杜の都とも呼ばれるその町に着いたのは、雨が降る夜だった。駅の正面玄関を出ると、目の前の町並みは夜でも煌々とした明かりがいくつも点り、雨に艶やかに反射している。ざあ、と風に吹かれて波のように雨が揺れた。

「ハローウ」
「来たか」
「承太郎、ヒトデの論文進んでる?」
「やれやれ…一言目がそれとは」

苦い笑みを浮かべながらそっと傘を差し向ける男に素直に応じて、わたしはその下に滑り込む。ぐいと肩を引き寄せられて反射的に視線を上げると、湖底のような翠の双眸が真っ直ぐにわたしを見詰めていた。雨に濡れるぜ、と承太郎が言う。ずっと昔、出会った頃から全く変わらないその澄んだ強い瞳が、わたしはとても好きだった。恋に落ちて、その瞳が特別柔らぐ時の愛しさを覚え、その瞳が悲しみを奥に潜めて知らぬ存ぜずを貫く時の心臓の痛みを知った。鍛え上げられた大きな身体に抱かれているとどんな場所でも安心したし、その低く深い声に名前を呼ばれると、どんな気分でも振り返らずにはいられなかった。悲しくなるくらい、わたしは承太郎に反応してしまう。赤い糸なんてものを信じたことはなかったが、それでもわたしと承太郎との間には、何か特別なものがあった。死ぬまで離れられない何かだ。だから自身の腹に命が宿った時、わたしは彼のプロポーズを頑なに断った。そんな理由で結婚なんて真っ平御免だと激昂したことをとてもよく覚えている。責任感でなど結ばれたくなかったし、何より子供ができたからと言う理由で彼の人生を縛りたくもなかった。幾ら彼が説得しようとも沈黙で促そうともこの時だけは首を縦に振らなかったわたしはついに彼の人生を縛らずに済んだが、その代わり彼に二度と会いたくないという言葉を浴びせなくてはならなかった。彼は言ったことは必ず実行するタイプだったし、わたしが彼に望むことは殆ど何でも受け入れてくれる人だったので、言葉通りわたしは彼と20代半ばになる頃まで顔を合わせることはなかった。お前がそう望むんだったら。そう言った時の彼の双眸を、わたしは生涯忘れられないだろう。しかし、誠実を体現したような男に嘘をついたのだ。それくらいの傷は負ってしかるべきだ。そうして数年、学生と子育てとスタンド使いとしての仕事をこなしながら大人になって、わたしが彼と再会した時、彼はすでに一度結婚して妻子持ちになっていた。悲しいと思う気持ちはなかったが、わたしは心臓が冷えてうずくまりたい何とも言えぬ衝動に必死に抗わねばならなかった。それは得体の知れない暗闇のような感情だった。このまま、昔の自分自身が言ったように、二度と交わることなく、別々の人生を歩んでいく。それでいいではないか、それがかつてわたしが望んだことではないか。しかし、そう言い聞かせるわたしを知ってか知らずか承太郎は、上手くいかなかった、とだけ口にする。彼は黙ってわたしを見ていた。そしてわたしはその音で込上げた感情を瞬時に完璧に隠せるほどの女優でもなかったし、彼はその一瞬を見逃すにはわたしをよく知りすぎていた。それに何より、彼もわたしも、もう多くを知る大人だった。どうやったって逃れられないものが、この世には存在する。それが否定しきれなくなって、再会から数年後、ついに彼とわたしは生まれて初めて同じ姓を名乗ることになる。記憶の中よりずっと年老いたスージー婆ちゃんが酷く愛しそうにわたしと息子を見詰めながら、ようやくこの手で抱けるわね、と言った時、わたしは年甲斐もなく溢れ落ちる涙に、ああ、わたしはずっとここに来たかったんだ、と思った。承太郎はその時も、わたしの傍で何も言わずにずっとわたしの肩を抱いていた。

「ところで承太郎」
「ああ」
「もうドンパチしたの?早くない?」
「…どうにもお前には隠し事はできないようだ」
「いつも以上に視線が過保護よ」

承太郎の声にからりと笑って、乗りな、と促されるままにわたしは目の前に留まっているタクシーに乗り込んだ。定速で車窓を流れていくグランドホテルへの夜道を眺める。市街から離れるほど、外の景色は時間の流れが緩やかになっていくようだった。それに釣られて一つ深く息をつくと、承太郎が、と夜の闇に紛れ込ませるように名前を呼ぶ。崖の向こうから流れてくる雲の合間から月明かりが差し込んで、車窓を伝う雨粒を綺麗に照らし上げる。窓に反射する承太郎がわたしを見つめている。わたしはぽふりと彼の肩に身を預けた。少しばかり高い彼の体温がすぐにわたしの眠気を誘う。無垢な時期も、多感な時期も、ずっと身近にあった温度は大人になった今もこの上なく柔らかい安心感を与えてくれた。うとうととしながら、わたしは大人になった彼の手に触れて、その形を確かめるようになぞる。承太郎はしばらくの間わたしの好きにさせていたけれども、不意にわたしの手を捕まえて強く握った。そうしてホテルに着くまで、承太郎はそのまま何も言わなかった。




「これだからジョースターは」
「なんだ」
「こんな広い部屋要る???」
「狭いより広い方がいいじゃあねーか」
「ピュアかよ」

グランドホテルの部屋へ着いてその部屋がスイートだと知ったわたしは、自分の予想通りの展開にも彼の回答にも呆れ果てた。わたしも平均よりは随分と裕福な家系に生まれてはいると思うが、ジョースター家はまるでコメディのような金持ちだ。承太郎も漏れ無くその家系の金銭感覚を引き継いでいる。嫌いじゃあないわ、と隣に立つ男に言ってやると、彼は「そりゃあ良かったな」と感情の薄い声で言ってわたしを片腕に抱き上げた。それより、と承太郎は抱き上げたわたしを窺うようにその双眸をぴたとわたしから動かさない。感情を抑えることも特段苦手ではない彼が、昔も今も唯一隠さない感情が双眸の奥でぎらついていた。

「疲れてねーか」
「平気だけどお風呂に入ってからね」
「では俺も入ろうかな ちょうどお前に話しておきたいこともある」
「変なことしないでよ」
「しねーぜ...風呂から上がるまではな」

わたしをからかいながら床へ下ろす承太郎を一度振り返って、わたしは浴室へ向かうと早速磨きあげられた浴槽に湯を張った。湯が溜まるまでの間、わたしたちは不思議なほどそれぞれの作業に没頭する。資料で情報を整理したり、化粧を落としたり、フルーツを摘んだり、電話をかけたり。そうして入浴の準備が整うと、さすがスイートというべきか、豪奢で贅沢な間取りの浴室で、わたしは彼がこの町に着いてから起きた事件とそれに関わる異変の仮説を聞いた。淡々と事実と仮説を述べる彼の目は、刑事のようであり、研究者のようでもあった。彼が海洋学者になったと聞いたとき、わたしには何らの驚きも生まれなかった。彼は昔から、観察しそれを理論に分解し咀嚼することに長けていたし、そうせずにはいられない性質に見えた。彼が対象を定め作業を完了するまでの間、そこには一ミリの迷いも存在し得ない。そんな承太郎が、わたしはとても愛おしかった。一通りの状況の説明を聞き終えて沈黙の中二人で湯船に浸かっていると、承太郎は不意に「あいつはどうしてる」と言った。背後から耳に届くその声は深く優しい音をしている。見なくとも彼の表情が手に取るようにわかって、心臓がきゅうと熱くなった。浴槽の中で身動ぎすると、それを察した承太郎の逞しい腕がわたしの体を抱えて自身に向き合わせる。ちゃぷ、と湯が音を立てて揺れる。星の欠片が落ちて人に宿ったらこんな風になるんだろう、とわたしは承太郎の口付けを彼の気が済むまで享受しながらそう思った。

「元気にしてる しばらく留守にしてたから会いたがってたよ、引くぐらい承太郎に似てきた」
「...血は争えねえ、か」
「ん?」
「いや...仗助と俺は似てるというし俺はじじいにそっくりなんだそうだ」
「仗助くんか、はやく会いたい」
「クレイジーな奴だぜ あいつは」
「何言ってんの ジョースターはみんなクレイジーでしょ」

わたしは小さく笑って、生まれて初めて見た満天の星空を彷彿とさせる承太郎の双眸を見つめた。世界でいちばん愛しい人を見つめると、こんなに喜びを感じる瞬間があることも、この双眸が教えてくれた。どんなに離れても、見えなくても、必ずそこにあって道を示す星のような瞳。愛しさとともに、じわじわと体が疼いて熱くなる。承太郎が目元を僅かに緩めて、ふ、と息を吐く。

「やれやれ...変なことしないでよ、と言ったのはどこの誰だったかな...」








スフェーンの星影


08092017