町外れのイタリアンレストランはこの町での彼女のお気に入りの場所のひとつだった。人気のない墓地へ向かう道を歩みながら、承太郎はすっかり夜の帳が降りた景色を一瞥すると帽子の鍔を掴んで溜息をつく。頻繁に"レストラン"へ通うようになった自分の妻が、毎回ここに食事をしに来ているわけではないことについては、だいぶ前から気が付いていた。しかし、何をしているのか、具体的なことは知らないままだ。心配するようなことは何もない。それが以前一度だけ尋ねた際の彼女の返答だった。そしてその返答を受けた承太郎は、長年見知った女性と自身の勘を信じることにした。とはいえ、こうも遅くまで頻繁に滞在されては、複雑な心地がするのもまた事実だった。況してやイタリア人の優男とだなんて尚更だ。自分と間逆のタイプの男に惹かれた、なんて万が一にも言われた日には、プライドも自信も粉々に砕けて二度と取り戻せそうにない。彼女の左手に与えたとびきりの指輪がイタリア人に対して効果を発揮していればいい、なんておよそ非現実的で子供じみたことを考える程度には、承太郎はその腹の内に嫉妬を飼っていた。若い頃なら、それだけで彼女を自分の手元から決して離さなかったかもしれない。しかし今は、年を取るごとに得た経験と妻への信頼が冷静さを手繰り寄せることを可能にしている。承太郎は見えてきた一軒のレストランへ向かいながら、やれやれ、と呟いた。墓地の近くにあるというのに、暗闇に暖かな光を零して佇むその建物は、煙突からの煙と辺りを包む柔らかな食事の香りによって、酷く理想的で偽善的な家庭のように見えた。

「おや、誰か来たようですネ」
「ちょっとトニオ今はダメ傍にいて」
「お客サンかも」
「違うからこっちに集中して」

随分仲良しじゃあねーか、と単なる感想のようにするりと心に浮かんだそれはしかし感想でも意見でもない。心臓を絞めるように刺すその不快感に、承太郎は覚えがあった。ひどく懐かしいような心地がするそれを味わいながら、最後にこの感覚を味わったのはいつだったかと思って、彼はその翠の美しい双眸を帽子の影へ潜めた。妊娠が理由の結婚なんて真っ平だとプロポーズを断って自分との間の子供を産んだ女性が、大学で出会った他の男と懇意になっている、と知った秋の夕方。彼女の人生に踏み入ることを禁じられていたあの頃の自分は、手に入れる方法が分からないもどかしさと苛立ちに苦悩した。あんな激情に駆られたのは、暑い中東の国にいた頃以外に覚えがなかった。

「承太郎」
「...」

するりとのスタンドがいつものように抱き締めるのを、慣れた様子で受け入れる。承太郎は入り口のドアに凭れながら、強い翡翠の双眸を一度だけのスタンドへと向けた。すると、きゅう、と彼女のスタンドが彼を抱き締める力を僅かに強める。これは彼女の深層心理の表れ。嘘のつけない深いところで彼女が望んでいるものを、彼女のスタンドが示している。意識的に動かしているわけではない、いつからかついた彼女の"悪癖"。カチ、カチと時計の秒針が何度か鳴る間の沈黙のあと、するりと彼女のスタンドが承太郎の腕を引いてテーブルへ着席するよう促したので、承太郎はついに僅かの苛立ちをあえて表に出して、せめて奥から出て来い、と唸るような低音で呟いた。

「...18歳の承太郎みたいね、今日のあなた」
「やかましい」
「座って」

宥めるようにそう言って奥の厨房から一皿を手にしてが姿を現すのと、彼女のスタンドが承太郎の額に口付けを落として消えるのはほとんど同時だった。彼女に続いて、この店のオーナーかつシェフであるイタリア人がやってくる。その顔にひどく優しい笑みが浮かんでいるのを見て、承太郎はそれを視界から外すために席についた。

「oh この方がサンの夫ですか」
「素敵でしょ?」
「初めまして、わたしトニオ・トラサルディと申します」
「空条承太郎だ」

幾度も繰り返してきたであろう類の挨拶を交わす承太郎の声音にほんの僅かの不機嫌を聞いて、は驚きつつもどこか嬉しそうに彼の向かいの席へと腰を下ろす。こんな心地を味わうのは久しぶりだ。かつては血気盛んな承太郎に与えられてきたその感覚を懐かしいと思いながら、そっと目の前の男を眺める。察しが良くて、機知に富み、冷静さを欠かない大人になった彼は、てっきり成長の過程で昔のような縄張り意識を捨ててきたのだと思っていた。しかし、やはり本能を捨てることなど誰にも出来ないようだ。

「ね、冷めないうちに食べてみて」

思い出したようにそう言って、目の前に置いた皿にが視線を向ける合間、承太郎は皿ではなくを眺めて沈黙した。夜の食堂に降る柔らかな明かりが、翡翠の双眸の呆れと不機嫌の奥に潜む紛うことなき愛情を暴き始める。承太郎は、やれやれ、と小さく呟くと、慣れた手つきで銀食器を扱って目の前の皿を綺麗に平らげた。がとても嬉しそうに双眸を細めて、お粗末さまでした、と笑う。その笑顔を眺めながら承太郎は釣られるように薄く笑んだ。この町に来て以来初めて自分のために作られた料理は、食べたこともないのに何故だかとても懐かしい味がした。






ミッドナイト・スペシャリテ





091217