もう夜も深い町外れの道は、ぽつりぽつりと街灯が照らす道路をたまにタクシーが通り掛かるくらいで人の気配はまるでなかった。ホテルとは真逆の位置にあるレストランを出るとき、タクシーを呼ぶのをやめて歩いて帰ることを提案したのはだった。結構な距離だぜ、と柔らかな声で言う承太郎はしかし腕時計に視線を落としながら、そっとのバッグを手にレストランのドアを押した。承太郎には、彼女が何らの意図もなくそう言っているようには思えなかった。温かな光から離れ、風と虫の音に紛れる自分たちの足音だけが響く世界を歩きながら、二人はどちらが合図をしたわけでも、求めたわけでもなく、ただ当たり前のように手を繋ぐ。大きくて温かい承太郎の手が、柔らかく、しかし確かにの手を包み込んだ。承太郎、との声が足音に混じる。承太郎がその双眸をへ向けることで返事をすると、きゅう、と僅かにの手が強く承太郎の手を握り締めた。承太郎は親指の腹での手の甲を撫でる。じゃり、じゃり、と地面を踏みしめる音の合間に、風が吹いて木を揺らす。ほう、と梟が声を上げたが、それが近いのか遠いのか、にはいまいちよくは分からなかった。承太郎は何も言わない。ただ、進む先へ向けた視線を時々そっとへ注いで、繋いだ手を離さないまま、歩幅を合わせて歩くだけだ。承太郎、ともう一度、がその声を生む。

「ね...会う時ちゃんとお父さんやってるの?」
「......ああ」
「...そう、よかった」

それは緊張を孕みながら、ひどく嬉しそうな音をしていた。電車のこない線路を渡って、コンクリートの道路を真っ直ぐに歩く。それからしばらくの間、二人は一つの言葉も発しなかった。道が高台に差し掛かって少しばかり空が近くなった頃、承太郎は少しの力をかけての腕を引き、そのまま徐ろにの体をそっと抱き込む。それは細心の注意を払って力加減を調整された、彼の優しさに満ちた保護だった。そんなふうに承太郎に守られることは、いつだってにとって嬉しいことのはずだった。しかし、いつからか、守られる度に彼だけがずっとずっと先に大人になってしまって、自分は昔のまま成長がないと、そう思うようにもなっていた。わたしはちゃんと、彼の望む妻であるだろうか。わたしはちゃんと、彼との子供が望む母親であるだろうか。彼が彼の息子と娘に対して、立派な父親であろうと真摯に向き合うように。

「...どうした」
「......どうして」
「.........」
「...」

はその先を紡がなかった。それは、どうしてそんなことを訊くの、だったかもしれないし、どうしていいか分からない、だったかもしれないし、どうしてわたしだったの、というひどく抽象的な問いだったかもしれない。しかしやはりはその一言を完結させなかった。涙が落ちもせず、承太郎のシャツに滲む。承太郎はを腕の中に抱きしめたまま、風が吹かないように彼女をコートで覆い隠した。好き、という何物にも染まらない感情が、時にその暴力性を本人に向けることがある。自身の感情に牙を剥かれて、は今傷付きながらそれを試練として乗り越えようとしていた。どんなことがあったって、彼のこどもたちには誰より幸せでいてほしい。自分の心の弱さに向き合う時、彼女の心臓に育まれたその願いたったひとつが、いつだって彼女の背中を押した。そしていつだって、一歩踏み出したその先でを待っているのは、夫の承太郎だった。

「...結構歩いてきたな」

深い夜に降り注ぐ月明かりに、承太郎の声が浸される。柔らかで深いその音は、耳と肌を伝ってに滲むように届いた。風が吹いて、足元に落ちる木々の影が揺れる。承太郎の鼓動が、海の底で聞く地上の音のように鳴っている。承太郎はそっとその翠の双眸を誰に知られることもなく優しく細めて、腕の中のが呼吸を整えて顔をあげるのを静かに見詰めていた。

「タクシーは?」
「要らない 承太郎、いま何時?」
「おい、もう遅いんだ 一人で進むんじゃあないぜ」






ノーザンライツ



091317