午後3時、賑やかな子どもの声のする通りを黒い犬が軽やかな足取りで駆け抜ける。たたん、たたん、と四足で軽やかに地面を蹴る音がして、風が毛並みを優しく撫ぜる。温かな陽射しが贅沢に降り注ぐ。色々な音がして、色々な匂いがする。野菜に付いた土の匂いに、果物の甘い匂い。秋の落ち葉の匂いに混じる、焼き芋の匂い。ざあ、と風が吹き抜けて、ふと、黒い犬が足を止める。猿飛と書かれた表札を出す民家の前に、一人、男が立っていた。片手をポケットに突っ込んでぼんやりと空を眺めているのを、犬は僅かに警戒するように回り込んで、様子を窺う。すると、ぼんやりとしたまま、男の双眸が黒犬へと向けられて、そうして僅かに細められる。



柔らかな声と共に風が吹いて男の銀色の髪を揺らすと、犬は鼻を鳴らしてぺたぺたと歩み寄って、伸ばされた手に鼻を擦り寄せた。わしゃわしゃとその手で頭を撫で、呆れたような溜息を零して男は犬を抱え上げる。ぱたぱたと恐らくは無意識に尻尾を揺らす犬を伏し目で眺めて、男は自分が門前に立っていた家屋の中へと足を踏み入れた。お邪魔しますと言って二階の一室へと向かうと、男は犬を床に下ろして自身はおもむろにベッドへと腰を下ろす。とたとたと犬が床に落ちた布の中に潜り込む。男が瞬きをして再びその姿を見遣れば、それは紛れもない人間の少女になって布の中から顔を覗かせていた。ふるふるとかぶりを振って男を見詰める双眸に、光が差して湖底のように青く輝く。

「...、お前ねえ」
「もう、なにようカカシ」
「いくらスタミナが有り余ってるからって、いい加減犬になるのはやめなさいよ」

もう13歳でしょ、とカカシが服を着込み終わったを片目で見遣ると、床に座り込んだはむすりとした様子で唇を尖らせる。が瞬きをする度、長い睫毛が緩く揺れる様子をしばらく黙って眺めて、カカシはもう一度溜息をついた。家が奇襲に遭い、がキュウゾウの手で木ノ葉の里に下りた日から、2年が経っていた。当初の予定通り、三代目の配慮で猿飛家に養子入りしたは姓を猿飛と改め、木ノ葉の忍者学校へ通い、1年で首席卒業し下忍になった。先祖の血を考えればそれは何ら不思議ではなかったが、それでも大名家で蝶よ花よと育ってきたお姫様が遣って退けることとしては驚きの結果だった。素質と言えば素質で、才能と言えば才能かもしれないが、三代目から彼女の重ねてきた努力を伺っているカカシにとって、やはりそれは自身の努力の結果だった。ふと意識を戻せば、いつもくるくると愛らしく表情を変える双眸が、じっとカカシの片目を見詰めている。の双眸に真っ直ぐに射られると、カカシはいつも、初めて出会った夜を思い出した。お互いに口に出しては言わないが、あの日の命を存えさせたキュウゾウが誰であるかは、には疾うに知れている事実であった。ただ、それは暗部として動いた、キュウゾウとしての仕事だ。中身が誰であったか、知ったところで口に出す必要がないことも、お互いに分かっていた。

「ねえ、だいたい急に来るなんて、どうしたの?任務は?」
「任務を手早く片付けて来たんだよ」
「今日わたしの誕生日じゃないわよ?」

不思議そうに呟いたが腕を組んで小首を傾げる。さらさらと背中から髪が滑る音がした。カカシはベッドの上で僅かに身を乗り出し膝の上で肘をつきながら、を見詰める。

「中忍昇格、おめでとう」
「あ」
「味気ないなあ」

苦笑しての頭を撫でる。心地良さそうに笑って目を細めるにカカシが笑うと、西日が差し込む窓の向こうで声がした。

ー!」
「ん?......イルカだ!はあーい!」
「あら、彼氏?」

ちょっとそれは早いんじゃないの、とカカシが再び膝に肘をついて手のひらに顎を乗せながらからかえば、はまた唇を尖らせてカカシに目を眇めてみせる。

「違うよ、ただの友達です」
「あ、そうなの」
「うん。じゃあカカシ、わたし遊んでくるね」
「はいはい、行ってらっしゃい、気をつけてね」
「はい」

よいしょ、と立ち上がって、髪を高い位置で結わえると、は行ってきますと言って部屋を後にした。しかし、カカシがその後ろ姿を見送って、さて、帰りますか、とひとりごちると、すぐにまた階段を駆け上がる音が聞こえてがひょこりと顔を出すので、カカシは今日何度目になるか分からない溜息をついた。

「忘れ物?」
「ううん、カカシ、今日、夜、暇?」
「夜?うん」
「ごはん、うちで一緒に食べましょ、お祝い」
「...、じゃあ、呼ばれようかな」
「うん!」

7時ね、と夕飯の時刻を告げて、は再度階段を駆け降りる。1階で養母を呼ぶが夕飯の献立の相談をすることを見通して、カカシは一つくすぐったそうに笑んだ。出会った時はこんなにお転婆なお姫様だとは気付きもしなかったし、こんなに早く忍の道を進んでいくとも思っていなかった。世間知らずのお嬢様が、あの日どれだけの決意と悲しみを胸に仕舞い込んだのか、それは測りようがないけれども、大したものだ。ふと、カカシは西日の差す窓へと寄って静かに眼下を見下ろす。そこでは、頭の後ろで黒髪を結わえた少年がそわそわとの登場を待っていた。ポケットに小奇麗に包まれた箱が見え隠れしているのを見る限り、彼もの中忍昇格祝いをしにきたんだろう。そういえば、忍者学校に入学して出来た友人の話を前に聞いたことがあったが、それが確かこの少年の名前だった気がする。いつもふざけて面白い有名人で、年は一つ下だけど学年は上。皆を笑わせるけど、悲しそうなひと。そう言っては悲しそうに笑った。

「なるほどね」

壁に凭れて腕を組みながらカカシがそう呟くと、丁度が家から駆けて出てくる。屈託のない笑顔で笑って、二人で並んで歩いていく様子を眺めながら、カカシはどうしたものかと天井を仰いだ。もしもが人の痛みや悲しみには敏くても、この手のことには疎いタイプだったとしたら、彼は恐らく並々ならぬ努力をせねばには気付いてさえもらえないだろう。それは同じ男として不憫に思うので助け船を出してやりたい気もするが、しかし同時に、心のどこかでは一生気付くなよとも思う。それは不思議な感覚だったが、拮抗する気持ちとは別に恋愛の一つや二つも経験する頃だという結論に落ち着いて、カカシは緩々と一つ欠伸をした。






愛しさを捨てられない




102113