眠りから覚めたばかりの里には、木々の梢がよく響く。季節がいよいよ夏に差し掛かって、家屋の合間に走る鉄骨や金網が眩いばかりの陽を浴びてきらりきらりと煌めくのを見るものさえまだ少ない時間、は火影岩の上にある防空壕入り口に立っていた。最近は朝早くに里をぐるりと巡ってここで里が目覚めるのを眺めるのが日課になっている。昼も夜もない忍たちを除いて、最も早くに目覚めるのは母親達だ。日が昇ってすぐから、少しずつ香ってくる朝餉が平和を奏でるこの時間が、は心底好きだった。やがて子供達が起きてくると、家それぞれの音が里を満たしていく。自分が子供だった頃は、子供は自分ひとりだけだった。何も不便はなかったが、この里で見掛けるような子供らしさというものを、知らない子供だった。もちろん大名家の一人娘として、姫として育てられる環境は恵まれていた。才媛と言われる所以だって、元を辿れば幼少期の基礎教育の質が大きなものだろう。家の中では比較的自由だったが、しかし仕来りは多く、外からやってくる大人達はみな腹の探り合いをする狡猾な生き物だったことをよく覚えている。あの頃、孤独というものを知らなくて良かった、とは心底思った。振り返れば孤独な幼少期だったかもしれないが、当時はその孤独を知るに足る賑やかさを知らなかった。大人に関してもそうだ。後進を守り育てるこの里の大人達を、は心底尊敬していた。一度は諦めた命でこの里に来て、死んだ方が楽だろうと思った生き残りの日々は、自分の人生に足りなかった何もかもを埋める時間だったように思う。遠く眼下に見える慰霊碑が、昇る陽に照らされる。慰霊碑など見なくとも、すべてを守りたいと願って失った光景を、は脳裏で何度も繰り返してきた。それでも碑石を見ればその痛みは増す。いつからかは、慰霊碑はその痛みのためだけに用意されたもののような気すらしていた。景色に溶け込むように静かにやってきてそこに佇む男を、当たり前のように眺めながら、ひとつ瞬きをする。視線を外して、再び里に目を向ける。いよいよ本格的に朝餉の時間を迎える家々が、里を鮮やかに彩っていく。
■
「最近鍛錬に精を出しているようだな」
昼を過ぎた頃、休憩にしよう、と言って、組手の相手をしていた男が水筒を手にする。一度見たら忘れられない激烈な容姿とファッションセンスを持つその男は、ついにカカシじゃあ物足りなくなってきたか、と語弊を生みそうな言葉を、真っ直ぐと無垢に言い放って豪快に笑った。
「ガイ、その言い方はちょっと語弊がこわいんだけど…」
青春だなと一人頷くガイを尻目に、は上がった息のまま地面に倒れこむ。青々とした木々の合間から覗く青空が、とても懐かしい。かつては奈良シカク率いるチームとして、ハヤテやシカクと何度も鍛錬をした森だ。今となってはチームは解散となって各々が立派な木ノ葉の忍として任務をこなしている。懐かしいな、とはもう一度、過去を口ずさむように呟いた。
「…」
ざあ、と森が風に揺れる。風の音は、いつもどうしてかにカカシのことを思い出せた。ガイは何も言わずに折れた古木の上に座している。は静かに向けられる視線に、仰向けに寝転んだまま応えなかった。この里の大人達はみんな、口にしないだけで何でもお見通し、そう言わんばかりの静寂を扱うのが大層に上手い。
「強くなる以外に、守る方法がないな、って」
そう思っただけ。は首筋を滑る汗を拭いながらひとつ大きく息をつく。自分が弱いと、卑下するように思っているわけではない。むしろ、ずっとカカシの指南の元、育ってきたのだ。その事実に見合う忍でありたいという子供っぽい意地もあって、それなりの実力はあるつもりだった。それでも、守りたいと願いながら失った。
「、」
ガイが静かに口を開く。小一時間組手を繰り返しただけでなく、手加減は一切しなかった。それでもまだ喋って平気なほどのスタミナを持つは、その技量も含め、傍目から見ても相当の才がある忍だ。あの子が鍛錬を願い出てきたら、その時は手加減なしでやってくれ、そう言ったカカシの頼みもあったが、それがなくても、手加減はしなかっただろう。ガイは言葉を途切らせたまま、今だに地面に倒れこんでいるを見遣る。カカシに見守られながら、シカクやアスマら先達の背を追いかけ、ハヤテら同僚と切磋琢磨し、数々の任務で失敗や成功の経験を積んで、今のがいる。その道には、成功だけでなく時に大きな挫折が転がっていることだってある。
「お前がお前自身をどう見ているか分からんが、お前は今まで相当の努力をしてきたはずだ」
「…」
「どんな結果でも その事実は消えない」
静かなガイの声を追うように、遠くで鳥の鳴く声がした。やっぱり何の事か疾うに見抜かれていた。木々の合間を縫って降り注ぐ木漏れ日がゆらゆらと音もなく揺れる。はぱちりと目を開けて、木漏れ日を受ける睫毛を揺らして静寂をしばらくの間生き長らえさせた。ひとつ、ふたつ、と風が木々を揺らして頬の上を流れていく。
「里のことを 昔よく聞かされて育ったの」
「…」
あの日別れたきりで、ろくに最期の挨拶もできなかった父親を思い出す。先祖がこの里と同じ自分たちの大義なるものを説く父親は、真っ直ぐな目をしていた。戦うのかと聞けば否と言われたそれは恐らく政治的な意味合いのものだったろう。父は政が得意だったと聞くし、実際自分も戦うための訓練など少しもしなかった。里をしっかりと見たこともない。だから、里の試験だというものに連れて行かれたこと以外は、ただ、里を守るべきものだという父親だけをよく覚えている。
「守るべき里だと教わった、あの頃は地図上の話だった」
ガイはが話し始めてから、一言も発さずにただその言葉の行方を見詰め続ける。彼女については、見聞きしてそれなりのことを知っているつもりだった。かなりお転婆な娘だったということも、一生懸命で優しい子供だったということも、ガイがカカシに勝負を挑む時には呆れ顔でも実際はどこか羨ましそうにしていたのも、知っていた。しかし、何を貫きたいと思う忍かは、知らなかった。小隊を失って長く昏睡状態にあったのちは、何かに追われるように任務をこなし、カカシでさえどうすべきか考えあぐねる程だったという。どうやらその理由の一つはカカシにあったようだが、それが解消された今になっても引っ掛かるものがあると、ずっとカカシが密かに心を砕いていたのを思い出す。
「地図上の話なら、家の掲げる只の大義なら、随分簡単だった」
「…」
「でも今は違う」
草花が微かに揺れて、静かな音で雫を土の上へと滴らせる。地面に放っていた体を起こして、は真っ直ぐにガイを見る。木漏れ日が、随分と潤んだの双眸に青を差す。風に木々が揺れて鳥が鳴く。遠く、忍者学校の生徒たちが訓練をする喧騒がする。守ろうとして失ったものに、もう一度守りたいと言う資格が、果たしてあるだろうか。ずっとそればかりが、その苛立ちと不安が、心の中を染めようとしている。
「…気持ちだけでは誰も守れない」
果たして奪われたものか、守りきれなかったものか。未だにその葛藤がある。しかし、その答え合わせは、この先永遠にやってこない。
「力が要るの」
殺しそびれた感情が音を揺らす。守りたいと願って失うことが、息もできなくなるほど怖い。この恐怖を、何故だかはカカシに明かすことができなかった。頬を伝って溢れる雫が地に着くより早く、伸ばされた腕で押し込まれた胸に雫が染みる。
「守りたいという意思に目を向けろ」
努力をするには、自らの中に揺らがぬ決意が要る。ガイはの背をしっかりと支えながら、小さく揺れる肩を静かに見詰めた。がこんなにも熱い想いをひた隠しているとは、露程も知らなかった。例えばお転婆だとか一所懸命だとか、そういう話はしても、カカシはについてあまり多くを語ろうとしない。秘蔵っ子といえば秘蔵っ子で、知っていて要らぬ手出しはしない放任といえば放任だ。ガイは腕の中で呼吸を整えようと必死なを見ながら、カカシが心を砕いていた状態の原因を、この娘は巧妙に隠してきたのだろうと見立てた。それなら、その必要があったかどうかはともかく、目の前の忍の嗅覚はカカシのそれに並んで凄まじい。
「恐れに突き動かされた先に正道はない」
そう言ってガイは一度大きくの背を叩く。は突然のことに噎せながら、その豪快さに釣られて笑う。それに返すように、ガイにしか出来ないであろう満面の笑顔で渡された言葉は、正午をとうに過ぎた森の中に静かに溶けて消えていった。
「いつでも修行に付き合ってやるぞ、青春はしたもの勝ちだ!」
神様の背中には埃まみれの兎
061320