轟々と、それはまるで生き物がのたうち回るような音をしていた。は自らの寝床から連れ出されながら、そう思った。千手を先祖に持ち永く続いてきたという由緒ある大名家のの屋敷は今晩、大きな混乱に包まれていた。よく知る顔が忙しなく走りまわる中に、武装した見慣れない顔が護衛に控え、虎視眈々と獲物を狙う光景を見るのは何もこれが初めてではなかったが、それでもきっと今晩はいつものそれとは違うのだとは何となく察しが付いた。里に狐が下りたと人が言う。風の強い、月の明るい美しい夜だった。

さま、ああ、どうぞご無事で」

すれ違う侍女が祈るような声での両手を包む。よく世話をしてくれた人の好い女に、は柔らかく笑んで、あなたこそ、と呟いた。去っていくその侍女の顔を見て、ああ、今晩、皆が散り散りになってしまうのだなと思ったとたんに、の胸は張り裂けそうに痛む。生まれ育った場所を失うというのは、ひどい痛みだ。悲しみや苦しみより先に、見たことのない恐怖がある。失う恐怖と、失って生きていく恐怖がある。まして、まだ一人では生きてはいけない自分がこの先どうなるのかを考えると、それだけでもうこの場から動くことができなくなりそうだった。思い返すのは過去のことばかりだ。温かで、柔らかで、愛おしい、優しさで満ちていた贅沢な過去。花の香りや笑い声や温かな食卓。手を引かれながら、窓から見える空を見つめて、は涙が零れそうになるのを必死で堪えた。手を引く男の歩みが止まり、は視線を前へと向ける。そのまま、父親の部屋へと促されるまま足を踏み入れた。嗅ぎ慣れた父の香の匂いが、僅かにの緊張を和らげる。見慣れた父の横には、見慣れた面を当てた見慣れない男が座っていた。それは銀色の髪が印象的な、線の細い、男だった。

、きたか」
「里に狐が下りたと聞きました」
「そのようだ」
「父様、わたくしは何やら、嫌な予感がします」
「言うてくれるな」

やんわりとの言動を諫めて、父である男は横に座る男と僅かに会話し、もう一度へと向き合った。は真っ直ぐに父親の目を見つめる。深く、澄んだ紺碧の瞳。そこにあるのは、冬の真夜中のような静けさと、誰も踏み入らない山奥に潜む湖底のような揺るぎなさ。それは光が差せば青く輝き、闇が包めば黒く煌めく、不思議な瞳だった。自分にも、同じものが受け継がれている。はその事実を思いながら、もしかしたらもうこうして向かい合って見ることの叶わないその双眸を、黙って見詰めていた。嫌な予感を笑わずに諫めた父親は、きっともう腹を括っている。彼は、前に進むことが良いことを運んでくるとは限らないのに、それでも前にしか進めないことを知っている大人だったが、同時に、悲しみや不運を受け入れることに慣れてしまった大人だった。

「こちらが、今回お前の護衛に付く、キュウゾウさんだ」
「はじめまして、キュウゾウです」
「...父様、わたくしもう、護衛など要りません」
「どうして?お前一人では逃げられないだろう」
「だって、父様にはもう会えないのでしょ?.......そうなったら、今度は彼らは生き残ったわたくしを殺しにきます」

一度も目を逸らさずに、はとても静かな声でそう言った。闇夜は相変わらず轟々と音を立てている。今はまだ里の方で鳴っているそれが、いつ目の前にまで迫ってくるかわからない。それでも、それはもうじき、突然、訪れるに違いない。唸り声のようなその音を聞きながら、は必死に感情を殺していた。一つ一つ、ぽこぽこと腹の底から浮かんでくる恐怖を、シャボン玉を割るようにして喉元まで辿り着く前に潰しながら、言葉を続ける。一つでも仕留め損ねたら、声が震える。二つ仕留め損ねたら、目が濡れる。

「だから、もういいの」
ちゃん」

キュウゾウの声はとても静かな音をしていた。は犬の面へと意識を向ける。遅れて視線を遣ると、ようやくキュウゾウは言葉を続けた。彼は夏の夜に聞く風鈴のような心地好さで容赦ない言葉を音にする、不思議な人だった。

「確かにもしかしたら、もうきみはお父上とは会えないかもしれない」
「キュウゾウ」
「いいの、父様」
「...もしかしたら、きみもいつか、追手に殺されてしまうかもしれない」

体の中で、ぱちん、ぱちん、と恐怖が割られていく音がする。この先は、誰も何の保証もしてくれない。今ではなくいつかの話をする彼はそれを突き付けているのだと思った。命の保証も、幸せになる保証も、不自由しない保証も、何一つ、誰ひとり、約束してくれない。それは至極当たり前のことのような響きで、今とはまったく違う生活を意味している。親がいて、名家の大名家を実家に持って、多少の不満こそあれど不自由なく暮らしている今とは全く違う。誰にも頼れない、それは孤独で、身を裂くような寒さの中を裸足で歩くような心細さ。

「だけどね、オレはきみを守る。それが役目だから、絶対に殺させやしない」

犬の面の奥で、優しく瞳が細められる。はその瞳にしばし魅入って、何故だか分からないけれどもその柔らかさに赦されたような気がした。外の世界を知らない自分が、生きたい、と思うことは、同時に、どうにかなる、と未来を楽観視して甘えていることだと思って、望めなかった。それに、生きたい、と口に出して言えるほど、この先たった一人で、挫けずに前を向いて歩いて行ける自信もなかった。優しい瞳に捕らわれて恐怖を仕留め損ねる。一つ取り逃して声が震えた。二つ取り逃して、視界が揺れる。

「だからお前も必死で生きろというのね」
「守らせてくれる気になったかな?」
「...
「わかりました...」
「...だいじょうぶ、生きてりゃ楽しいこともあるよ」

キュウゾウはひとつ頷いて、そちらへ戻します、と言うように視線を父親へと向けた。父親は静かに、一つ涙を拭ったへとおもむろに巻物を差し出す。酷く古いそれは、しかし丁寧に扱われてきたせいか傷一つない綺麗なものだった。しゅる、と留め紐を解いて、広げられたそれに、名前を書きなさい、と父親が言う。キュウゾウは黙って、が自身の名前を記していく様を眺めながら、柄にもなく厳しいことを言った、と先程の自分の言動を振り返った。今回、自分がこの任務へ宛がわれたのは、先代火影である三代目、猿飛の指示があったからだ。もちろん依頼は届いていたので、誰かしらは派遣されていただろうが、三代目はかつての火影と縁のある大名家が息絶えようとしているのを黙って見過ごすわけにはいかないようだった。里の混乱の中、彼の指示で極僅かの暗部が動くことになり、自分が、家唯一の子どもであるの保護という一番重要な役回りを承った。しかし、おおよそ死ぬはずなどないのに、その事実を知らず勝手に死を選択していた、子供らしくない未来の見方をして、誰に強制されてもいないのに勝手に感情を切り捨てて、決まりごとがあるかのように決断し、融通が利かない目の前の少女。まるで、過去を見せつけられているような気がして、気が付いたら口を挟んでいた。そうじゃない、と正したところで、過去が変わるわけでもないのに、厳しいことを言った。

「よし、これでいい」
「父上これは」
、印の結び方は覚えているね」
「はい」
「うん。では、そろそろ発った方がいい...キュウゾウさん」
「あ、はい」
「うちの娘をどうぞ宜しくお願いします」

父親が丁寧に頭を下げるのを見て、は怒涛のように流れる時を憎らしく思った。別れるとはいえあと数刻、数分、と思っている間に、ついにその時が来てしまって心の準備がまるでできていない。嫌なことが起きると分かっていても考えることを先延ばしにしてしまうのなら、いっそ嫌なことなど起きるわけがないと思ってギリギリまで楽しいことを考えていられた方が良かったに違いない。

「お嬢さんは必ずお守りします」

キュウゾウがそう言って、立ち上がる。父親は顔を上げ、巻物をキュウゾウへ手渡すと、膝を寄せてへと向き直る。元気でな、と言う。は、うん、と頷いて、しかしもう、父親のその綺麗な紺碧を見詰めることができなかった。


「うん」
「時間は決して止まったりしない。一番幸せな時間が、一生続くなど有り得ない。万物は変化するものだ」
「うん」
「それが常と心得なさい。いつか来る変化を恐れて目を逸らすのではなく、受け入れるために、今この時を悔いなく生きろ」

ああ、きっと、父も同じだったのだ、とは思う。彼も、いつかくる別れの時を、きっと先延ばしにした。一番幸せな時間を巻き戻していた。温かで、柔らかで、愛おしい、優しさで満ちていた、あの贅沢な過去を。しかし、時は止まらないと知ってしまった。だから、怖くても悲しくても前に進まねばならない。それなら、止まらぬ時に背を押されて進むより、自ら足を踏み出して前へ進みたい。

「父様、ありがとう...」
「...ああ」
「...キュウゾウさん、宜しくお願いします」
「了解。では、そろそろ」
「気をつけてな」

父の部屋を出ると、ひんやりとした風が頬を撫ぜた。海鳴りのように木々が鳴り、轟々と音がする。低く沈んでゆく月が揺れて、は一度、瞬きをした。最後に見上げた父の瞳を思い出す。深く、澄んだ紺碧の瞳。冬の真夜中のような静けさと、誰も踏み入らない山奥に潜む湖底のような揺るぎなさ。それは光が差せば青く輝き、闇が包めば黒く煌めく、不思議な瞳。今、自分の瞳に映るものが、父親と同じものであればいい、と思う。

「良い顔になったじゃない」

を抱き上げて犬の面の向こうで笑う男に、破顔する。しっかり捕まっててちょーだいね、と言うキュウゾウの首に腕を回してしがみ付くと、ぽんぽん、と二度の背を叩いて彼は暗闇へと飛び込む。酷く恐ろしく思っていた暗闇は、しかしとても静かで不思議なものだった。月明かりさえ木々に阻まれて満足に入ってこれない暗闇は、浸っていたら心地好さに眠ってしまいそうなのに、気を許してはいけない危うさがある。不意に、轟々と音がした。ぴくりとキュウゾウの筋肉が僅かに緊張して、が目を瞠る。ああ、崩れる。ぎゅう、とキュウゾウの首に回した腕に力が入った。キュウゾウは何も言わずに駆ける速度を上げて、暗闇を疾走する。速度が上がると同時に緊張も高まって、は道中ずっと、通り過ぎていく暗闇を見詰め続けた。

「キュウゾウさん」
「んー」
「敵がきたら、私たちについた父の香ですぐに見つかりますね」
「うん」
「あとどれくらいですか?」
「だいじょうぶ、もう着くよ」

その言葉と共にキュウゾウが立ち止まり、とん、と一度の背を軽く叩く。ただ少し上がったキュウゾウの呼吸が聞こえるだけで、耳を裂く風の音もしない、急に静まり返った世界で、キュウゾウの首に回した腕を緩めて顔を前方へ向けると不意に、轟、と音がした。視線の先で、崩れていく家屋が見えた。それは、燃えた里の音だった。

「...燃えてる」
「...」

の言葉には返さずに、キュウゾウは急いで四方へと視線を巡らせる。狐の姿は見えないが、戦況がどうなったのかまるで見当が付かない。戦いには勝ったようだが、果たして被害がどれほどなのかを具体的に把握するには時間を要しそうだった。ざあ、と一陣の強い風が吹いて、キュウゾウの銀色の髪を揺らしての髪を撫ぜてゆく。キュウゾウ、とが声を挙げるので、キュウゾウは状況の把握に向けていた意識を腕の中の少女へと戻す。は黙ってキュウゾウの双眸を見詰めている。面越しでさえ、何かを見透かされてしまいそうで、キュウゾウは緩く一度瞬きをした。

「悲しいことが有っても、生きていれば良い事も有るんでしょ?」
「...うん、そうだよ」
「じゃあ、キュウゾウに良い事が沢山有るようにって、わたくし毎日、お願いしておきます」

は真っ直ぐにキュウゾウの双眸を見詰めて緩々と笑う。まるで自分の痛みを忘れてしまったかのように棚に上げて、他人の痛みに触れてしまう少女に、キュウゾウはほとんど記憶にない母親を思い出した。女の人は、痛みを引き受けることがとても上手だ。それを愛や母性と呼んでしまえば理解に容易いかもしれないが、自分の身を差し置いて、大事だと思う相手のためにその痛みを抱きしめることは、きっととても切なくて、時に何一つ報われなくて、そうしていつも、泣けるほど歯痒いに違いない。

「じゃあオレは、ちゃんに良い事が沢山有りますようにってお願いしようかな」
「やさしいね」
「きみもね」

にこり、と柔らかに笑んで、キュウゾウはを抱え直して里の中へと跳んだ。瞬間、地平線の彼方から閃光のごとく朝日が煌めく。里を照らして、二人が駆け抜けた闇を照らしていく。







落ちゆく夜光




102013