「処理能力で言えばAのプロセッサが優位だがね」
「んー でも俺はCで行くわ 壊れた時に直しやすいほうがいい」
「おお、ならば最小交換単位も同時に切り直すべきだな 保守性を取るというなら モジュールのサイズを船外活動の手袋で扱える範囲に収めなければ矛盾する」
「……一瞬でそこまで出てくんのかよ」
寒波によって急激に下がった気温が肌を刺す。メキシコ湾からの空気が、湿り気を帯びた冷たい風となって衣類の隙間を吹き抜けていく。冬の空気に滲んで消えた百夜の呆れとも感嘆ともつかない言葉に、ゼノは何ら特別なことはないと言わんばかりにただ口角を上げた。
「助かったぜ ゼノ 忙しいのにサンキューな」
「この程度なら構わないよ」
「とかいってこの後もめっちゃ予定詰まってたじゃねーか」
「アルテミス計画が動き出しているからな」
月面着陸目標の再開、持続的な月面活動の検討、深宇宙運用能力の構築。やることは無限にある、と続けるそのオブシディアンの双眸は不敵に煌めいている。たったひと呼吸さえ大袈裟なほど白く染める寒気に目を細め、ゼノはロケットパークに佇むサターンVロケットのレプリカを一瞥した。
「おっと やべー このあとすぐ官能評価だったわ」
「か 彼女はどうしているかな?」
「ん?最近会ってねーの?珍しいな」
「互いに多忙の身でね」
最後に見たのは2週間前の年越しにかけて過ごした時だ。スタンリーはその直前の召集により不在だった。現時点でも帰還したという連絡はない。研究棟への道すがら、ゼノはふと隣にある不自然な静寂に気が付いた。何の返事もしない男を横目で捉える。百夜は呼吸を白く空気に溶かし、口にする言葉を選んでいるようだった。
「んー いつも通りじゃねーか?」
「何か気になることでもあるのか」
「いや 特にはねーんだが」
「やけに言い淀むな」
「まー気にしすぎかもしんねえ 同じ日本人同士 つい過保護になっちまうんだよな」
はははと盛大に笑って百夜はおもむろに三叉路で立ち止まるとゼノを見遣った。ゼノは脳内で演算を走らせているかのように、ただ静かに百夜を見ている。その双眸は冬の夕闇の中、大した光も拾わずにまるで温度のない漆黒をしていた。息がつまるほど冷えた風が、枯れ葉を鳴らして寒々しさを際立たせる。
「んじゃ 俺こっちだからよ」
「ああ」
敷地内の道路を走る車のエンジン音が遠く響くなか、ゼノは大して百夜を見届けもせず自身の研究室へ向かう。アウターのポケットで振動する業務用のスマートフォンを取り出して、10分後に予定された会議のリマインダー通知を消去する。そのままポケットに端末を戻しかけて、ゼノはふとその手を止めた。再び画面に視線を落としたまま研究棟の出入り口をくぐり、エレベータのホールボタンを押す。何度かスクロールと入力を繰り返している間にエレベータが到着すると、中から人の出てくる気配がした。
「Dr.ゼノおつかれさまです」
「……」
聞こえた声に大した意識も向けず、乗員のいないカゴに乗り込んで目的階を押し、ゼノは少しの間端末を眺めた。誰にも急かされることのないドアが、静寂の中で短い音を立てて閉まる。スクロールとともにじっと液晶画面を追っていた黒の双眸が、ようやく一つ瞬きをする。そうしてその背を壁へ預けて天井を仰ぐと、ゼノは深く息をついた。ロープを巻き上げる駆動装置の振動音がカゴ内に反響するなか、業務用のスマートフォンを仕舞い、今度は私用のそれをスラックスのポケットから取り出した。手早く操作して見慣れたチャット画面を確認するが、すぐにそれもポケットへと戻す。そうして目的の階で開いたエレベータから、ゼノは静かに降りていった。
「あれ、今日は早いね」
「なんか目が覚めちゃって」
「ラテ熱めにしておくよ」
「お願い」
前週の寒波がぶり返したその朝は驚くほどの冷え込みだったが見事な快晴で、目につくすべてが氷に包まれて美しく煌めいていた。出勤途中でいつものカフェに寄り、ベーグルと熱めのアーモンドラテを注文する。ジャズの流れる店内で支払いを済ませ、運転席に戻って紙袋を助手席に放った。ホルダーにラテを収め、は職場へと車を走らせる。NASAの名前を冠した大通りを抜け、警備ゲートをくぐって研究棟の駐車場に車を停める。ラテのカップと紙袋を掴んで運転席を降りると、呼吸を奪うほど冷えた風が真正面から吹きつけた。母国の企業が誇る冬の風物詩であるインナーとダウンを着込んでいても、顔面に風を受ければひたすらに寒い。身を竦めてドアを施錠し、足早に歩き始めて間もなく、見慣れたクーペが駐車場に滑り込んだのが見えては小さく息を吐いた。相手に向けて片手を軽く挙げ、形だけの挨拶を済ますと、表向きは寒さから逃れるために研究棟へ向かう。しかし、背後で軽く短いクラクションが鳴って、は今度こそ僅かに天を仰いで大きく溜息をついた。
「何か用事?」
「おお、君はいつから僕を邪険に扱うようになったのかな?君の可愛い”後輩”だろう いや、兄かな」
「……」
研究棟へ足を踏み入れたは、数歩後ろをやってくるゼノの飄々とした言葉に胡乱な視線を投げる。別棟に研究室を持つ彼がついてくる意図は、朝食の同席以外にない。エレベータのホールボタンを押して立ち止まる。無機質な建物内に温度のない朝陽が差し込んで、床のタイルを照らしている。隣に立つアイスシルバーの髪の男は一度珈琲を口に運んだ限りで、腕時計を見るいつもの癖も出さない。
「ゼノ 朝ごはん食べた?」
「いや 珈琲だけだよ」
「半分あげるね クリームチーズはブルーベリーだけど文句言わないで」
「おお ベーグルか」
エレベータが到着して扉が開くと、ゼノが先に乗り込んでフロアボタンの次に開ボタンを押す。大して間を置かずが乗り込むと、エレベータは他の乗員もいないまま目的のフロアに向かった。
「いつもこんな早いの?」
「最近はそうだな 君もかい」
「わたしはたまたま」
廊下の突き当たりにある共用スペースのテーブルに腰を下ろして、は紙袋を開ける。パラフィン紙ごと中央で綺麗にカットされたベーグルの半分を差し出すと、向かいの席のゼノがそれを受け取った。ベーグルに厚く塗られたブルーベリークリームチーズの匂いが珈琲の香りと混じって、白い壁に反射する朝陽に溶ける。早朝の廊下には人の気配がまるでなく、給湯室の冷蔵庫のコンプレッサーが立てるモーター音すら目立つほどだった。
「忙しいんじゃないの ゼノ」
「なるほど それが僕を避ける表向きの理由か」
はベーグルの端を頬張ったまま、わずかに動きを止めた。しかしひとつの瞬きののち、すぐに咀嚼を再開する。しんとした廊下に大型空調のハム音とダクトから漏れる機器の稼働音が揺蕩っている。向かいに座るゼノが足を組んで、こめかみに指先を添える。
「だが君は… いや、僕らは、というべきかな 今まで一度たりとも互いの多忙に頓着したことはない」
「ゼノ 朝からなんの話」
「 君が心血を注いでいたプロジェクトが死の谷に落ちたというのに 君はこうして平穏を”演じて”いる おお これは一体どういうことだろうね?」
温度のない黒曜石の瞳が真っ直ぐにを見据える。技術的に価値があると信じる案件や提案を理不尽に潰される経験が、自分たちのような科学者に何を齎すかについて、ゼノはよく理解しているつもりだった。
「まず避けてない 会う機会がなかったのはただの偶然でしょ」
「ほう」
「……」
「偶然という言葉はパターンが未解明の状態にのみ適用するものだ 物事には 必ず合理的な法則がある」
まさか君が知らないはずもあるまい、とゼノは手にした香ばしい全粒粉のベーグルを口に運んでその目を細めた。朝陽を吸い込んで豊かに艶めくオブシディアンの双眸を一瞥して、は淡々と食事を続けるためにその視線を手元に落とす。ゼノの言うことは概ね正しかった。軍との共同研究として進めていた糧食開発は、目標値である現行重量比2%を達成した。その上で、軍側の計画変更により実証段階の予算が他に回されて凍結となった。事実上の消滅と言ってもいい。技術的には成立した。結果を示すデータも出ていた。要件も満たし仮説も正しかった。それでも、その正しさを証明する機会は失われ、実際のシステムには実装されない。科学的に正しくとも運用に組み込まれないこと、それすなわち敗北だった。システム側の都合ではなく、人間側の都合で辿り着けなかったことが、火傷のようにしつこく意識に残り続けている。
「みんなどこかで 経験することじゃん 死の谷は」
「その指摘は正しい だが僕は"みんな"が主語の話をしていない」
「……」
低く落ち着いた声が柔らかく耳を撫でる。は気を緩めると滲みそうになる視界を、努めていつも通りに瞬きをして整えた。ベーグルを齧って咀嚼し、気持ちを落ち着けるためにひとつ大きく息をつく。こちらの逃げ道を一つも見逃さないゼノの声は、しかし追い詰めるような圧も解を迫る冷たさも持っていないようだった。
「まるでエリザベス1世だな」
沈黙以外のカードを切るつもりのない様子のにそう言って、ゼノは鼻先で柔く笑う。静寂の中に生まれる微かな余韻が、廊下の隅に設置された自動販売機のモーター音にかき消される。コーヒーカップを掴んでちらりとゼノを見遣るがその軽口に乗って、溜息に薄く笑みを溶かした。
「………国と添い遂げて一生独身ってこと?」
「そうではないよ だがそのエレガントな知識があるならば 僕の意図は伝わっているだろう」
目の前の後輩に手を焼いている、と言いたげなの視線を飄々とした笑みひとつで受け流して、ゼノは改めて目の前に座る女を観察した。出会ってから4年以上の経験を踏まえれば、注力した案件が凍結されたことについて彼女がその事実も心情も吐露しない現状は極めて異常だ。彼女が偶然と呼ぶ状態は、長い付き合いの中ですでに逸脱したパターンであることが証明されているうえに、実際に自分に接する様子は平常時のそれではない。テーブルに置いたコーヒーカップを手にしてまだ熱さの残るそれを喉に流し込み、ゼノは中身のなくなったパラフィン紙を手の中で小さく丸めた。が何を許せないと思う科学者なのかを鑑みれば、原因が技術的敗北そのものではなく、彼女自身の”停滞”に起因していることは容易に導き出せた。アルテミス計画の再始動によって前進する自分と、予算凍結によって足を止められた彼女。その非対称な現実が彼女に自分を避ける回路を選択させているのだとしたら、その無力感や挫折の深度は仮説通り相当に深い。
「では僕はそろそろ研究室に戻るよ」
「欲しい情報は観測できた?」
「おおそうだね 実に有意義な時間だった」
椅子から立ち上がるゼノが悪戯げにオブシディアンの双眸を細めて笑う。は椅子の背もたれに背を預けて目の前の男を見上げると、鼻先で呆れたように笑いながら大きく息を吐いた。アウターを着直すゼノのアイスシルバーの髪が、朝陽を受けて温度もなく美しく煌めく。
「ゼノ」
「何だい」
「……努力に価値はあるのかな」
「努力が評価されれば満足するのか 君は」
「…」
「問いの立て方が随分と下手だね 」
「……」
「食事相手が欲しくなったら声をかけてくれ 今更遠慮する間柄でもないだろう?同じベッドで寝た仲だ」
「ちょっとゼノくん待ってくれない?それは語弊がありすぎる」
「おお、語弊とは聞き捨てならないな 僕は極めて正確に事実を述べたまでだよ」
chasm
「お疲れ」
「ああ」
本土基地の専用ランプに駐機した戦略輸送機から降りてすぐに、ひどく冷たい強風がジェットエンジンの熱と混じって吹きつける。同じ輸送機で戻ってきた軍人らの粗暴で気の抜けた会話を耳にしながら、見覚えのある顔の軍人が促す通りに部隊車両に乗る。目的地である基地施設に到着後、いつも通りに武器や機密装備を返納すると、デブリーフィングのために会議室に向かう上官がちらりとこちらを見遣って、スナイダー、と言った。それは通常では発生しないタイミングの接触だった。
「お前のヒューストン常駐についてだが 案件終了に伴い今後について上層部で調整中だ。追って通達する。どこにでも行けるようにしておけ」
「… 了解」
06.27.26