急いで何かになろうと思ったことなど一度もない。そもそも、急いでなりたい何かなどなかった。しかし、ゆっくり何かになれるほど人生が長いとも思っていなかった。アパートのベランダに椅子を置いて座って、は屋根の山脈の上に浮かぶ満月を見ていた。中忍に昇格して、世話になった猿飛の家を出て2年、木の葉の里にやってきてからは4年。は先程、三代目から自身に言い渡された言葉を胸中で反芻しながら、両手で握っていたマグカップの中身を啜った。お前は今日から上忍だ。ずず、と微かな音がして、舌先を熱くて甘い液体が滑る。上忍。ふう、と息を吹いてマグカップの上から湯気を吹き飛ばす。緩々と風が吹く夜だったが、寒くはなかった。チリチリとどこかで虫の鳴く声がする。は、ああ、と力なく呻いてマグカップを胸の前に抱えたまま空を仰いだ。ごん、という音がして、椅子の背凭れに後頭部がぶつかる。瞼を閉じていても、満月の光がぼんやりと分かる。もう一度、息を吐く。急いで何かになろうと思ったことなどないのに、ゆっくり何かになれるほどの十分な人生から、自分は積極的に逃げて来たような気がしていた。現火影の庇護と多くの仲間や先生や大人のおかげで、きっと死んだ方が楽だろうと思っていた自分の予想よりも、生き残りの人生は孤独でも過酷でもなかった。しかし、想像以上の恐怖と混乱の中にいる。家族も家も失って文字通りたった一人で生きねばならない人間や大事な人を亡くした人間と出会った時に感じる酷い罪悪感や、迷惑をかけて生きられないと思うプレッシャーや、それらをひた隠して笑わねばならない苦しさや、そういったもの全てにどう対応すればいいのか分からない不安が、ずっと腹の底で渦巻いている。何が正しいのか、どうするのが一番いいのか分からないまま、回答期限がやってきては過ぎていって、振り返る間もなく、次の回答を求められる。う、と声が漏れて、咳き込むようにの体が微かに揺れた。助けて、と言って甘える相手も、環境も、もうどこにもない。教えてもらいたいことも、教わらねば上手くできないこともきっとたくさんあったに違いない。しかし、そのチャンスはもう通り過ぎた。甘えずに生きている人間もたくさん知ってしまった。時間は決して止まってくれないし、一番幸せな時間は一生続いたりしない。けれどこんな混乱、一体、どうしろというのだ。チリチリと虫が鳴いて、通り過ぎた風が頬を冷やす。ぱた、と小さな音を立てて雫が落ちる。指先を滑ってマグカップがベランダの床に落ちて、静かな夜を引き裂くように鮮やかな音を立てて割れた。



はっとして、半ば飛び起きるように目を覚ます。近くの家の風鈴が揺れて可憐な音を奏でるのを聞きながら、は逸る鼓動を落ちつけようと周囲を見回して、そうしてベッドから起き上がった。いつ寝たのか、どれくらい眠れたのかすら分からない。冷蔵庫から水を取り出して口に含む。ぴぴぴ、と毎朝決まって同じ音を響かせる時計が7時を告げている。準備をしなければ、と水を飲み込んでいつも通り洗面所へと向かい、顔を洗って歯を磨き、朝食の準備をしてお茶を注ごうとしたところで、ああ、と不意には声を洩らして一度片手に顔をうずめた。

「お、おはよう!」
「ああ、イルカ、おはよう」
「なあ、昨日変な奴に出会ったりしなかった?」
「え?」
「なんか不審者が出たらしいって聞いてさ、大丈夫だった、かなあって」
「大丈夫、何もなかったよ、イルカこそ大丈夫だったの?」
「おれは大丈夫だ!」
「あらそれは頼もしいわ」






君の雨が上がる頃に迎えに行くね

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