暑くなってきたとはいえ、日が沈んで夜の帳が降りれば肌に涼しい風が吹く。夜も半ばの通りを行きつけのラーメン屋に向かいながら、カカシは先程鉢合わせたガイとの会話を思い返していた。宿敵、もとい旧友のガイにが体術の基礎から鍛え直されて暫くが経ち、元々センスの良い忍だったは、基礎の研鑚でより一層その技術に磨きをかけている。八門遁甲を教えて欲しいと言われた、と言うガイは、稀に見るほど神妙な顔つきで、教えれば会得するだろう、とも付け加えた。恐らくは八門遁甲だけでなく、得られる限りの術や技を得ようとしている。昔から一所懸命で優しい子供だったが、小隊を失って以来、は何かに追われるように力に固執し始めていた。それはカカシにも覚えのある感覚だ。カカシは一つ大きく息をつく。カカシや、仲間や、里を、大切に思う気持ちの人一倍強い娘が、失う恐怖に囚われてバランスを崩せば、道を外しかねない。そして道を外しかけている優秀な忍を不穏分子が放っておく程、ここは平和な世界ではない。見えてきたラーメン屋の傍に佇んでぼんやりと人も疎らな街を見遣るの姿に、カカシは一度足を止めた。良いことが沢山有るように毎日お願いしておきます、いつかそう言って腕の中で笑った少女を思い出す。まるで自分の痛みを忘れてしまったかのように棚に上げて、他人の痛みに触れてしまう少女だった。大人になった今もまだ、彼女の痛みに自分の手は届かない。

「すまん、待ったかな」

ラーメン屋の傍に立つの側に寄りながらカカシがそう言うと、今来たところ、と言っては気受けが良い笑みを一つ落とした。二人で暖簾をくぐって他に客もいない屋台の席に着くと、カウンターの向こうから、いらっしゃい、と景気の良い声が飛ぶ。それからすぐ、ひょっこりと調理器具の合間から水の入ったコップを差し出した大将が、二人で来るのは久しぶりだねえと言った。ぱちりとが瞬きをする。言われてみれば、復帰後に付き合い始めてそのまま半同棲のような生活だったこともあって、食事を一緒に摂るときは大抵の家だった。いつものかい、と言う声に、カカシが返事をする。水を一口飲んでコップを置くと、ことん、という音の後に温い静寂が満ちた。毎度あり、という声が通りの向こうから聞こえてくる。

「ガイとの鍛錬はどう?」
「うん…基礎は一通り叩き直されたところ」

あの人は本当に、努力の人だね、とが水の入ったコップを眺めながら呟く。薄い色の入ったプラスチックのコップは、風に揺れる電球の光を反射して小さな炎のように煌いていた。カカシは静かにを見詰めながら、もしも目の前の存在が道を分かち、自分の側から離れてしまったらどうしようかと思案した。それは死とはまた違う、昏い影をカカシに落とす。人に隠して抱え込んでいるものが、隠しきれないほどに膨れているのに、助けを求める声ひとつ上げる方法さえ知らないまま、は大人になってしまった。

「ま…確かに…あいつの鍛錬はベタでキビシーものが多いからね…」
「…カカシ?」
「なあ、…お前は何のために」

不意に、お待ちどう、と覇気のある声と共に目の前にラーメンが置かれて、は心底大将に感謝した。無言でカカシを一瞥し、ラーメンを示せば、カカシもそれ以上の会話を諦めて箸を取り、いただきます、と手を合わせる。そうして二人はしばしの間、里随一の味を誇るラーメンを堪能した。

「少し歩こうか」

会計を済ませたカカシが暖簾をくぐって、おもむろにそう言う。緩慢に吹く夏の夜の風が、二人の髪を撫ぜて通り過ぎていく。いつもは横に並んで歩幅を合わせながら歩くだけのカカシが、するりとの手を捕まえて繋ぐ。強くもなく、弱くもない、その小さな非日常にが視線を上げると、カカシはそれに気付いて前へ向けていた視線をへ落として一つ、困ったように眉尻を下げて笑んだ。月も落ちない草木の影で、夏の虫が鳴いている。つらつらと歩きながら、は食事の前に投げ掛けられた問いについて考えた。この里に来て忍となってからずっと、自分が守りたいと思うものは変わっていない。変わったのは解像度だけだ。かつては地図上の、或いは父から守るべきものと教わった実態のないものだった。それが今は、顔や生活を持つ人々になっている。街はずれまでやってくると、山から流れる川が辿り着く池が見える。風が吹くたびに小さな波が寄せては返す様を横目に少しの間歩くと、そこでカカシは足を止めた。カカシと繋いだ手が、じわりと熱い。いつも、この人の傍で、見守られながら生きてきた。そうして目の当たりにした、人々が紡いできた過去と、繋いでいく未来が、愛おしくてたまらなかった。

「…」

カカシは夜のしじまに身を浸すように、その目を池に向けたまま一つも言葉を紡がない。何かを思案するその横顔は酷く静かなばかりで、どんな感情も読み取れない。時々彼は、こうして自身の中にある闇を、見つめているようだった。

「ねえ、カカシ」
「ん」

心臓に針が刺さったような痛みが、チリチリと胸を焼く。痛みのない人生など、恐らくどこにもない。喜びばかりが良いとも思わない。闇や過ちが、悪いとも思わない。この里だって、綺麗なものだけでは成り立たない。それでも、悲しみに落とす涙を一つでも救えるなら、その痛みから大切な人を僅かでも守れるなら、そのために自分に出来ることがあるのなら。

「昔…里の子供達の誘拐が多発した事件があったでしょ」

光も闇も、大差がないように思えた。

「駄目だ」

それは初めて聞く彼の否定の音だった。珍しいね、とが小さく俯きがちに零す。繋いだ手が、強く握られる。否定をしても、その指先は優しい。かつて冷血のカカシと呼ばれた男の、その冷血さを、は一度も目の当たりにしたことがない。

「…大切なものを守りたいと思ってるのはお前だけじゃないよ」

お前はカカシにとって特別だった、と静かに回顧する三代目の声が脳裏をよぎる。わたしにとってもカカシは特別だった、とは瞬きの合間に音もなくその心を織り込んだ。

「力を求めることは悪ではないはずよ」
「力に逃げることは正しいことか?」

静かで、真摯な視線が投げられる。力に逃げれば力に呑まれる。それではいずれ守りたいと願った大切なものを傷付ける。

…得た力で守りたいのは他人か」

波打ち際でカカシの瞳がを捉える。闇を吸ってなお深く、ただ静かに波を映す黒の瞳は、月のない夜にこそ一等美しい。

「それとも、隠せども消えない痛みに苦しむ自分か?」

波の音に乗せて問われた問いを説破できず、は一層口を噤んで、そうすれば答えが閃くわけでもないのにただひたすらにカカシを見詰め返した。しかし、波が幾度か寄せて返す間そうしていると、段々と腹の底から怒りに似た感情が湧いてきて、はカカシと繋いでいた手を離しながら、放っておいて、と言った。それは誰にも触れられぬよう取っておいたものに、土足で踏み込まれて触れられたような気分だった。

「…いま放っておいたら、いなくなっちゃうでしょ」

離された手に視線を落とし、目の前から去ってしまったがいた場所を見遣る。果たしてに投げた問いは、にだけ向けたものだったのか、カカシは静かにその場に留まって思案した。仮面の下に隠したって消えなかった痛みを拭うように刀を振るえば振るうほど強さを得たが、自らが望む場所からは遠ざかった。絶望の原液に浸されたような日々だった。それでも今まだこうして前を向いて立っていられるのは、ただ偏に自らの人生にて得た繋がりのためだ。胸の内が酷く苦く痛むような心地を、カカシは一つ瞬きをして押し潰す。例えばもう一度傷付き悪夢に突き落とされることがあったとしても、諦めるなどということは恐らく考えられない。







きみは夜明けの前のいっとう暗いとき
06.15.20