「ごめんね 迎えにスタンいなくて 抜けられない会議があって」
「全然いいわよ」
「昼の時間に一回抜けてくるって言ってたから もうすぐ来ると思う」
「それで?どんな人なの」

淹れたての珈琲の香りがリビングに満ちる。は自身の珈琲に蜂蜜を加えてスプーンで混ぜながら、あまりにも瞳を煌めかせる母親に苦笑した。スプーンがソーサーに触れて薄い音を奏でる。窓から差し込む午前中の陽射しが柔らかくリビングを照らしている。先ほど、スーツケースはあとでスタンリーが運ぶらしいから置いておいて、というの言葉を棄却した父親が三階から階段を降りてくる。その足音を聞きながら、は湯気の立つ珈琲を口に含んだ。

「どんな…?」
ちゃん??この間好きなもの聞いた時も同じような返しだったけど 付き合って三日で同棲してるわけじゃないよね??」
「それはないけど ただ端的に説明できる語彙がなくて」

ソファに座った父親がコーヒーカップを手にして口に運ぶ。スタンリーがどんな人かと問われて、はほとんど初めて、自身が恋人について第三者に語る機会を持たなかったことに気がついた。カップを持ったまま言葉を探して視線を落とし、バターブロンドの美しい恋人について思案する。分かった、とが自信ありげに笑ったのはそれから数度の瞬きのあとだった。

「医者がいなくても怪我の処置をして スーパーがなくても食糧を確保して食べて 地図がなくても目的地につく人」
「…」
「…」
「え?なんで?かなり正確だよ」
「母はね ときどき 娘がちゃんと人と十分に会話する機会を持っているのか心配になるわ」
「軍人か」

ぱきりと氷が音を立てるようにその声は空気を割った。余韻が、リビングの静寂に長い尾を引いていく。はひとつふたつと瞬きをして、コーヒーカップに口をつける。しかし、数秒の時間を稼いでも、その余韻を追いやる音はひとつも生まれなかった。

「…そう」
「所属は?」
「パパ?その辺はあとでスタンリー本人に聞いて せっかく直接会うんだから」
「まあ それもそうだな」
「ていうか ふたりともまだ英語喋れるの?忘れたんじゃない?」
「何言ってるんだ 俺たちはお前が生まれる前から何年も住んでたし 今も俺の論文は英語だよ」
「不思議なもので私もまだ喋れたのよね 蓄積って怖いわ」
「じゃあ何の問題もないか」

が軽やかな笑いをこぼすと、リビングテーブルを挟んだ向かいから、母親の悪戯げな瞳が向けられる。続けて、お昼は日本食だよ、と言いかけたの耳に、窓の向こうからの聞き慣れたエンジン音が届いた。はそれを合図にするようにコーヒーカップを置いて立ち上がる。何事かと自身を見る両親に離席する旨を伝えて階下に向かい、玄関から外に出ると、見慣れた四輪駆動車はちょうど目の前のドライブウェイに滑り込んで美しく停車したところだった。

「スタンリー」
 何してんだ」

車から降りて玄関前にやってくるスタンリーが僅かに眉根を寄せる。夏を地中で生き延びてしまった蝉の声が、近所のスプリンクラーの稼働音に混じる。テキサスブルーの空から容赦無く注ぐ太陽の光が、目の前の男のバターブロンドの髪を美しく煌めかせている。

「ちょっとハグが必要」
「…」

するりと手を伸ばしてスタンリーを抱きしめるの頬に、軍制服の胸元のメタルネームタグが触れる。自身に抱きついているの様子を数拍のあいだ注意深く窺ったのち、スタンリーは薄く笑いながら一度だけ強くを抱き留めた。背に回した手で軽くを撫でて、すぐに玄関から室内に向かうよう体ごと押す。

「二人は」
「リビング ママはもう興味津々 パパは……」
「… オーケー」

言い淀んだに一瞬だけ視線を落とし、スタンリーは了承の返事ひとつでそれ以上の思考のコストを止めた。玄関から先導するが階段の手前で一度立ち止まる。静寂の中で驚くほど強く鳴る心拍に苦笑して、は一つ息をついた。どんな会議に出る時だってこんなに緊張したことはない。



必要最低限の声量に絞られた囁きが背後から鼓膜を撫でる。柔らかく掠れても艶を失わず、淡い余韻を残す低音が、いつもと変わらぬ温度でを呼んだ。

「…スタン」
「いんよ」

早く行きな、というスタンリーの声に、今度こそは階段を上がってリビングへと戻った。幼少期の記憶から大して変わらない様子で会話をしていた両親の意識が一斉に向く。母親の手にしていた小ぶりな林檎が床に落ちる。たったひとつの鈍い音が彗星の如くリビングの静寂を割る。階段を上がって再び足を止めかけたをそれとなく促して、スタンリーはソファから立ち上がるの両親に歩み寄って手を差し出した。

「スタンリー・スナイダーです」
「やあ 初めまして」

生まれた時から自身を知っている父親と、おそらく今は誰よりも自身を知っているであろう恋人が邂逅している状況を、は言葉もなくただ不思議な心地で眺めた。半歩前に出てそつなく挨拶を交わすバターブロンドの後ろ姿に、激しく鳴っていた心拍が徐々に和らいでいく。

「…」

ふと、父親の横で同じようにスタンリーとの挨拶を終えた母親を見遣って、は笑いを嚙み殺した。母親はまるで初めて流れ星を見たかのように、ただひたすらにスタンリーを眺めている。それはにとって、あまりに見覚えも身に覚えもある感覚だった。

「それはそう…この顔面 もうチートだからね…」
「おい 飯作んだろ」
「あ、うん 戻るまであまり時間ないよね?手伝って」
「ああ」
「あ待って それとも」
「懇親会は夜にすんよ」

両親との挨拶を終え、スタンリーはとキッチンに向かいがてら軍制服のジャケットを脱いでダイニングの椅子に無造作に掛けた。片手でネクタイの結び目を掴んで僅かに緩め、胸ポケットに入れていたタイピンでシャツに留める。それからブルーシャツの袖を捲り、自身に視線を向けてくるを一瞥する。昼時の陽光を見事に弾くトパーズの双眸は、を捉えるよりも早く、すでに何が起きているかを知っている様子だった。

「お前はもういいだろ “それ”よ」
「何の話?」

そちらこそ己の飛び抜けた美貌についてもうそろそろ自覚してください、と胸中でだけ呟いて、脳裏をよぎった先ほどの母親の様子には小さく笑った。冷蔵庫を開け、ほうれん草と玉ねぎ、サーモンを取り出してキッチンに置くと、手を洗い終えたスタンリーがそれを受け取ってワークトップの上に置く。入れ替わりでが手を洗いながら、ちらりとスタンリーを見遣ってもう一度笑う。

「さっきさ ニュートンの再演でも見てる気分だった ママが林檎落としたの」
「人んこと笑ってるがな 初めて会った時んお前も同じだったぜ」
「…そんなわけない」
「どうかね」

薄い笑いを含んだ低い声が大した抑揚もなく響く。鍋に水を注ぎ、出汁のパックを二つ入れて火にかけるの横で、スタンリーが手際よく玉ねぎに包丁を入れる。はサーモンを角皿に敷いたクッキングシートの上に並べて、二切れにだけ塩を振ると、それをオーブンへと入れた。キッチンに白米の炊ける匂いが漂う。

「スタン今朝いつもと同じくらいトレーニングした?」
「ああ」
「じゃあ卵足そうかな」

切った玉ねぎを鍋に入れるスタンリーの横で、は壁にかけられたフライパンを取ってコンロに置く。冷蔵庫を開けて、卵と味噌を取り出すと、スタンリーが小さめのステンレスボウルを無造作にのほうへ押しやった。それを受け取り、卵を割り入れて塩と砂糖で味付けをする。フライパンにオリーブ油を敷いてキッチンペーパーで均す。中火でフライパンを熱し、溶いた卵を少量ずつ流し込んでは巻くを繰り返す。フライパンの上で卵が賑やかに音を立てるのを聞きながら、ようやくは背後の静寂に気が付いた。振り返ると二人分の視線が刺さって、すぐにはフライパンの上の卵の世話に戻る。

「静かだと思ったら…」
「そりゃそうじゃん どこの馬の骨かも知んねえ男が自分らの領域にいんだ」

アンノウンに対する態度としては教科書通りだな、とスタンリーが口端だけで嘲笑う。切り終えてステンレスバットに置いていたほうれん草を鍋に入れ、火を僅かに緩めると、スタンリーはまな板をシンクに置いて戸棚を開けた。フライパンの火を消したが隣の鍋から出汁を取り出して、味噌を溶く。オーブンが鳴って、キッチンに漂う静寂を一瞬だけ散らす。焼き上がったサーモンのうち、塩を振らなかった二切れに軽く味噌を塗っては余熱の残るオーブンをもう一度閉めた。

「皿は いつもんやつ?」
「そう それと小皿ひとつ出してほしい あ 来客用のやつ奥のほうにあって 届く…」

が言い終わるより先に、指示された一連の食器がワークトップに並ぶ。見上げてくるをそのトパーズの双眸で迎えて、スタンリーは首を傾げながら小さく片眉を上げる。その口元に薄らと滲む嘲笑いに、物言いたげに目を細めつつ、は両親をダイニングに呼んだ。

「いい匂い」
「長距離移動の日は食べ慣れたものがいいかなと思って」
「ありがとう スタンリー君は日本食普段から食べるの?」
が作った時には」
「あら ふふ なんだか良いわね」

自然と向き合う形でダイニングテーブルに着く面々の前に食事を並べ、箸を置く。はちらりと時計を見遣って席に着くと、いただきますと言って食事を始める両親の様子を一瞥し、水を注いだグラスを手に取った。グラスの水を口にしながら、横に座るスタンリーの手元を眺める。スタンリーは箸を器用に使いこなして卵焼きを口に放り込み、咀嚼しながらサーモンを割って口に運ぶ。続けて米を口に含んで咀嚼する合間に、ちらりと自身の手元を観察するに視線を向けて、静かにひとつ瞬きをする。

「…。」
「……」
 飯食いな」
「いま水飲んでるでしょ」
「グラス咥えてるの間違いじゃん」

スタンリーが味噌汁を口にしながら緩く瞬きをして喉で笑う。不服そうな目でそれを拾って、ようやくはグラスを置いて自身の箸を取った。ふと、向かいの席から食器の触れ合う音に混じって笑いが落ちる。

「いつもそんなに観察してるの?」
「え」
「…。」

笑いとともに届く母親の言葉に、サーモンに箸を入れたままはぱちりと瞬きをした。サーモンを口に運びながら、そっと隣のスタンリーの様子を窺う。食卓に漂う温かな料理の香りが、昼間の陽射しに溶けていく。スタンリーは母親の言葉に何ら返す気配も持たず、いつもと違う横並びの席で、いつも通りに食事を続けている。

「ところで とはどこで?」
「19の時にNASAの研究施設で」

不意に生まれる父親の言葉にもそうするのが当たり前というように間髪入れず、スタンリーは慣れた様子で回答した。は静かに咀嚼を続ける合間、交わされる問答に耳を澄ませる。いくつの頃にどこで出会ったかなど、尋ねたこともなければ、覚えていると言われたこともなかった。

「いまいくつだ?君は」
「24です」
「軍への入隊は?」
「18の時」
「6年か……その制服 空軍だろう」
「籍は空軍で 現所属は特殊部隊です」

グラスの水を喉に流し込んで、スタンリーはそのトパーズの双眸を少しも逸らさずに父親を見た。は父親とスタンリーの様子をそっと窺う。父親の視線は研究者が実験を眺めるそれによく似ていた。一方のスタンリーが父親に向けるそれは、まるで戦場の地形把握をする観察の視線だった。重たくはないが温度のない静寂がダイニングテーブルに滲んでいく。

「ねえ スタンリー君 の料理で好きなものは?」

突然、明るく軽やかな声が静寂を追いやる。一拍の間、スタンリーはその視線をダイニングテーブルの端に置いて沈黙した。瞬きのたび、美しく光を透かすシェリーの双眸に、金の睫毛の影が溶ける。ただ好物を聞かれただけなら明確な解がある。しかし、の料理でと限定された時、それらが何であるかを正確に知っているにもかかわらず、自分の中に明確な解は見当たらなかった。それは考えたことも解いたこともない、隣に座る女に関する最も不要な問いだった。ごく短い思考ののち、スタンリーは脇に置いていた視線を斜め向かいのの母親へと向ける。

「特には 出されたものは食べるんで」
「あれ そうなんだ」
「スタンリーは食に頓着ないからね… てかちょっと質問しすぎじゃない?二人とも スタンが食事」
「別に問題ねえよ もう食い終わってる」
「ねえ どうやってんの???」
「癖なんでね 職業上の」
「はは」

小さく笑う音が生まれて、スタンリーとが同時に父親を見る。父親は二つの視線を受けたまま、口に含んだ食事を咀嚼し終えると、ちらりとを一瞥したあとにスタンリーを眺めた。

「その条件では考えたことがないか」
「…」

その問いに、スタンリーは視線を微動だにさせず、沈黙したまま言葉を紡がない。トパーズの双眸が、光を透かして鮮やかに煌めく。はどうしてかそれに、初めて地球を宇宙から見るような心地がした。父親が鼻先でつく息に少しの笑いが混じる。窓の向こうで通りを走行する車のエンジン音が僅かに静寂を散らしていく。母親が呑気に食事を続ける横で、父親は視線をスタンリーから外して自身の箸先に向けた。それはまるで、最初から解が必要な問いはこの場にひとつもないようだった。スタンリーはひとつ緩く瞬きをして、グラスに残る水を口に含むと使った食器を持って席を立つ。スタン、と声をかけてくると目が合う。スタンリーはちらりとの手元を見遣ったのち、そのシェリーのような双眸をへと戻した。

「帰り何時くらいになりそう?」
「会議終わったら出れっから16時頃だな 出る前に連絡すんよ」
「わかった 夜パスタでいい?」
「なんでもいい」








conjunction
06.15.26