甲板から上がって挺の高いところに、わたしのお気に入りの小さな空間がある。そこは人が一人か二人立てるくらいの広さの露台で、考え事をするときに、とグランがこっそり教えてくれた場所だった。手すりの上で腕を組んで着込んだコートを手繰り寄せながら、わたしは挺の行く先の先を見遣る。春先とはいえ夜半に空に吹く風はなかなか冷たい。ごうん、ごうんと静かな音を立てて、然程の揺れもなくグランサイファーは自らの進むべき航路を行く。しかしその挺に乗っているわたしの心は、立ち止まったままだ。それは、わたしでさえ見ないふりをしているうちに忘れてしまっていたことだった。星のよく降る静かな夜に、溜息が一つ滑り落ちる。こんな時、バザラガがいてくれたら。ふとそう思ったが、しかしそれが、何の助けにもならないことも分かっていた。バザラガが居てくれたら、と思うのは、彼がいるとこの問題からわたしの意識を逸らせるからだ。彼と、彼に向ける酷く純粋な恋心あるいは愛情に意識を向けていれば、わたしはこのわたしの根底を揺らがす問題に目を向けずに済んだ。お前は強いなと、いつかのバザラガの言葉が、流星のように尾を焼いて脳裏を過ぎる。わたしは強くなんてない。きっとルリアやグランのように優しくもない。バザラガと共にある時に、本心を偽ったことはほとんどなかったが、しかしそれでもバザラガが見ているのは、本当のわたしではない、という考えが心の底にこびりついて剥がれなかった。不釣り合い。不均衡。色んな言葉が心の中で泳いでいる。そもそもわたしはこの世界にあるべき存在ではないのだ。意図せずとも、存在することで色んなものを歪めてしまう。わたしと人々の会話も、出来事も、すべて本来なら筋書きにはない。ましてバザラガとの間に結んだ関係は、本来の未来を大きく変えてしまっているだろう。それを覚悟して選んだはずだったのに、今やその覚悟さえ幻のように薄れていくようだった。騎空挺で、海で、街で、皆が過ごしている中にいて、楽しくなかったわけではない。しかしいつも心のどこかで、わたしのあるべき場所はここではないと理性がわたしを諫めていた。ただ、それを味わってさえも、バザラガという存在に手を伸ばしたかった。たったひとつのその恋心だけが、純粋で確かな感情だったように思う。本当は覚悟なんて、なかったのかもしれない。

さん」

ふと、下の方から囁くような声がした。びゅうびゅうと吹き付ける風にも不思議と流されることなく、それはわたしの耳に滑り込んでくる。グラン、とわたしは階下の少年を見ながらほとんど独り言のようにその名前を呼んだ。どうやら彼は、一人でこちらへやってくるようだった。わたしは心を落ち着けるために、一つ深呼吸をして顔を上げる。深くて柔らかな闇が、風に冷やされてきらきらとその身に宿す星を瞬かせる。

「眠れないの?」
「考え事してて」
「そう」

グランはさして音も立てず、いっそ優雅な身のこなしでわたしの隣にやってきた。珍しくビィもルリアも不在なのだな、と思い、改めてそういえば今が真夜中すぎだということを思い出す。

「グランも眠れないの?」
「まあ、そんなところかな」

微かに笑って、グランがその頬を掻く。ふう、と息をついて、彼はわたしと同じように、グランサイファーのゆく先の先を見据えた。ざざあ、と雲を破る風の漣の音が辺りを包む。わたしはそっと瞼を閉じて、その冷たい風に身を浸す。不思議な世界だ。美しくて、恐ろしくて、強くて、優しい。バザラガは、いま、どこで何をしているだろう。怪我をしたり、大鎌に呑まれたり、していないだろうか。そう思って、わたしはふと小さく笑みをこぼした。ゼタや、ユーステスや、ベアがいる。もしそうだったとしても、きっと大丈夫だ。

「グラン」
「...」

彼は何も言わず、とても静かにわたしへとその視線を注ぐ。どこまでも透明で、真っ直ぐな底なしのような双眸に、酷く泣きそうなわたしがいる。悲しくないかと言えば悲しいのだ。この表情は間違ってなど、いないだろう。

「元の世界に帰る方法を、ちゃんと見つけたい。できれば、早いうちに」
「わかった」

でも、とグランはその双眸から一切の真剣さを薄めずにわたしの瞳を捕まえる。

「バザラガは?」
「...別れるかどうかって話?」
「ううん。そういうわけじゃないけれど、ふたりとも、互いをとても大事にしてるように見えるから」
「だから、かな」

歪んでいない本来の時間を、人生を、未来を、と願うには、遅すぎるだろうか。わたしはそれ以上を続けられずに、口を噤んでグランサイファーのゆく先を見る。きっと、とグランがひとつ瞬きをしながら同じ方向を見遣る。その双眸はいつも揺るぎなくて、わたしはそれにバザラガの体温を思い出していた。

「バザラガはさんがいなくなったら恋しがるね」
「或いはもしかしたらみんなわたしのことを忘れてしまうかも」

闇を縫う風が吹く。

「それがさんの本当の望み、かな?」

わたしより幾分も年下の彼は、わたしより幾分も賢く敏かった。わたしは口を縫われたように一つの音も零せないまま、ただ闇の中を揺蕩う雲を眺めた。グランは少しばつが悪そうに苦笑して、ごめんね、と言う。何に対しての謝罪なのか、よくは分からないまま、わたしはこの世界のことを改めて切り離す準備を始めながら、同じ言葉を胸中で呟いていた。





夢みていたのおとぎ話の世界


033119