の両親が滞在するその三日間は特に大きな問題もなく賑やかに過ぎていった。言語の壁がないことも相俟って、自身の喫煙習慣の一定の制御という一点以外は、見知らぬ人間が生活に加わってもさほど普段と変わるものもない。パティオの椅子に座るスタンリーはようやく暑さが引き始めた南部らしい夜の風に、薄く呼吸を混ぜて息をついた。先ほどまでの長い会話を終え、室内に戻っていくの父親の背を一瞥する。パティオとリビングを繋ぐ窓が閉まって、一陣の夜風がバターブロンドの髪を撫でていく。ポケットから煙草を取り出して一本を咥えライターで火をつける。大きく息を吸うと、煙草の先が小さく、しかし酷く目立って明滅を繰り返した。
「…。」
隣家の空調設備が絶え間なく低く唸っている。単調な虫の声の向こうには、幹線道路を流れる車列の音が遠い潮騒のようにごく微かに聞こえていた。先ほどの父親との会話を反芻しながら白煙が夜に溶けていくのを眺めていたスタンリーは、不意にその意識を背後に向ける。そうして吸い始めたばかりの煙草を無造作に灰皿に押し付けてその火を消した。
「スタンリー君 ちょっといい?」
返事の代わりに視線と小さな相槌を返すと、の母親はするりと窓を閉めて先ほどまで父親が座っていた椅子に腰掛けた。どうだった、と脈絡も気負いもなく尋ねる声がパティオに落ちる。風が止んで、まだ夏を引きずった湿った空気が肌に触れる。どこかの家の植栽のクチナシが温く湿った空気の中で香っている。
「の観察の癖と思考の原点がどこか分かった」
少しの間のあとにスタンリーがそう口にすると、の母親は心底楽しそうに声を上げて笑った。
「私はなんでが貴方に惹かれたのか分かった」
「…。」
「貴方はなぜに惹かれたの」
スタンリーはちらりとそのトパーズの双眸を母親に向け、そこにあるものが疑いや懸念ではなく純粋な好奇心であることを読む。好奇心や可能性、仮説、未知に釣られて無限と言ってよいほど問いが立つに似ている、と思いながら、スタンリーは視線をパティオの向こうに放った。出会いまで記憶を遡って、大して思案もせず口を開く。
「…… 気づいたらそうだった」
「どこが好き?」
「信頼できる 頑固なとこが」
スタンリーは僅かに口元に笑みを浮かべてその視線を隣に座る母親に戻した。の母親の軽やかな笑い声が、再び住宅街の夜に弾けて虫の声に滲んで消えていく。
「スタンリー君、と会ってからどれくらいだっけ」
「4年」
「すごいね 私たち家族と同じくらい分かってるみたい」
「…いや 二人が来てから知ったこともあるんで」
「ふうん……知りたいと思う?うちの娘のこと」
悪戯気に目を細めるの母親に、スタンリーは一拍のあいだ沈黙した。目の前の母親から投げられる問いは先ほどからどれもこれも、誰にも向けられたことがないものばかりだった。
「…まあ」
「実は渡せたら渡そうと思って持ってきたものがあって」
そう言っての母親は羽織っていたカーディガンのポケットから小さな封筒を取り出すと、それをスタンリーの前に差し出した。予想だにしない挙動にスタンリーはぱちりと目を瞠る。数軒先の庭で生まれる誰かの会話の気配が風に乗って流れてくる。クチナシの甘い香りが鼻先を掠める。
「開けてみて」
そう言われて、スタンリーはようやく差し出された封筒を受け取った。留められていない封筒を開けると、小さな古い写真が滑り落ちてくる。細い金の睫毛が揺れて、トパーズの双眸が夜の薄い光源を拾って美しく瞬く。
「…ふ」
虫の声にも、遠い潮騒に似た幹線道路を走る車の音にもかき消されそうなほど小さな笑い声がパティオに生まれて、余韻さえ残さず消える。
「手土産考えるのにあの子にスタンリー君の好きなもの聞いたら ブリトーしか知らないっていうからこれしか案がなくて」
「…」
「結構賭けだったんだけど でもスタンリー君の様子見てて これなら好きかな〜と思ったのよね 渡せてよかったわ」
かわいいでしょう、と、一仕事終えたと言わんばかりに満足気にの母親は笑うと、写真をじっと眺めるスタンリーに倣ってそれへ視線を向ける。それは、まるで初めてのクリスマスを迎えたかのように目を煌めかせる幼い子供が、真っ直ぐに夜空を見上げている写真だった。
「あの子には内緒ね 怒られそう」
の母親は写真からスタンリーへ視線を移しその表情を眺めると、柔く笑って大きく息をついた。おそらくは、要らないとは言いそうにもない、とその様子を見終えて椅子から立ち上がり、戻ってるわねと言ってパティオを後にする。スタンリーは写真を封筒に戻してスウェットのポケットに仕舞うと、鼻先でひとつ微かに笑ってサイドテーブルの上の煙草の箱に手を伸ばした。慣れた手つきで煙草を咥えて火をつけ、深く息を吸う。風が緩く吹くたびにオークの枝葉が擦れ合う音が虫の声に混じる。吐く息と共に流れていく白煙が、湿った夜に名残だけを残して薄れる。スタンリーは煙草を咥えたまま、サイドテーブルに置いたスマートフォンを手にしてロックを解除すると、おもむろにカメラロールを開いた。幾度かスクロールをして、手を止める。明滅する煙草の火の色を湛えた双眸が柔く細められる。金の睫毛が揺れる。片手に煙草を預けて肺に溜めた煙を吐き出しながら、スタンリーはもう一度だけ小さく笑ってそれ以上操作することもなくスマートフォンの画面を消した。
「スタンリーは?」
「パティオで喫煙中」
入浴を終えて三階から降りてきたが、母親の言葉に緩く返事をして、キッチンにあるミネラルウォーターのボトルを取って口に運ぶ。パティオに見えるバターブロンドの見慣れた背中と白煙に音もなく呆れたような笑みを浮かべ、はリビングのソファに腰掛けた。向かいの父親は予想通りに難しい顔をして珈琲を啜っている。
「喫煙習慣はずっとなのか」
「出会った時にはもうああでしたね 残念ながら」
「…」
「唯一の最悪のバグなんだよね スタンの」
「でもイケメン具合が極まって色気がすごいじゃない」
「んふふ ママ大好きじゃんもう」
「そういう話じゃないだろう」
軽いトーンで謝る母親に笑ったのち、は確かにと言ってソファの肘置きに頬杖をついて短く声にならない音を鳴らした。
「健康面で言えば まあ パパの言う通り ないほうがいいに決まってるんだけど」
そこで口を噤み、言葉を探す。の生んだ沈黙がリビングを静寂で満たす。かち、かち、と時計の秒針が場違いなほど響いている。どんな言葉が適切なのか、は視線を落として考えながら、かつて高高度生理訓練で見たスタンリーのことを思い出した。まだできる、と言った声と、彼の突出した数値について。初めてスタンリーの死の輪郭を捉えたと知ってしまった瞬間について。
「でも…生きて帰ってくるためには もしかしたら 必要なのかもしれないって、思う時がある」
いつかの夜の車内で、生き延びたいなら使えるものを全部使え、と言ったスタンリーの言葉がふと脳裏をよぎる。今でこそ習慣になっているが、始まりがどうだったかは知りようがない。知る必要もない。ただ、それが結果的にでも彼の生還に寄与するなら一概に否定はできない、とは思った。
「…」
「ニコチンは脳の覚醒を促して集中力を即時に高めるでしょ」
ただ好きなだけかもしれないし、実は狂気的な合理性なのかもしれない、と、なかなか退かないリビングの静寂に、ひどく慎重に言葉を置いていく。両親のどちらの顔も見ずに、ただ手にしたミネラルウォーターのペットボトルを見つめたまま、はもう一度言葉を止めた。最も得意な言語であるはずの母国語で、何をどの言葉にするべきかが悩ましかった。
「健康寿命は延びないだろうけど 確かに科学的には スタンリーの仕事の精度はそれで1%上がる可能性がある」
「…彼の仕事については本人から色々聞いたが 、本当に軍人でいいのか」
「パパ わたしは軍人を選んだわけじゃない ていうかむしろ 全然選べなかった」
不意にパティオに繋がる窓の開閉音がリビングの静寂を外に逃がす。夜の風が一陣リビングに紛れ込んで、湿気とクチナシの香りを置いて消えていく。全員の視線がスタンリーに注がれる。スタンリーは瞬時に自身に集まった三者の視線を苦もなく受けたのち、そのトパーズの双眸をソファに座るに向けた。月の光で編んだような長い睫毛が瞳に薄い影を落としている。
「平気かよ」
「なにが」
「その面、泣く前じゃん 何の話してた?」
「…何の話だったっけ?」
「スタンリー君この間誕生日だったらしいじゃない」
スタンリーがの隣に腰を下ろして、向かいの母親の言葉に短く同意の返事をする。要るかとから差し出されたミネラルウォーターを手にして一口喉に流し込みながら、スタンリーは一拍程度の短い間、隣に座る女の様子を丁寧に観察した。
「何したの?誕生日」
「特には何も」
「毎年日付変わったら音楽のプレイリスト贈ってる それ以外はゼノと三人で食事して …まあ、いつも通りだね…」
「ま そうだな」
物欲ないんだよねこの人、と誰にも求められていないのに言い訳のように呟くにひとつ笑って、スタンリーはペットボトルをの手に戻す。珈琲の香りと陶器の触れ合う音がリビングテーブルの周囲に満ちる。
「面白いわね の誕生日は何するの?」
「いろいろ スタンリーが24時間くれる」
「ん????」
「はは」
「…一日自分のスケジュール空けて その日を任せてる」
誕生日当日にはならないこともある、と言いながら、スタンリーは想定外の答えにひどく楽しそうに笑うの母親と、その隣で笑みをこぼした父親を眺めた。その様子からはすでに、アンノウンを見極める神経質な気配も視線も少しも検知できなかった。たった三日のうちに、多くが変化した。自分自身も、両親も、初日に比較して随分と砕けたトーンで会話している。家族と恋人を同じ空間に置くことに不安と緊張を抱えていたは、もはやその区別すら曖昧にしつつあるようだった。スタンリーは先ほどパティオから戻った際にリビングに残っていた静かな空気と、そこで揺らいでいたの様子を思い返す。かつて冬の駐車場で、持つことができるかと問われた時の、涙に染まった声が脳裏に蘇る。
「スタンリー」
不意に呼ばれた名前にスタンリーはを見遣った。家族に釣られて笑いを滲ませた声音とは裏腹に、その瞳は何かを測るようにスタンリーの双眸を見つめている。その役は俺んだろ、と胸中でのみ呟いて、スタンリーは小さく口端を上げて嘲笑った。
「なに」
「…… 何でもない そろそろお風呂入って」
「ああ」
「俺たちもそろそろ寝ようか」
「そうね 荷造りの確認もしないとだし」
「手伝う?」
「いや、大丈夫だ」
「じゃあこの場はお開きということで」
そう言ってが笑うと、それを合図にそれぞれがソファから立ち上がる。小さな会話とともにコーヒーカップを持ってキッチンに向かう両親を一瞥したのち、は三階に向かうスタンリーの背を眺めた。しかし、大して眺める間も与えずスタンリーがちらりと振り返る。何してんだ、と呆れの混じった声が投げかけられて、はひとつ小さく笑うとその背を追うようにリビングを後にした。
handover
06.20.26