いつも、夫に愛された翌朝は遅い。午前九時三十五分。柔らかな温度で差し込む朝陽についに負けたは間の抜けた欠伸をしてベッドの上に起き上がった。朝陽が絵画のように差し込む無音の部屋に、廊下をゆくワゴンらしき音が微かに響く。どこかの誰かが朝食でも頼んだのだろう。窓辺で鳥がふたつ鳴く。ワゴンの微かな音が遠退くと、部屋は銀河の果てのような静寂に満たされる。の額や頬に唇を落としながら一足先にベッドから出ていった夫の姿は、部屋のどこにも見当たらなかった。どこに行くとか何とか言っていたような気もする。しかし寝惚けた頭で思い返そうにも出てくるのは夫である空条承太郎への愛情ばかりで、は早々に答えを探すことを諦めた。ベッドから降りて、下着に足を通してシャツを羽織る。顔を洗いに洗面台へ向かうと、微かに承太郎の香りがした。それは海のようでいて、星を散らした真冬の空のようでもある香りだった。視線を向けた先、洗面台の鏡に映る体には、承太郎が落とした愛情の欠片が幾つも残っている。はそれを、ひどく愛しい、と思った。承太郎は、10年前と打って変わって殆ど束縛などしなくなっていた。しかし、眠るときはをその腕の中に抱き、セックスをすればの白い肌に甘く噛み付いて痕を残した。夫婦になってからは、欲望の行為は愛情表現や欲求を満たす快楽としてだけでなく、文字通りの生殖行動となることも多くなっていた。そしてその特異な境遇故か承太郎とは会う度いつも、まるで数億光年に一度のチャンスに巡り合った天文学者のように、もう二度とその瞬間が来ないかの如く生きていることを喜び、熱心に互いを愛した。それは時に、理性や自制など必要としない動物のように鮮やかな感情の粒を生んで夫婦を満たすものだった。ふと、壁に貼られた付箋がの目に留まる。"少し町を歩いてくる 承太郎" なるほど。何かを告げていったと思ったのは、間違いではなかったようだ。朝陽が差し込むバスルームで顔を洗って歯を磨き、ようやく意識が覚醒したところで、不意に部屋の電話が鳴る。承太郎かと思って出れば、それは彼の母親だった。明るい声が電話口から溢れる。

「もしもーし」
「おかあさん」
「あら、ハロー!ちゃん」
「どうしたの?承太郎なら」
「ああ、いいの、いいの」

今日は貴女の声が聞きたかったの。そう言ってホリィが笑う。釣られてが笑うと、電話の向こうで優しく感情が溶ける微かな音がした。承太郎も持っているそれが、表情を和らげて笑む音だと知ったのはいつだっただろう。

「元気にしてる?承太郎は優しい?」
「元気よ、承太郎もわたしも...おかあさんとお義父さんは?」
「もちろん元気よ~!」

お父さんはこの間貴女に振られたって落ち込んでいたけど、と悪戯気に言うホリィとの会話は、それから少しの間続いた。少女の頃から自分を知る女性との会話は、まるで実の母親と会話するようでいて姉と会話するようでもあり、不思議な心地好さがある。デスクの椅子に軽く腰掛けて、日々の承太郎の様子や杜王町の美味しいものの話をしながら、意味もなくデスクの上の論文の参考資料を捲る。そういえば、今度教えて欲しいお料理があるの。そう言ったの声にとても嬉しそうなホリィの返事が飛んできたのと同時に、ガチャリと部屋のドアが開いて、夫であり息子である男が帰ってきた。はたと驚いたその双眸に、豊かな翠が煌めく。

「あ、帰ってきた。じゃあ、また今度ね」
「ええ、承太郎にもよろしくね。何かあったらいつでも連絡してちょうだい、おめでたもウェルカムよ~!」
「はあい」

軽やかにひとつ笑いを落としてそっと受話器を置くと、外から帰ってきた承太郎がコートを掛け終えてソファに腰掛けるところであった。彼はテーブルの上に置いた紙袋へ手を伸ばして、中からまだ温かそうなカップを二つ取り出す。仄かにの鼻先にコーヒー豆の芳ばしい香りが掠める。挽きたての良い豆の香りだ。ここのが美味しいんだと言いながら承太郎が視線でを呼ぶ。

「おはよ」
「よく寝れたかい」

承太郎の唇へ軽いキスを落として隣に腰を下ろし、はひとつ頷く。半ば承太郎に寄り掛かりながら、渡されたカップをそっと口元へ運ぶと、柔らかい香りが肺を満たした。湯気がきらきらと朝日を揺らす。海のような星空の香りが空気を染めて眠気を誘う。電話は、と承太郎の声がやんわりと静寂を割る。コーヒーを啜りながら「おかあさん」とだけ返事をして、はふと先程のホリィの様子を思い出して微笑んだ。おめでたもウェルカムなんてだんだんジョセフお祖父ちゃんに似てきたのではないか。

「............」
「…、どうした?」
「......あ、いや、今日済ませないといけない用事を」

思い出して。そう言っては立ち上がった。時計はちょうど10時を指すところだった。着替えるためにベッドルームへと向かったを横目に、承太郎は何も言わずにコーヒーを啜る。静かな部屋で、衣擦れの音と時計の秒針の音が絡まる。承太郎は少しの間、ソファから見守るようにを眺めていた。しかし、シックな黒のワンピースへ足を通したの背のジッパーを手伝うべく、立ち上がってベッドルームへと向かう。承太郎の意図を知った上で、はくるりと承太郎を振り返った。そうしてそのままぽふりと顔を埋めて抱き付いてくるに、承太郎はやれやれと小さく息をつく。抱き寄せるように背中に腕を回しながらするりと難なくジッパーを上げてやっても、が承太郎から離れる気配はない。

「...ねえ、承太郎」
「なんだ」
「......」
、黙ってちゃあ分からねえぜ」

承太郎の深い柔らかな声と鼓動を聞きながら、はそれを告げるべきか迷っていた。それはずっと心にあって、いつか言わねばならないことだった。そっと双眸を閉じて、息をつく。

「...わたしも一度も後悔したことないわ」
「...」
「あなたの子供を産んだこと。わたしも、そうなってもいいって思っていた」

20代半ばで承太郎と再会した時、エジプトから帰還して一度だけ"本来の形"でを抱いたことを、そしてそれが新しい命となったことを、後悔したことはない、と承太郎は言った。しかし、そうなってもいい、と望んだことが、自分自身のエゴだったかもしれないことについては、ずっと謝罪したかった、とも彼は続けた。予想すらしていなかったその言葉に、は咄嗟には何も言えなかった。そればかりか、承太郎の声がとても美しく迷いのない音だったので、彼の瞳さえ真っ直ぐ見れなかったことをよく覚えている。その時のには、謝る必要などどこにもない、と言うのが精一杯だった。承太郎は、その双眸を、少しもから外さなかった。あの時、彼は一体どんな気持ちだっただろう。はまっすぐに承太郎の双眸を見詰めながら、あの時彼はきっと寂しかっただろうと思った。

「......そうかい...そりゃあ、良かった」

承太郎の腕がを強く引き寄せる。視界を塞がれて、は頭上から降る彼の声に耳を澄ませた。それは感情が溶けるような優しい音だった。

「...あのとき嬉しくなかったわけでも嫌いになったわけでもないの。承太郎の、人生を縛ることになるのが嫌だっただけで」

いま考えたらとても子供染みていて笑っちゃうけど。そう言って少し乾いたように笑うを抱き止めながら、承太郎は何も言わなかった。帽子の下に潜む星のような双眸は、抱き締められているにはやはり窺い知ることができない。

「......」
「承太郎?」

突然降り注いだ沈黙に顔を上げると、朝陽が差し込んで宝石のように煌めく翠の双眸に出会う。しかし視線が交わっても、しばらくの間、承太郎は何も言わなかった。降って柔らかく包むような静寂に身を委ねながら、はもう一度、ホリィとの会話を思い返す。承太郎の、もはや嗅覚とも言えるその勘の鋭さは母親譲りなのかもしれない、と思った。翡翠のような双眸が、言葉に変換されない感情で鮮やかに揺れる。

、お前」
「......まだ分からないの」

の声は感情を隠すように静かだった。承太郎は僅かに眉根を寄せる。デジャヴのような、そうでないような不明瞭で不安な感覚がじわりと腹を満たす。10代の頃、同じようなことがあった後に今生の別れを突き付けられたことを思い出して鈍く心臓が痛む。

「承太郎」

双眸の奥底に、見慣れない不安を湛えた夫を見上げながら、は小さく笑んだ。幾度も夫婦の営みに本来の意味を与えてきたのだ。二人とも、これを心のどこかで望んでいたことは確かだろう。承太郎の頬に手を伸ばして、は真っ直ぐに自分を見詰める翠の双眸を眺める。長い睫毛が揺れて、頬に微かな影を落とす。名前さえ持たないような感情が、過去を呼んで子供のような不安を彼の中に生んでいた。この不安を教えたのは自分だ。しかし、これにはきっともう二度と出会うことはないだろう。

「...承太郎」
「...」
「わたしと結婚して」

ともすれば頓狂な言葉で陽に晒された静寂を壊すの声に、承太郎は僅かに目を瞠る。それは随分と昔に聞き覚えのある台詞だった。口元を僅かに緩めて笑みが溢れる。じわりとダイヤモンドのような雫がの睫毛の端を染めるのを眺めながら、承太郎は頬に添えられたの左手を掬って口付けた。自らを見上げる妻の双眸は、よく光を弾いてきらきらと美しかった。

「もうしてるじゃあねーか...、今の俺たちは”夫婦"ってやつだぜ」






ほどけた魔法が編まれる朝に



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