大きく取られた窓をぱたぱたと叩く雨音を聞きながら、少し東京に戻ってもいいか、と聞いたわたしに返ってきたのは酷く訝しげな翡翠の双眸だけだった。承太郎は珈琲を飲みながら、一つ瞬きをして、何故、と言う。深くて柔らかい、夜の海で聴く漣のような音が、静寂の間を揺蕩って頬を撫でる。

「お義父さんから手紙があって…呼ばれてるのよ」
「………、お前が歌うのはもうナシだと随分昔に言ったはずだぜ」
「そんなの、高校生の頃でしょ!」
「ちゃんと覚えているじゃあねーか」

承太郎はソファの背凭れに頬杖をついて、く、と喉を鳴らすと僅かに口角を上げながらその目元を緩めた。澄んだペリドットの双眸が揺らがぬ強さを持ってわたしを見詰めることの、何と愛しく安心することか。彼の双眸に見守られる時、きっとわたしは一番自由で、色鮮やかで、逞しい。世界で最も優しい静寂の中、承太郎の後ろで、止まない雨の音がする。ソファに腰掛ける時、承太郎は決してわたしを自分より窓側へ座らせなかった。ソファの座る位置だけでなくそういったことは日常でもよくあって、例えば電話を先に切るのは必ずわたしだし、歩く時も大抵わたしが彼の半歩前だ。大事にされている、その感覚がわたしに与える幸福を、それ以上のものを、わたしも彼に与えていたい。そう思いながらソファの上に膝をついて承太郎の頬に手を伸ばすと、彼は頬杖をやめて添えられたわたしの手のひらへ頬を預けた。指先で目元を撫でて、帽子を取ってその額にひとつ唇を落とすわたしの胸元で、承太郎は双眸を伏せたまま「好きにしな」と言う。その一言に、わたしが思わず込み上げる笑みを堪えきれずに零すと、宝石のような承太郎の双眸がわたしに何だと問うてくる。深くて、それなのにどこまでも澄んだ不思議な色。

「承太郎の目、綺麗ね」
、話がちぐはぐだぜ」
「そんなことないわ」

承太郎の膝の上にごろりと寝転がって、からりと一つ笑うわたしを、承太郎は何も言わずにその双眸で見詰めた。帽子を被らない承太郎に見下ろされると、彼とわたししか知らない時間を思い出す。今日は抱いて貰おうとか、どんな風にけしかけようとか、邪なことを考えながら沈黙で話の続きを催促する夫に気付かないふりをして、わたしは寝転がったまま、彼のシャツを少したくし上げてその腰元にキスをした。やれやれ、と小さな溜息が大きな掌とともに頭上から降ってくる。子供のように頭を撫でる彼の手を捕まえて頬を寄せれば承太郎は優しく、わたしが心地良いように指先でわたしの頬を撫ぜた。

「承太郎、わたしのことすき?」

吐息混じりの溜息に言葉を織り込んで彼のペリドットの双眸を見上げる。まるで宇宙にひとつだけ放り込まれた音のように、わたしの一言がひどく耳に残った。雨音が室内を満たして、夜を一層深くする。長い睫毛が瞬きの度に揺れるのを眺めながら、わたしは承太郎が、愛している、と言う声を聴いた。その音は、わたしが生んだ音よりずっと柔らかくて、孤独に漂うわたしの音に寄り添うように溶けてとても綺麗に響いた。承太郎の声との声は相性が良い、と彼の父親が言っていたのはもうどれくらい前だろうか。そんなことを思い出しながら惚けていたわたしは、不意に彼に名前を呼ばれて自分の心臓がぎゅうぎゅうと熱くなるのを感じながら、ああ、きっとこの先幾度もこうして彼に恋をするのだと思い知った。それがどんなに幸運で、幸せなことか、昔は今ほど分かっていなかった。わたしも、とそっと承太郎の手のひらに唇を寄せると、彼は返事の代わりに一つ瞬きをする。そうしてしばらくの間、わたしたちは互いに何も言わなかった。何かを言ったところで、今の気持ちを充分に伝えることなどできないと思ったし、それに、言葉がなくても緩やかに双眸を伏せる承太郎の心が満ち足りていることは彼の様子を見るだけで分かることだった。夜の闇が満ちる窓の向こうで風が吹いて、雨粒が一際強くその滴を鳴らす。ぱたた、というその音を聞きながら、わたしはふと鼻先を掠めた香りに飛び起きた。承太郎が瞑っていた双眸を開いてわたしの挙動を見守る。それはまるでわたしが次に何を言うか分かっていると言わんばかりの落ち着きぶりだった。

「承太郎、珈琲冷めるわ」
「別に大したことじゃあない…研究者にとってはいつものことだぜ」
「そう?でも…あ、美味しい」

テーブルに置かれたコーヒーカップを手にしながら味見をして承太郎へ手渡すと、彼はやれやれと言って微かに笑いながらわたしから珈琲を受け取った。自分の分があるだろう、と言う承太郎に一つ肩を竦めてみせる。手にしたのが承太郎の珈琲だったからね、と返しながらわたしはソファから立ち上がって隣部屋の入り口に立ち、ベッド脇の時計を見る。20時45分。緊急ではない電話を夫の実家に掛けるには少々遅い時間かもしれない。どうしようか腕を組んで少し考えると、、と承太郎が呼ぶ声がしたので、わたしは、ねえ、と言いながら振り返った。彼は空になったコーヒーカップを簡易キッチンへと下げてきたところのようで、ソファからわたしが先程脱がせた帽子を拾い上げてデスクの上へ置きながら、さっきの話は結局どうするんだ、と言う。そのことなんだけど、とちゃんと答えを伝えていなかったことを思い出しながら、わたしは腕組みをしたままベッドルームの入り口に寄りかかって、デスクの縁に腰掛ける承太郎を眺めた。

「お義父さんには申し訳ないけど、お断りすることにする」
「そいつはよかった」
「承太郎、好きにしろなんて言っといてやっぱり嫌だったんじゃない」
「好きにしろとは言ったが賛成だとは俺は一言も言っちゃあいないぜ」
「屁理屈」
「聞こえねーな」
「それで、お義父さんに電話しようと思ったんだけどさ」
「いや、その必要はない」

え、と承太郎の言葉にわたしが頓狂な声を上げると、彼はそのペリドットの美しい双眸を愉快そうに細めてわたしを一瞥する。それはわたしにとって、酷く懐かしくて、愛おしい、昔から変わらない彼の表情のひとつだった。わたしは彼のその悪巧みを思い付いたような強気な笑みに頬が緩むのを止められないまま、困った人だとひとつ笑って承太郎の傍へと向かう。

「親父には明日俺が電話する。舅が嫁を自分のために歌わせるんじゃあねえともう一度強く言っておかねーとな」
「喧嘩しないでよ」
、こういうのは言って聞かねー奴が悪いんだぜ」
「別に悪いことじゃないんだからいいじゃない」

わたしが両手を広げながら承太郎の傍に辿り着くと、それに気付いた承太郎はデスクに腰掛けたままわたしをごく自然に抱き留める。そして、額と米神に一つずつキスを落としたかと思うと、あいつも懲りねえジジイだ、と呆れたように呟いた。素敵なお義父さんだと思うけど、とわたしが半分フォローの意味を込めて言えば、暫しの沈黙のあと、彼はそうかい、と言って微かに弧を描く唇でもう一度わたしの額にキスをする。わたしを抱き留めて仕舞い込む承太郎は、星を砕いて散らした冬の湖のような香りがした。





花隠れの福音






090417