愛に酔う猫。(etude1)








イリーナがドアを通ると目の前には、とんでもない落ち込み様の女がソファでうなだれていた。タークス内でただひとりだけスカートの、イリーナの先輩に当たるその女は、同時にタークスのエース、レノの恋人でもある。傍ではツォンが呆れた様子で女を見ていた。天気良好、誰もが嬉しがる午後三時のお茶の時間。なのに、一番喜びそうな人物が沈んでいるなんてイリーナには到底予想できない事実だった。

「.........ああもう...どうしようツォン、あたし」
「うるさい。動け」
「動いてるわよ、朝から晩まで、誰かさんの所為でね」
「じゃあ他に原因があるんだろうが。...第一...」
「......先輩...?」
「......ああ、イリーナ、お疲れ様」
「あ、はい」

と呼ばれた女は少しぎこちない様子で笑って、直ぐに視線を逸らした。仕方なしにイリーナがツォンへと視線を向けると、ツォンはそ知らぬ振りで持っていたコーヒーに口をつける。どうなっているんだかさっぱり予測がつかない。

「...どうしたんですか?」
「.........ねえイリーナ正直に言って」
「......はい」

自分が何かを疑われているのかと思ったイリーナは、微かに緊張して頷く。それを確認して、は泣きそうに再びイリーナを見た。

「あたし太ったかな。」
「............は?」
「...なんか体重増えててさ...」
「あの...全然変わらないと思います...失礼ですけど思い込みじゃないですか。誰が見ても明らかに細いですよ」

イリーナはようやく最初に見たツォンの表情の意味を悟った。女の子が自分の体型の事を悩みだすと止まらない。傍から見れば本当に大した事の無い悩みに見えるのだが、それでも本人にとっては一大事なのだ。がぐったりと負のオーラを漂わせてソファに身を丸めるように寝転がると横で、仕事をしろ、と抑揚無く告げるツォンの声が響く。は返事をしない。

「先輩に何か言われました?」
「......餅みたいだって」
「............」

重苦しい沈黙が辺りを包む。ツォンが、しくじったなと明らかにイリーナを責め立てる視線を送りつけてきた。レノがいればなんとかできるのに。そう胸中で思うと、噂をすれば何とやら、その重い沈黙を破ってヒーローが顔を出した。

「ただいま...っと。ツォンさん任務完了しましたよ、と。......ようハニー。どうした?」

絶縁性の素材で出来た手袋を外しながら、レノがソファに力なく寝そべるを覗き込んでその頬をくすぐる。明らかに茶化しているのが判っていても、やはり目の前でされると恥かしいものである。イリーナは羨ましい反面、その光景に小恥ずかしさを感じて溜息を落とした。

「なに、もしかしてまだ昨日ので悩んでんのか、と」
「うっさいわね...」
「一種の愛情表現だったんだぞ、と。ほら、ケーキ買ってきたから食えば、と」
「せ...先輩...」
「..................あのさレノさん」

ちょっと、廊下に出て話そうか。そう告げるの目は完全に据わっており、その場に居合わせたツォンを除く二人がレノの行く末を案じた。けれど当の本人はいつもの飄々とした顔での後ろを付いていく。それは何処か楽しそうで、顔に表情が無いとは対照的に、レノは幸せそうにすら見えた。きっとこのあとどんな展開になるかを、想像出来ているんだろう。更に言えば、その先を変える自信もあるに違いない。とレノはそうして廊下へと姿を消した。

「...なんのつもり?」
「なんのってなにが?」
「食べないわよ」

アレは。面白そうに首を傾げたレノに、はきっぱりと告げる。その苛立った声にさえ愛おしそうに目を細めて、レノは間髪置かずに小さく呟いた。の性格を良く知っているから考えなくても判る。


「そう言って食うくせに」
「決めたの」
「...昨日俺がお前に餅みたいだって言ったこと、本気だと思ってんのか、と。」
「嘘だって言いたいわけ?」
「あのな」
「何よ」
「あれはお前が柔らかくて気持ちいいから言ったんだ、と。誰もお前を太ってるとは思ってねぇぞ、と」

甘い言葉に乗せられてはいけない。そう胸中で何度も繰り返しているのに、目の前の男の言葉はそれを侵害してやってくる。穏やかに宥めるように微笑いながら、全てを悟ったように見抜いているように。レノの双眸にはからかいの色も、偽りも見当たらない。が小さく「でも」というと、それにもレノは聞き流す事無く丁寧に返した。

「でも?なにか気になることでもあったか?」
「...体重増えてた...」
「......お前それ、いつの体重からの話だ、と」
「............半年ぐらい前?」
「ばか、当たり前だぞ、と。筋肉は脂肪より重いんだ」
「...判ってるけどそうは思えな」
「うるさい」

懲りずに再び話題を戻そうとするに、レノは呆れて唇を塞ぐ。ただキスをして離すだけじゃ面白くないからとレノがの歯列をその舌でなぞると、びくりとの肩が揺れた。

「そんなに気になるなら俺が協力してやるぞ、と。...ま、お前の身体がついてこれるかどうかは別として。」
「イイ、もう、結構です。満足してます」

笑いながらレノが言うと、は苦笑いを浮かべて首を振った。これ以上睡眠妨害されては堪らない。そう胸中でだけ悪態をついて、出てきたドアを通ってまた中へと戻る。テーブルに置かれた白い箱と向き合って数度溜息をつく。意を決して開けると、レノが買ってきたケーキはご丁寧にもカロリーのありそうなチョコレートケーキで、は再び苦い思いをする羽目になった。それに加えて、なんだかあれだけ宣言しといて今更食べるのも恥かしい。どうしようかと小さく唸ると、レノが後ろから手を伸ばしてケーキを皿に乗せる。何をするつもりなのかと視線で追えば、レノはの横に座って、周りの透明なセロファンを剥がしながら視線も向けずに口を開いた。

「俺と半分こ」
「.........、.........そうね。」
「ああ、ルードたちの分もあるから食えよ、と」

穏やかな笑みを浮かべて、は目の前の箱の中にあるケーキを見つめる。多分、それぞれの好みを分かって買って来ていたのだろう。三人がそれぞれ別々の物を選んでいくのを見、選んだのは自分じゃないのにこっそり誇らしい気分になった。

「チョコ食う?」
「うん」
「あーあ...ほんと、俺もお前には甘いな、と」
「いいじゃない。大事にしてよね」
「お前がいい子だったらな、と」

なによ、と笑いながら反論すると、レノがフォークで刺した一口大のケーキを差し出す。フォークを片手で押さえて口に含むと、食ったな、と今度はレノが小さく笑った。













041103