微かな風の音がする。しかしその柔らかな空気を裂くような音は、寒くない。わたしはそっと息を吸う。僅かに身じろぎすると、すぐ側で穏やかな心臓の鼓動が鳴っていた。ひとつ、ふたつ、わたしの鼓動と並ぶように、少し遅れてその音はついてくる。楽譜に並ぶような音階も、子守唄のような響きもないのに、それはとてもわたしを和らげる、世界で最も美しくて、けれど誰も知らない特別な歌のようだった。もう一度眠りの海に潜りたい、と思ったところで、体の位置が少しずれた分の肌寒さが、ついにわたしの瞼を持ちあげさせる。かしゃり、と金属が掠れて、ほんの少し、歌が近づく。

「起きたか」

肌を伝って深い声がした。わたしがスローモーションのような瞬きをひとつ落とす間、その声はわたしたちの周りの柔らかな沈黙を守る。どうやら、甲板で晩酌を楽しみながらいつのまにか眠ってしまっていたようだった。足元に転がる見慣れた酒瓶がひとつ、律儀に立てられた酒瓶がひとつと、小さな器が2つ。いつもの光景だ。いつから、いつもの、になったのか、はっきりとは思い出せない。そんなに遠い昔ではないが、明確な合図やサインがあったわけでもない。思い出すと、愛おしくて、悲しい心地がした。もとの世界から降ってきて、異邦人としてこの世界にいる。それがもうすぐ、一年になる。この世界のことは昔から知っていた。拾われた時に見たどの顔も、見たことがある顔だった。しかし、いつどうやって戻るのか、戻れないのか、誰か何か知っているのか、何一つ分からない状態では、誰と関わるのも怖かった。嫌いだったわけでも、人見知りだったわけでもない。好きだったからこそだ。もしかしたら明日、来た時のように突然、今度はもとの世界に戻っているかもしれない。そんな風に別れも言えないかもしれない状態で、誰かと親しくなってしまったら。その先を目の当たりにするのが、ただただ怖かった。別れが言えないかもしれない、なんて、そんなことは本当はどこの世界でだって同じはずなのに。ほんの微かに、腕に触れる金属の欠片が動く。

「...起きたのか?」
「どれくらい寝てた?」
「ほんの少しの間だ」
「そう。...お酒、ぜんぶ飲んじゃったの?」
「...ああ」

鎧をまとった腕が、確かな意志を持ってわたしの体をより近く抱き寄せる。酷く雑に解釈すると、いいから黙れという意味だ。もちろん彼にそんな乱暴な意図はないことは分かっているけれども、わたしはいつもそう意訳する。わたしが小さく笑うと、抱き寄せる腕の力が緩まる。わたしは彼の体に自身の体を預けて、深く息を吸った。夜の深い闇が、艶めいて見渡す限りを包んでいる。いつから、こうして共に晩酌をするのが当たり前になったのかは覚えていない。でも、いつから、こうして身を寄せることが当たり前になったのかは、とてもよく覚えている。あの夜もこの騎空挺の上で、星が降っていた。

「バザラガ」
「どうした」
「すき」

彼の鎧が、ゆっくりと一度、わたしの肌を撫でる。空に星が降る。ふたつ、みっつと光がそれを追いかけて落ちていく。わたしたちの周囲には、とても綺麗な沈黙が揺蕩っている。バザラガはわたしのその音に、いつも少し無防備だった。だからわたしはいつも、彼の柔らかい心なるものに、両手で触れるような心地がした。もう二度と触れられないかもしれない、という不安定さの中で、いつも、わたしは全力で彼を愛した。互いを特別なものとして扱うことは、わたしにとって、そしておそらく彼にとっても、大きな決意と勇気を用いて、数多の悲しみの存在を受け入れることだった。ましてや彼にとっては、如何程の覚悟と恐怖を、要しただろう。それを思うと、わたしはいつも、名前を冠し難い感情でいっぱいになって泣きそうになった。

「...俺もだ」

数拍置いて、小さな、しかし迷いのない声で、バザラガが返事をする。ずっと彼がすきだった。だから、彼のことをすきな気持ちが、わたし以外の誰かの心にも存在していることを知っていた。彼が過去に失ったものの欠片も、最近失ったものも知っていた。だから、いつまでこの世界にいられるのか分からないまま、心に触れるのは怖かった。それなのに、最後の最後に、わたしはそれを全て無視した。運命、なんてものではない。それはわたしの、数多に下してきた人生の決断のひとつだった。それに彼が応じるかどうかなど、その時は、どうでもよかった。ただ、声に出して、言葉にして、伝えられるなら、伝えたかっただけだ。そしてわたしの心にその覚悟を育てたのは、他でもない、バザラガその人だった。


「ん?」
「何を考えている?」
「...バザラガのこと」
「そうか」
「なんで?」
「いや...気にするな」

微かに鎧の奥で笑う気配がして、わたしが再度問い詰めようと身を乗り出すと、バザラガはそれを見越したようにその勢いをとても器用に扱ってわたしを抱き上げながら立ち上がった。いつの間にか片手で酒瓶と酒器を持って、歩き出すのかと思いきや、片腕にわたしを乗せたバザラガは、真っ直ぐにわたしを見上げるばかりで動こうとはしなかった。何の言葉も、音もない一瞬を、風が攫って夜に溶かしていく。柔らかく笑みの気配がする。彼がわたしを見て、こんな風に笑ってくれることを、星の数ほど願ってきた。何事も一人でしまいこんで、噯にも出さず、過去を思い出したくないと言いながら痛みと悲しみを連れて歩く、強くて優しい彼を、少しでもいいから守りたかった。それがいま、目の前で叶っている。バザラガから目を離せないまま、ぱた、とわたしの睫毛を伝って雫が落ちる。言葉の存在しなかった太古から生まれるように濁りのなく美しい、彼の静寂が、生まれたばかりのわたしの涙を許容する。バザラガは最後まで何も言わないまま、ただ、涙を落とすわたしを、とても大切なもののように自らの体に近く抱き寄せて、甲板を後にした。こういう時、かつてはあった言葉も今はない。わたしたちが帰る部屋は、今はもう、一つだけだ。







あなたが幸福である姿を知っている


032619