「ねえ、わたしを本にしてみて」

岸辺露伴は口元に運んだ紅茶に唇を寄せる手前で手を止めた。ぱちりとひとつ瞬きをして、ちらりと真向かいに座る女をティーカップの尾根の上から見遣る。カフェの店内を背景に、その女は僅かに小首を傾げて、できるのでしょ?と言った。できると知っているくせに、無邪気な振りで聞いてくるのだからこの人はたちが悪い。だが嫌いではない。むしろその性格は好ましい、とさえ露伴は思っていた。

「残念ながらそれはできない」
「どういうこと、露伴先生?興味ないの?」
さん、僕だって貴女の経験にはとても興味があるさ 読んでみたい」

そこまで言って、露伴はようやく紅茶を口に含んでカップをソーサーへ戻した。木苺の香りがダージリンに混じって緩やかに鼻先を掠める。真向かいのはその眉を怪訝そうにして露伴を眺めて何も言わない。納得はしていない、という顔だった。露伴はひとつ溜息をつく。

「ナァ、本当に知らないわけじゃあないだろ?」
「なにが?」
「何がって、貴女の夫のことだよ」

頬杖をついて、露伴は不遜な態度でに視線を投げる。は口に含んだ珈琲をゆっくりと味わいながら、幾ばくかの沈黙をテーブルの上に散りばめた。そのため、信号が赤に変わって人通りが活発になり、隣のカップルが会計をして席を立つ間、漫画家と人妻の座るカフェの3番テーブルは無音だった。しかしギャルソンが隣のテーブルを片付けに訪れた頃、ついに痺れを切らした漫画家が、不機嫌そうに片眉を上げる。

「オイオイ聞いてるのか?僕は質問をしたはずだぜ」
「それにはもう答えてるでしょ」
「沈黙は肯定、かァ?」
「...それにわたしが知りたいのは、見たいのかどうかよ」
「だァ~かァ~らァ~」
「自分の欲求に抗うなんて露伴先生らしくないんじゃあないの?」

それとも、わたしの夫がそんなにこわい?はその長い睫毛を揺らして一度瞬きをした。露伴はその双眸としばし見つめ合う。夫が夫なら妻も妻だ。最強と謳われるスタンド使いである彼女の夫に、妻を読むことは止してくれと丁重に圧をかけられているのだ。あの強い瞳で見据えられて釘を刺されたら多少の躊躇だって生まれもするだろう。それなのに彼の妻はそれをすべて知った上で、悪魔のように甘く、自分を唆してくる。

「面白い」

露伴は口角を上げて笑う。不敵な笑みの上の双眸が、夜の森で出会う梟のように好奇心を光らせていた。はひどく上品に微笑んで、珈琲を飲む。

「そういうところ好きよ」
「見る目あるじゃあないか」
「ねえ?露伴先生」

立ち上がって手を伸ばす露伴に身を委ねながら、はそっと目を閉じる。ひどく余所行きの女の声が唇の合間を擦り抜けて耳を撫でる。

「みたこと、わたしに教えて」
「教えてって、オイオイ、これは貴女の記憶なんだぜ」

不服そうな露伴の声を聞きながら、遠退く意識の中では、自身の記憶が目の前の男によって暴かれるのはやはり少し恥ずかしいと思った。へえ、とか、ほお、とかいう露伴の感嘆の声が遠く聞こえる。思わずが初めて承太郎と肌を重ねた夜のことを思い出しかけたところで、するりと意識は深いところへ滑り落ちていった。

さん、貴女は実に興味深いな」

起きているのにぶつりと意識が途切れるというのは不思議な感覚だ。は露伴へ生返事をしながら口直しのように珈琲を口に運んで息を吐く。目の前の男はどこまで、読んだのだろうか。木苺の紅茶の香りが時たま鼻先を掠めるなか、先程よりずっと生き生きした様子で露伴はを眺めている。

「真っ白のページがあるんだよ」
「どういうこと」
さん、死んだことは?」
「ないわ」
「本当に?生きている人間では見たことがないぞ」

露伴の声は湖畔に跳ねる魚のようにを打つ。自らが死んでいると思ったことは一度もない。心臓の鼓動が聞こえないということもない。が生きていることは明確なはずだった。しかし、純度の高い疑問はそれすら無視して心臓の壁を溶かすような熱を生む。

「ないったら 他になにかないの?」
「ない あとは承太郎さんといつ愛し合ったとか仕事の進捗だとかそういったことが書いてあった」
「ちょっと」
「なんだよ 読めと言ったのは貴女だろォ?」

露伴は鼻であしらうように息をついた。足を組みながらテーブルの上で頬杖をついて、ぐいと身を乗り出す。を観察するように眺める露伴の双眸は美しかったが、しかしそれは承太郎のように安堵を与えるものではなかった。露伴は少し冷めた紅茶をぐいと飲んで、腕時計を見遣る。

「おや 詳しく知りたいがそろそろ取材に行かなくては」
「わたしもホテルへ帰るわ 露伴先生ありがとう、ここはわたしが」
「僕が出す 面白いものを見せてもらった」
「…ありがとう」

は露伴に微笑んで礼を言う。それからふと近くのテーブルに運ばれた紅茶の香りに視線を奪われると、テーブルには楽しげな若いカップルがついていた。露伴がギャルソンを呼んで会計を渡しながら、まるで興味のない視線を投げる。

「チンケな光景だな」
「わたし、あの頃って何してたのかしら」
「だから死んでたんだろォ?抜け落ちていたのはその頃だぜ」
「死んでないったら」
「あーそうかい それより、また今度ゆっくり読ませてくれないか」

露伴の双眸が再び好奇心に満ちる。はぱちりと長い睫毛を鳴らして露伴に向き直った。自身を読まれる際に感じた恥ずかしさを思い出す。そうしてなぜ承太郎が露伴に読むなと言ったのか、は何となく察しがついた。

「次は承太郎とスタープラチナの砦を越えていらっしゃったら見せてあげるわ」
「オイオイオイ、僕が貴女を本にしたと言うんじゃあないぜ」
「口は堅いほうよ」

ギャルソンが持ってきた釣りを受け取って、露伴は、どうだか、と言いながら立ち上がる。は一つ軽やかに笑うと、露伴に倣って席を立った。じゃあ、とひどく簡素な挨拶が横断歩道の前に転がる。タクシーを捕まえるまでの少しの間、遠退いていく漫画家の背中を眺めて、は露伴の質問を脳内で反芻した。左胸で鳴る心臓の音が、ひどく耳に鮮やかだった。







ひからびた白昼夢
100617