宿泊中の部屋へと戻ると、珈琲の香りがの鼻先を掠めた。承太郎がデスクで読んでいた資料からそっと顔を上げて、おかえり、と言う。帽子の下で、見慣れた瞳が窓からの陽光を受けてスフェーンのように煌めいていた。ただいま、とが返すと、それを合図にするように再び視線を資料に戻した承太郎は、それから長いこと、黙々とデスクに向き合っていた。どうやら論文用の文献を漁っているようだった。はその間にシャワーを浴び、遅い昼寝と称してベッドに寝そべりながら考え事をして、眠りに落ちた。考え事はずっと、露伴の質問についてだった。



聞き慣れた優しい音では目を覚ます。それからゆるゆると弱い意思で微かに瞼を開けて、ぱちりと瞬きをする。何の音もしない部屋は森として、優しく呼ばれた名前の余韻だけが溶けていくような夕陽に揺蕩っていた。するりと承太郎の温かい手のひらが、やんわりとの頬を撫でる。心地良さに息をついて、はようやく自身の上に布団がかけられていることに気がついた。ホテル独特の、どこか無機質なリネンの香りが肺に満ちる。

「そろそろ起きねーと夜になるぜ」
「うん...」

ぎし、とベッドが軋む。星の瞬きを溶かしたような承太郎の双眸が、まっすぐにを見つめていた。幾度かの呼吸が零れる合間その星を眺め、は体を起こして横に腰掛ける自らの夫に唇を寄せる。微かに響く鼻にかかるような息が、森としたベッドルームにひどく鮮やかに響いて本能をくすぐった。幾度も口付けを繰り返すうちに、の上がる息を拾って承太郎が舌先で主導権を握る。頬を撫でるように顎に手を添えながら承太郎が僅かに体重をかければ、をもう一度ベッドに沈めることは容易かった。羽織っただけのシャツの合間から、柔らかな乳房と本能が覗く。

「承太郎」

それは普段聴くことのない、うつくしく番いの雄を呼ぶ声音だった。体の大きさも力の強さもまったく違う承太郎の下で、警戒することもなく無防備に晒されたの体が呼吸の度に上下する。承太郎は一つ瞬きをして、自身の下で純粋な欲望を秘めたを眺めた。が承太郎に抗えないように、承太郎もが欲情すれば、それに抗うことができない。承太郎にとって、は生物学的な意味での番いの雌であった。承太郎の手のひらが、シャツの上からの乳房を柔らかに掴んで揉みしだく。甘い蜜のようなの声が零れては幾度も口付けを繰り返して、やがて夫婦は動物のように互いの本能を満たし合った。ぎしりぎしりとベッドが軋み、の声が生まれてはその波に飲まれる度、承太郎は嗜めるように彼女の頬を撫でて額にキスを落とす。そうやって欲望が腹を満たすまで幾度も繰り返した行為が終わりを迎える頃には、窓の外に夜の帳が降りていた。

「落ち着く...」
「.......」

ベッドに腰掛けて一糸まとわぬ姿で抱き合ったまま、は承太郎の心音に耳をすませる。ふと、行為の間には忘れていた疑問が目を覚ます。

「ねえ、わたしって死んだことある?」

緩やかにの頭を撫でていた承太郎の手が止まる。何故、と凪いだ海のような低い声が降って、は承太郎の胸に宛がっていた耳を離して視線を上げた。窓から差し込む明かりに反射して、驚いたような承太郎のペリドットの双眸は銀河を閉じ込めたように煌めいている。

「何となく」
「...俺が知る限りはねーぜ」

承太郎の声は揺らぎない。それは、仮説や願望や自信に基づくようなものより随分と確信じみていた。は一つ瞬きをして承太郎の頬を撫でる。昔から隙も慢心も逃げ出すような性格の男だ。わたしの身辺はきっと調査済みなんだろう。腰に回された承太郎の手のひらがじんわりと素肌を温める。

「心当たりでもあるのか?」
「...死んだ心当たりは、ないけど」
「...........露伴先生か」

の歯切れの悪い回答に、やれやれ、と承太郎はその長い睫毛を伏せて息を吐いた。ぐい、とその手がの腰を引き寄せる。肌が密に触れ合って、視線が交わる。は僅かに息を詰めた。隠しようもない心臓の音が肌を伝う。承太郎の前では、昔から、何者をも演じることができない。彼の目の前にはいつも、彼に恋している素の自分たった一人が無防備にいるだけだ。

「止められたのに好奇心旺盛な彼を唆した、というところかな...たまにはいい子にしてねーとお仕置きだぜ、

いいな、と承太郎は僅かに眉を顰めたまま同意を求めるようにを眺める。

「俺以外の男がお前について知る必要のないことまで知るのは不愉快極まりねーんだ」
「わかったわ....でも、そんなセリフを聞けるなら、たまには...いいかもね」
「おい」
「冗談よ」

心配しないで、とまっすぐに承太郎を眺めて笑うの声はしなやかで真っ直ぐだ。承太郎の腕が空気に触れて冷え始めるの体を毛布で包んでぎゅうと抱き込む。力強く腕に抱かれる心地よさに溜息をついてはもう一度承太郎の胸に頬を寄せた。手放したら、日々を記憶することすら忘れたほど恋い焦がれた男が、いま再び自分の側で生きている。それはもはや奇跡と呼ぶより運命と呼ぶほうが相応しい気がした。

「.......死ぬまでは承太郎の側で生きたいな」
「...末長くよろしく頼むぜ」

小さな笑い声が、ベッドルームに揺蕩う海底のような静けさに溶ける。承太郎は腕の中のの頬を撫でて彼女の視線を自らのものにすると、その美しい双眸を僅かに細めての額にそっと口付けた。






ボトル・ムーンのちるとき
101217