロック19のグリップからマガジンを抜く。作業台に置かれたそれがガレージに余韻を残す余地もないほど早く、スタンリーはスライドを引いて薬室に弾が残っていないかを目視と指先で確認する。それから、誰もいない方向の床に銃口を向けて息をするようにトリガーを引いた。外界の虫の音が滲む静寂を割って、カチ、と乾いた無機質な音が反響する。それは何の無駄も躊躇もない手つきで、ものの数秒の間の出来事だった。

「…それ、あの時 持ってたやつ?」
「ああ」
「…… 初めてちゃんと見た」

マグの湯気に混ぜるように呟いた声が、金属とポリマーの掠れる音に重なる。は分解された銃から視線を目の前の男に移すと、ガレージ内部の明かりを美しく弾く金の睫毛が瞬きのたびに揺れるのを見つめた。スタンリーはその視線を拾うことも手を止めることもせず、スライドを軽く引いてロックを下げ、フレームから外す。10秒足らずで残りの分解作業を終え、椅子に腰掛けたまま銃のパーツのクリーニングを始めると、周囲にソルベントの化学薬品臭が漂った。夜だというのにどこかの木にしがみついて鳴く蝉の声が、収まる気配のない虫の音色に重なってガレージ内部に響いている。

「ねえスタン」

紅茶の入ったマグを口元に運び、はその温度を警戒しながら口に含む。スタンリーは呼びかけに喉の奥で小さく音を鳴らす。

「もしわたしが敵になったら排除する?」
「何の話してんだ」

スタンリーは銃身のクリーニングを続けながら、今度ははっきりと口を開いた。呼吸の混ざる柔い響きと揺らがない冷たい音が声になってガレージの静寂を散らす。

「自分のミッションと相反する存在になったらってこと」
「場合に依んよ そもそも民間人じゃん お前」

一拍程度の思案ののち、スタンリーは大した抑揚もなくそう言った。クリーニングロッドの先端を外しパッチホルダーに付け替えると、作業台の上から白い布を掴んで通し、銃身内部に差し込む。長い金の睫毛が柔らかく揺れる。一度目の布を外して新たな布を巻き、その作業を繰り返す間、作業台の周辺には一つの会話も生まれなかった。家の前の通りを通り過ぎる車のエンジンと走行音が夏の夜の虫の合唱をかき消していく。

「…わたしはどうするかな」
「……」

布を取り替えながら、スタンリーは静かにそのトパーズの双眸をへ向ける。はじっと、スタンリーの手元で分解され手入れされていく銃を眺めたまま、ひとつふたつと瞬きをした。黒く無機質な金属とポリマーがガレージの人工的な光を鈍く弾く。虫の音が何層にも重なって蒸すような夜の空気を飽和させていく。ふとは、かつて守りたかった一つ年下の神童を少しも守れなかったと知った真夏の夜を思い出した。微かに鼻の奥が熱を持ち、鈍く鳴る心臓が重い。

「そもそも武力も 排除というカードも 持ってないしな…」

少し離れた幹線道路を走行する車の交通音が空気の厚い夜気を通して滲む。は思いのほかどの音にも馴染まずガレージ内に孤独に落ちた自分の声を誤魔化すように、マグカップに口をつけて紅茶を僅かに口にした。シナモンとバニラが仄かに香って、蜂蜜に漬けたジンジャーの辛味が、後を追う蜂蜜の甘さに包まれて喉に落ちる。

「”敵”か…」

絶え間なく響く虫の声を聞きながら、は長いこと誰にも見せていない自分の心の底にあるものに意識を向けた。この世界では科学も軍事も、いつだって外の人間が善悪を決める。戦争も、科学技術の発展も、姿も責任もない世論という声が気紛れに賛美しては非難する。メディアは正義を謳って意気揚々と功罪のラベルを貼りたがる。自由を、選択肢を、未来を作りたくて、この世界で人類が前に進むことを願って選んだはずの道は、ずっと初めから何より窮屈で不自由だった。ラベルを貼れば、ラベルを読めば、本体を見なくて済むから楽だろう。それでも、それに抗って自分の在り方を選べるのなら。誰かが敵と呼ぶ関係になっても、誰にも理解されずどんなに孤独になっても、きっと自分は目の前の男の手を離したくないと願うだろう。

「………泣きながら罵詈雑言吐き続けたとしても 逆にこの世の全てから罵倒されても 離せないかも 手」
「……へえ」

カシャン、と冷たい金属音を立てていつの間にか手入れが済んだ銃が組み上がる。スタンリーはその音の余韻が消えぬ間に銃口を床に向けてトリガーを引く。撃針の落ちるその乾いた小さな音は、雑多な音の入り混じる夜にもかかわらずはっきりと耳に残った。銃を無造作に腰に差し、見事なまでに手早く作業台の上を片付けるスタンリーを眺めながら、ははたと先ほどの自身の推論の矛盾に気付く。そうして微かな、しかしひどく乾いた自虐の滲む笑みを落とした。

「敵ならスタンと手 繋いでいられないか」
「仮によ 俺がお前の”敵”でも お前が俺の”敵”とは限んねえだろ」

冷たい絹のようなスタンリーの声が余韻を残して溶けていく。虫の音が一瞬止んで、蝉が一拍遅れて沈黙する。は虚を突かれて、薄い金属音に近い虫の音が再び一斉に鳴り始めるまでの一瞬、全ての動きを止めた。

「なんでそんな話した?」

薄く細められたトパーズの双眸が真っ直ぐにに向く。おもむろにの手からマグカップを取り上げると、スタンリーはまだ熱さの残る紅茶を少し啜ったのち、さらにマグを小さく傾けて幾許かを喉に流し込んだ。はただ沈黙の中でスタンリーを眺めながらその問いについて思案したが、しかしすぐに、問いそのものには特段の理由はなかった、と思い返す。

「なんとなく」

空調の稼働するノイズが、夏の湿った静寂に満ちたガレージに溜まっていく。は手を伸ばして、スタンリーの手からマグカップを受け取ると、そのままそれを口に運んだ。スパイスと蜂蜜の匂いに静かに息をつく。スタンリーが緩く瞬きをするたびに金の睫毛が揺れる。どんな場所でもどんな状態でも、揺らがないそのトパーズの瞳が愛おしい、とは思った。不意に小さく乾いた嘲笑いが落ちる。

「めでたいね 俺の敵になれっと思ってんだ」
「…どういうこと?」
「お前は敵になれねえよ そうなる前に可能性 潰すんでね」

温度のない双眸を細めて喉で嘲笑うスタンリーのバターブロンドの髪が、無機質な光を美しく弾いて揺れる。はマグカップを口元に寄せたまま、鳩が豆鉄砲を食ったようにぱちりと瞬きをした。スタンリーは会話の終わりを示すように、無言でを室内に繋がるドアへと促す。しかしは数拍のあいだ動かず、脳内で直前のスタンリーの言葉を反芻していた。そうしてはたと何かに思い至ってその視線をスタンリーに向ける。どこか近くの家のフロントポーチで生まれる会話がぼやけてガレージの中の静寂を割る。ただでさえ蒸し暑い夜に、幾分か早まる拍動が温度を上げていく。

「……え、まって、それってわたしのこと」
「因子が発生する前にその環境を排除すんだけだ 排除しなきゃなんねえ“敵”がいる時点でもう遅えんだよ」
「……」
「うるせえな」
「ちょっとまだ何も言ってないでしょ」
「見りゃ分かる」

ガレージの電気を消して、とっとと二階に上がりな、と言うと、スタンリーは素直にそれに従うの背を眺めたのち、一階のゲストルームを越えて廊下を進んだ先にあるクローゼットを開けた。取り出した時と同じ位置にグロック19を戻して、音もなくクローゼットを閉める。二階に上がると、ちょうどスマートフォンを掴んで通話に応じるところだったがちらりとスタンリーを見、すぐにその視線を逸らした。

「…。」
「マ…、お母さん ……いや何でも良いでしょ呼び方は 英語か日本語かの違いだけじゃん」

が聞き慣れた声で聞き慣れない言語を話すのを拾いながら、スタンリーはキッチンに向かい、戸棚からカップを出してダイニングテーブルに置かれたティーポットの紅茶を注ぐ。湯気に混じって、古い喫茶店で漂うようなスパイスと蜂蜜の香りが立つ。

「飛行機とったんだ じゃあとで送っておいて うん…手土産?この間リスト送っ…え?彼の?」

ちらりとの視線が自身に向くのを、スタンリーはキッチンカウンターに背を預けて紅茶を啜りながら眺める。声のトーン、表情、視線、発話の癖、身体動作。用いる言語を解することはないが、自身に対して非言語の領域で多くの開示を許してきた目の前の女の状態を確認するのに言葉の意味は不要だった。不意にの視線がリビングテーブルに置かれた煙草の箱に落ちる。

「手土産…好きなもの?ブリトーかな…それ以外は…………ないんじゃない………???」

スタンリーが音もなく笑う気配に、は通話口の母親の言葉を聞きながらキッチンへ胡乱な視線を投げた。そうしてくるりとスタンリーに背を向けパティオを見ながら何かを逡巡して、やめる。

「えっ パパもくる?????」

一際大きな声が、夜の静寂の真ん中に突き刺さる。先ほどまではその視線から逃げようとしていたはずのスタンリーを無意識に見詰めて、は僅かに眉根を寄せた。口元に運んだカップの縁からの様子を眺めていたスタンリーは、通話しながら傍らに戻ってきて手を伸ばすに応じて腕の中に抱き留める。

「来るのは全然良いよ 嬉しい けど」

空いている片手でスタンリーの背をぎゅうと掴んで、は一つ深く息を吐いた。スタンリーは自身のものとまったく噛み合わない心拍を腕の中に感じながら、空になったカップをキッチンカウンターに置く。陶器がカウンターに触れる乾いた音が鳴る。の視線が迷子のように空を彷徨って、声に躊躇いと沈黙が入り混じる。

「ただ…もし…うまくいかなかったら」

スタンリーは抱き留めている片腕で一度だけを抱き寄せた。咄嗟に言葉を飲み込んだが視線を上げる。嗅ぎ慣れた煙草の匂いがして、聞き慣れた心拍が肌を伝う。腕の中のを見下ろす、照明を直接受けないスタンリーの双眸はいつもより深くウイスキーのような色をしていた。

「……。」
「…そんなことない 素敵な人だよ 世界で一番ね」

は薄く笑うとスタンリーの腕の中で身じろぎをし、くるりと体の向きを反転させてスタンリーの胸に背を預ける。の軽い笑い声が、空調と家電のホワイトノイズを散らして余韻を残す。スタンリーは表情を窺い知ることのできない腕の中の女の声に漫然と耳を澄ませた。ふと大した意識も向けられていない指先がの腹に回したスタンリーの手に触れる。緩く一つ瞬きをして、スタンリーはその無意識に応じて指先を捉えた。途切れず会話を続けるの視線が繋いだ手に落ちる。緊張で冷えた指先がスタンリーの手の温度に馴染んでいく。

「いや…それは…なんていうか…あのう…だいぶ喫煙者なんだよね………だからその…パパの反応がね…」

まるで楽しそうではない笑いを落として、は幾度か相槌を打つ。スタンリーに預けていた背を離しながら会話を収束させると、最後の別れの挨拶を告げては通話を切った。そうして背後のスタンリーを見遣る。

「ごめん電話長くなった」
「いんねえよその謝罪 いつ来るって?」
「乗る便の情報あとで送ってって言っといた」
「了解」
「それで スタンリー 来るのママだけだと思ってたんだけど 実はその」
「問題ねえよ 最初から二人で来ると思ってたんでな」
「ええ…?」

「ん?」

自身の名前を呼ぶスタンリーの声に軽く返し、するりとスタンリーの手を離すとはダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしていたマグカップへ、ティーポットから紅茶を注いだ。柔らかく甘いバニラと蜂蜜の香りにシナモンとジンジャーのスパイスが重なっていく。

「一人でやろうとすんな いい加減よ 俺とお前んことだろ この話は」

口元に運びかけたマグカップが手前で止まる。はカップの中で揺れて湖面のように光を弾く紅茶から視線を外せないまま、自身の心拍をひとつ、ふたつと数えた。窓の外で蝉が鳴いている。紅茶を口元に運んで、は少しの逡巡ののち顔を上げる。キッチンの照明に丁寧に照らされるトパーズの双眸が、真っ直ぐにの視線を拾う。

「じゃあ スタンリー 聞いて欲しいんだけど」
「ああ」
「…彼氏を親に紹介するって わたし 何が起きてるのかマジで分からない」

どんな顔して親に会えばいいのか生まれて初めて考えているんですが、と続けるの言葉に、スタンリーは噛み殺しきれない笑いを溢す。夜のしじまの満ちる室内に、それはひどく鮮やかに響いた。笑い事じゃない、と言わんばかりに恨めしげな視線を受けながら、スタンリーはに付いてくるよう顎で示す。リビングテーブルの上から煙草の箱を掴んで一本を咥える。パティオに繋がる窓を開けると、湿度の高い夜風が頬を撫でて過ぎていった。

「ま 上手くやんよ お前の両親のこと教えな」
「情報その1 父は煙草が嫌い」
「…」








contingency
06.06.26