「...あれ」
「...どうした」
「...」
「ん?さん来た?」
「ううん、ちょっと見覚えのある人に似てる人が通ったからびっくりしただけ」

与えられたオレンジジュースを一口飲んで、はそう言って笑う。自身の隣に座りに似た表情で笑う息子を少し眺め、承太郎は彼が視線を投げていた方向を見遣った。それは根拠も何もないただの勘でしかなかったが、しかし承太郎が予想した通り、視線を投げた周辺に女性は一人もいなかった。承太郎はひとつ静かに瞬きをして、ソーサーからカップを持ち上げて口元へ運ぶ。が自分の父親を尊敬し好いているのは、幼い頃からが父親のことをとても大切に話してきたことが大きな要因だったが、しかし承太郎とが共に過ごすのを見、承太郎がを幸せにする、と自身が思ったのも理由のひとつだった。承太郎は息子が自分たちをそんな風に見ていることを嬉しく思っていたし、実際心の底からの幸せを望んでいた。ただ、そういった息子の反応は、同時に彼にとある疑問を投げ掛ける。他の男は違ったのか?――それはとてもシンプルで、そしてひどく気に障る疑問だった。

「僕、やっぱり父さんがいいな」
「…...嫌な男でもいたかい?」
「そんなことは、なかった、けど...」

はオレンジジュースを眺めながら、ストローでグラスの中を一度だけ混ぜる。カラン、と涼しい音がテーブルの上に散らばる。

「でも母さんは、恋なんてしてなかった」
「待てよよォ~、なんで恋してないなんて分かんだ そもそもおめー恋したことあんのかあ?」
「母さんが父さんの話をする時の様子を見てれば違うってことくらいわかるさ」

疑われて機嫌を損ねたが僅かに頬を膨らませる。承太郎は珈琲を口許に運びながら、少し前の晩、珈琲が冷めると慌てたを思い出していた。あの夜、わたしのことが好きか、と尋ねたの声は、行く宛も先もなく酷く孤独に生まれたように思う。好きだ、なんてことは改めて耳にするまでもなく理解していたはずの彼女があの夜に求めていたのは安心だった。愛や恋といったものの上に満ちる穏やかで温かい場所。海のように柔らかくて、宇宙のように静かな心の寝床。

「...は...好きでもない男と一緒に過ごすような女性じゃあねーぜ」

承太郎は彼女が自分の意思で物事を選べる人間だと知っていたし、それは実際に今も昔も変わらない事実であった。一方で、息子が言うことも真実だろうと承太郎は思った。或いは、恋は、していたかもしれないが、心を野放しに寝かせておくことはできなかったんだろう。それを、恋ではない、と言う自分たちの息子はまだとても若くて、限定的でまっすぐだ。しかしきっと、そうやって何かを強く信じることが彼に彼の道を歩ませる。

「父さんは知らないんだよ 父さんといる時とは全然違ったんだ」
「......やれやれ...違って当然だぜ。俺は一人しかいない...俺の役をできる奴が他にいるかい?」

そう言って真っ直ぐ、星の欠片のようなその双眸をとても静かに自らへ向ける父親に、は今度こそ口を噤んだ。母は父以外にも恋をしていたというのか?では、自分が感じた違和感は何だったのか?の脳内を色とりどりの疑問符が闊歩する。果たして恋とは――何物なのか。が答えに窮して呻き声を上げると、承太郎は帽子の下でその双眸を和らげて、ほんの微かに口元を緩めた。

「あんまりグラスを握り締めると氷が溶けてオレンジジュースが薄まるぜ」
「父さんもっとはやく言ってよ!」





カフェ・アストロノム




092817