消毒液の香りを久しぶりに嗅いだ気がした。長らく消毒液にもお世話になっていない理由である少年の顔を思い浮かべながら、は微かに自身の腹を撫でる。肌に伝わる無菌ガーゼや包帯の独特な感触も懐かしい。杜王町に来て初めて医者の手を借りたは、大きな総合病院を出てタクシーに乗り込むと、杜王グランドホテルまで、と言って一つ溜息を落とした。窓ガラスに遠慮なく頭を預けて、どこという訳でもなく夕暮れ前の町並みを眺める。道行く人々を無関心に眺めながら、どうしよう、と独り言ちると、運転手が「何か仰いました?」と丁寧に声をかけて寄越すので、「いいえ、何も」と運転手には見えもしない笑顔を貼り付けて返す。しかし例え見えなくても表情は声に乗る。運転手は「そうですか」と愛想よく頷いて沈黙した。タクシーの中は、杜王グランドホテルを目指して車を走らせることに専念すると決めた運転手によって、静寂に満ちる。それは、不機嫌でも無関心でもない、優しい関与の否定によって与えられた小さな気遣いだった。気の回る人で良かった。はそう思いながら、小一時間前、軽やかなセーラー服に身を包み、烈火の如き愛の炎を持って自分を非難した少女を思い出す。泥棒猫、阿婆擦れ、ビチグソ女等、様々な代名詞を賜ったあげく彼女のスタンドとおぼしき能力でぶん投げられて腹を縫う羽目になったが、まるで苛立ちはない。というより、全くの事実無根の誤解と劇中から切り取ったかのような剣幕に、思考自体が追い付かなかったのだ。それに、苛立つには彼女の言葉には嘘がなさすぎた。賜った代名詞に自分が合致するかどうかは知らないが、少なくとも彼女の方は完璧に、そしてその目で見た親の仇のように激しく、わたしをそうだと信じていた。真実かどうかと、嘘か真かは似て非なるものだ。賑やかになり始めた街中で、赤信号に従うタクシーが緩やかに一時停止する。はもう一度、今度は先程より深い溜息をついて目を閉じる。この怪我の件は承太郎には伏せておきたいが、伏せたとしてもスタンド使いの存在を伝えねばならない。そうなれば抜群の観察力と勘の良さを持つ彼にはすぐにバレるだろう。そして承太郎が知れば、この街に住む怪我を治せる男の前に放り投げられるのは火を見るより明らかだった。ふと、「てめーのそれは恋だぜ」と承太郎に言われたことを思い出す。言うまでもなく、去年まで中学生だった少年に20代も半ばに差し掛かる自分が恋をしているなんて事実は、直視して受け止めるには難があった。しかし、先程自分に傷を負わせた少女がまるでお門違いなことを言っている、と思うに至った理由もまた、その恋だった。赤信号で停まっていたタクシーが滑り出して、右折する。車の揺れにじくりと腹の傷が痛んで、は口端だけで小さく笑う。恋する乙女は無敵と言うが、どうやら無敵なのは堂々と自信満々にそれを受け入れる者のみのようだ。今の自分みたいに、感情をどう処理するべきか決めかねている間は会いたくない、と思う、逃げ腰で、現状維持を消去法で選ぶような大人は、もう恋する乙女なんて純粋なものにはなれないのかもしれない。そう思うと、胸のどこかが静かに痛んだ。一体いつから、こんな「大人」になってしまったんだろう。そんなことを微かに思いながら、は湧き上がるすべての感情を押し潰すとそっと訪れる眠気に身を任せた。



杜王グランドホテルへ着いて324号室、スイートルームへ足を運ぶと、ちょうど承太郎が通話をしているところであった。SPW財団か、身内か、相手は誰だか分からないが、ちらりとこちらを見遣った承太郎に軽く片手を挙げて帰宅の意を示すと、はそのままスイートルームのドアを閉める。柔らかい絨毯の敷かれた廊下を歩いて自身の部屋へ向かう。323号室のエグゼクティブスイートがの部屋だ。一人で泊まるには些か贅沢すぎる部屋だが、扱う情報や滞在目的がそれなりに特殊なので貴賓扱いされたほうが何かと安心なんだろう。部屋の前で鞄の中を漁って先程受け取ったルームカードを探しながら、今さらどっとやって来る疲労に一つ溜息をつく。

さん」

絨毯の敷かれた通路は嫌いだ。180cmあろうが195cmあろうが人の足音ひとつ出ない。びくりと肩を揺らして顔を上げると、エレベーターを背にこちらへ向かってくる見慣れた姿が目に入って、は先程あのままスイートルームにいればよかったと少し後悔した。仗助、と普段より静かに彼の名前を呼ぶ。彼がほんの僅かに目元を緩めるのが、少し遠目にもよく分かる。そのまま言葉を紡ぎかけた彼は、しかしの目の前で立ち止まると、僅かに怪訝な顔をして彼女を覗き込んだ。綺麗な宝石のような双眸が、きらりきらりと廊下の照明の光を吸ってサファイアのような青を含んでいる。ずるい、とは思った。先程の少女も、目の前の少年も、にはとても真っ直ぐで美しい生き物に見えた。

「ン…さん、なんか疲れてねーっスか?」
「まーね、大人には色々」

あるのよ、と雑に言いかけて、は扉一枚隔てた向こうで鳴る電話音に振り返る。間違いなく自分の部屋だ。ヤバイ。ガサガサと乱暴に鞄を漁ってようやく手に触れたルームカードで室内に入ると、鞄をデスクの上へ放り投げて小走りで電話口へ向かって受話器を掴む。もしもしと言うと低く滑らかな音が、なんだ、まだ部屋に戻ってなかったのかと言った。

「ごめん今ちょうど戻ってきたところ」
「そうか、悪いがおれはこれから少し出掛けてくる。晩飯までには戻る予定だが、遅くなったら先に済ませてくれて構わない」
「…承太郎あなた大人になったわね」
「オメーはまだまだガキくせーな………そうそう、さっき仗助が来ると言っていたぜ」
「なんで?」
「さあな。それは直接聞きな」

そう言って電話は切れた。雑な奴だ。受話器を置きながらはくるりと振り返って、恐らくはドア口にいるであろう仗助に部屋へ入るよう促した。お邪魔しますという声の後、ガチャン、とドアが閉まる音がして、絨毯の上を音もなく歩いて仗助が顔を覗かせる。その顔は何処と無く所在無げで落ち着かない様子だったが、それは年相応の少年のもののように見えた。

さんよぉ~…自分が泊まってるホテルの部屋に男入れるなんて良くないんじゃないっスかぁ~…」
「えっ」
「いやいやいや、何もしないっスよ!でも気を付けたほうがいいぜ、特に今の杜王町はどんなイカガワシイ奴がいるか分かんねーからよ~~」
「わかってる、わたしだって誰でも入れるわけじゃないわよ」
「...」

森とした静寂が急に空間を満たして耳を刺す。見れば仗助は少しはにかんで苦笑しながらを眺めていた。突然大きく鳴る自分の鼓動にも、その視線にも、静寂にも居た堪れなくなって、はそっと仗助から視線を外す。

「それより何か用事?」
「ああ、…ね、さん」

オーシャンフロントの部屋の窓から夕陽が綺麗に差し込んで、目の前の男の横顔を丁寧に照らしあげる。日本人離れした体格に、美しい顔立ち。瞳の奥に青く煌めくサファイアを秘めた双眸が、まるで宝石の原石のようだと何度見ても思う。この血筋の顔は見慣れているはずなのに、仗助だけが強くの心を掴まえて離さない。気付けば再び無意識に仗助を見詰めてしまう中、黄金色に輝く夕陽に照らされた静寂が、映画のワンシーンのようにこの部屋を飾っていく。仗助が音もなくの傍にやってきて、サファイアの潜む瞳での視線を絡め取る。こうなると、もはやに逃れる術はなかった。

「今日、病院行きました?」
「…行っ…、た」
「もしかしてどっか、怪我してんスか?」

仗助の声は問い質すような響きではなかった。柔らかくて、優しく響く低い声音はいつも通りだ。は仗助から視線を逸らせないまま、口を噤んだ。ざあ、と窓の向こう、階下から波の音がする。新たに二人を包んだ静寂は少しの緊張を孕んで、先程あったような嫋やかで美しいものではなかった。

「どうして?」

の問いかけに、仗助が僅かに首を傾げる。ふわ、と仗助の香りが鼻先を掠める。

「カバンの中」
「…」
「あ、いや、見ようとしたわけじゃあねーっスよ!さっき、さんがルームカード探してる時見えちまって」
「ああ…」
「それにタクシー乗ってるの、町で見かけたんスよね」

元気なかったし、それでもしかしてって思って、と仗助が少し申し訳なさそうに笑う。はどうして良いか分からないまま再び口を噤んで仗助を見遣った。目の前の男を好きだと自覚させられてどう対応して良いか解らなくなるなんて、まるで初恋のようだ。先程の電話口での承太郎の言葉を思い出す。一体彼はどこまで見抜いているんだろうか。わたしが変に意識して距離を取ろうとしていたことも、それを心優しい彼の叔父があっさりと失敗させることも、もしかしたら見抜いていたのかもしれない。「大丈夫、すぐに治しますよ」という仗助に、はかつて、まっすぐに物事を見つめられる大人でいたいと思っていたことを思い出す。小さく笑って礼を言うと、仗助は少しばかり擽ったそうにはにかんだ。

「怪我、どこっスか?」
「お腹」
「お腹ァ!?」
「なにそのリアクション」
「何したんスか、腹に病院行くほどの傷なんて」
「まあちょっとね」

はクレイジーダイヤモンドを見上げながら、小さく笑む。一目見たときから、彼のスタンドが好きだった。尤も、それ以上に主人のほうが好きだったので、スタンドの持ち主が好きだったから彼のスタンドにも惹かれるものがあった、というべきだろう。クレイジーダイヤモンドがそっと離れて景色に溶け込むように消えるのを見送って、は痛みの引いた腹を撫でながらそういえば、と言う。

「仗助がわざわざここに来たのって、わたしの怪我治すためだったの?」
「え?そうっスね、お節介かなとか杞憂だったら良いな~って思ったんスけど」
「でももう治療済って知ってたでしょ?ちゃんと治るよ」
「あ~.....分かってねーな、さん、そーじゃあねーっスよ」
「なに」

治るとか治らないとかじゃなくて、と仗助が側のデスクに手をついての顔を覗き込む。ゆるりと長い睫毛が揺れる。

さんには擦り傷ひとつ残させたくねーってことです」

仗助の目は真剣な男の目だった。じわりと夕陽が静寂を温める。は三度訪れた静寂の中で逸る自分の鼓動の音を聞きながら、そっか、とひとつ場違いな相槌を打って、デスクに寄りかかっていた身を起こすと徐ろにシャツをたくし上げた。突然目のやり場に困って、ちょっと待った、と言いかけた仗助が、しかし傷口を覆っていたであろう包帯に残りの言葉を飲み込む。は不要になったガーゼや包帯をばらばらと解いて、傷口があった場所を覗き込むと、そっと肌を撫でてひとつ瞬きをした。

「仗助さあ、...いや、やっぱ何でもないや」
「何スかそれ!言いかけて止めるのはなしっスよ~~~」

ベッドにどかりと腰を下ろして大きく息を吐き、仗助がを見上げて拗ねたように唇を尖らせる。しかし次には、ちら、とが包帯を拾い上げて片付けるのをその双眸で見守りながら、さん、と柔らかく名を呼んだ。きらきらと夕陽が煌めいて、まるで海に溶けるように沈んでいく。

「...オレ、さんのこと好きですよ」

びくりと包帯を拾う指先が揺れる。仗助は静かに一度瞬きをして、その長い睫毛の影からの挙動をそっと眺めた。動揺が手に取るように分かる。言うべきではなかったのかもしれないが、言わなくては捉えられない、と仗助は殆ど本能のように思っていた。それに、彼女が大人ぶるなら、自分はそれを砕くような子どもでいたい、とも。

さんがオレのこと好きかどうかは、...正直今は自信ねーっスけど、でも、なんていうか......そんなの関係なく好きだなって」

そう言って笑う仗助は、酷く愛おしそうに夕陽の中で頬を微かに染めていた。すごい人だ、とは思った。ぎゅう、と心臓を掴まれたように息が詰まる。ぽたりと微かな音を立てて絨毯に雫が落ちる。ハッとして反射的に立ち上がろうとする仗助を押さえて、は心配そうに見上げてくるそのサファイアの双眸と視線を合わせる。そうして熱い雫に眉根を寄せて笑いながら、片手で仗助の双眸を塞いでそっと一つ耳元で、すき、と言った。そのまま離れようとするを、しかし仗助の両腕が迷いなく捉えて抱き寄せる。しゅるりとの指先から包帯が滑り落ちて、夕陽がどんどん溶けていく。の指先に覆われていたサファイアの双眸が、黄金色の夕陽に惜しげも無く晒されて輝きながら、を映してやんわりと細められた。そっと仗助の手のひらがの目元を撫でて雫を払う。まるで高校生らしからぬ目の前の男に宥められながら、愛しい、と思う感情がとても愛しい、とは思った。

「仗助」
「ン?」
「...いいのかなあ わたし あなたを選んでも」
「んなぁに言ってんスかぁ…さんよぉ~あ~~も~~」

仗助はそう言って立ち上がるとそのままぎゅうと両の腕でを抱き込んだ。少し高い体温と、少し早い鼓動と、とても力強い腕に埋もれて、はその感覚に溺れそうになる。もう恋する乙女になんてなれないと思っていた。それなのに目の前の男は、自分が無かったことにしようとする感情をいともたやすくその腕で攫って守ってしまう。例えその腕が傷付こうとも、噛み付かれようとも、きっと彼は彼の大切な人間に対して、そうすることをやめないだろう。息を吹き返す、彼のいちばんの特別でいたい、というひどく鮮やかで強い欲望が、自身も紛うことなき恋する乙女であることをに訴える。ぽた、との双眸から最後の一粒が滑り落ちる。それは水平線の向こうへ消える一縷の夕陽に照らされてダイヤモンドのように煌めいていた。仗助の声が、熱い耳元で溶ける。

「何の心配もしなくてダイジョーブ、...もう、オレのっスからね」







神様の手を離して此方へおいで



0819201