鮮やかに陽が差して、早くから蝉が鳴く朝、は近頃数年ぶりに戻ってきた、義兄であるアスマの声で目を覚ました。アスマは申し訳なさそうにベッド脇に屈みこんで寝惚けるの頭をわしゃわしゃと撫でる。ふと香った匂いに気付くと、の双眸がアスマを捉える。朝日を受けて深い紺碧に煌めくその双眸には、心を抉り取るような無垢さが潜んでいた。

「兄さん」
「起こしてすまん」
「怪我してるじゃない」

ああ、と自分の両手を軽く広げて、アスマは自身の体へ視線を落とした。はむくりとベッドの上に起き上がって、手際良く着替えを済ませていく。ばさばさと衣擦れの音が、静かな部屋にやけに響く。襟から髪を出しながら、裸足で洗面台へと向かうと、腰を上げながらアスマがようやく呟いた。

「カカシがな、少し寝込みそうだ」
「...言うの、遅いです」

洗面所と廊下を区切る戸口に手を掛けて振り返ると、は逆光の中しばしアスマを見詰めて、そう言った。それきり、ぱたん、と戸を閉めてしまう。ああ、とアスマは一つ溜息をついて眉間を揉む。じわじわ、みんみんと外で蝉が鳴く声を聞きながら、どう言えば良かったのかと胸中で呟いた。カチ、カチと蝉の鳴き声の合間に時計の針が時間を刻む。アスマはもう一度溜息をついて、ベッドが寄せられた壁の窓を開けた。一層強い日差しと蝉の声が部屋を満たしていく。が木の葉の里にやってきてから、6年が経っていた。アスマも、カカシも、も、上忍として木の葉の里で生きている。加えて、暗部に所属するカカシとは、見事な連携を見せると評判になり始めていた。チャクラ量の多いが、写輪眼を使うカカシのサポートに回る戦法は確かに効率が良かった。もちろん、選択肢としてあるに越したことはないが、しかし、他の人間と組んだ時に活かせない戦法は汎用性がない。カカシが寝込むのは、これが初めてのことではなかった。

「兄さん」
「ん?」
「それ、兄さんも、病院で手当てしてもらったほうがいいわよ」
「なんだ、おまえの医療忍術で治してくれるかと思ったんだが」
「病院がなかったら、真っ先に治してあげるわ」

準備を済ませて洗面所から出てきたは、財布を鞄に押し込みながら、僅かに呆れた様子でアスマを見遣る。そうして紅を刷いた唇で笑んだ。大きくなった、とアスマはその成長ぶりを改めて感心する。木の葉に来た時は11歳のほんの子供だった少女が、今は子どもとも大人とも言えない年齢になっているとは、時間が経つのは早いものだ。は白いシャツにショートパンツというラフな格好で玄関へと向かう。休日だったのか、とそこでようやく気が付いて、アスマは早朝に起こしたことを改めて申し訳なく思った。

「報せてくれなかったら、怒ってたと思うよ」
「な」
「行きましょう」

悪戯な子どものように笑って、は玄関先で変化する。これか、とカカシから話に聞いていたアスマは僅かに口許を緩めながら、玄関に向かう自分を鼻先でぐいぐい押す黒い犬を、先程ののように呆れた様子で見返してやった。

風鈴の音や、朝食の準備のために起き始めた母親たちの音を聞きながら、まだ早朝の、爽やかな陽射しのもとを歩いて病院へ向かうと、周りに人がいないことを確認しては変化を解いた。何か言いたそうな目を向けるだけで、煙草を銜えた口許を動かそうとしないアスマに見ない振りをする。院内に足を踏み入れると、薬剤の独特な臭いがした。何度嗅いでも慣れない臭いだ。が一つ息を吐いてアスマを見遣ると、アスマはに目当ての病室を教えて、そのまま治療を受けるつもりらしかった。どうやら既に訪れた病室に、何の変化もないのに日に二度も通うほどカカシとアスマは深い仲ではないようだと言うと、アスマは茶化すなと頭を小突いて、早く行って来い、と笑った。まだ静かな白い廊下を進んで、教わった部屋の扉を開ける。ベッドを囲う白いカーテンは閉まっていない。は静かに窓辺に向かい、病室の窓を開けてベッドを振り返った。静かにしていたって、別に目を覚ますわけでもないのに、と自らの行動を自嘲すると、心地の良い風が薄い紗のカーテンを柔らかに揺らして部屋へと滑り込む。ベッドの上で死んだように眠る男をしばらくの間じっと見守りながら、はふと、この人間がいなくなってしまったらどうしようかと考えた。しかし、いくら考えても何の答えも浮かばなくて、そのうち恐ろしくなって考えることをやめた。生まれ育った場所も、親も亡くして、なお、たった一人の男を失うことの想像がまるでつかない。それはにとって、新たな、そして今までよりもさらに大きな、恐怖であり脅威であった。カカシ、とほとんど唇の動きだけで呟いて、はベッドの傍に歩み寄る。普段は額当てで隠されたその左目を縦断するように走る傷跡を指先でそっと追う。改めて見ると出会った時とはまるで違う体格だと思ったが、今年で20歳になるのだから、それも当然のことだった。指先に伝う、自分とは違う温度の肌が、酷く心を落ち着けてくれる。病院へ来るまでの間に、早ければ明日にでも目を覚ますだろう、と告げたアスマの言葉を思い出す。少し休むには良い機会ね、と一人ごちて笑うの声音は、自分でも驚くほどに寂しいものだった。腰を屈めて、彼を酷使する左目の上に唇を落とすと、はそっと病室を後にした。ひとつ秘密を抱えてしまったような気がして、心臓がどきどきした。




その日、朝食をアスマと共に済ませて別れたあとの予定は、一つもないはずだった。もともと休日は存分にだらけたい、もとい気の向くまま動けるように予定を作りたくないと思うが予定を入れることはそうそうない。しかしこの日、はカカシが寝込むと必ず顔を見にやってくるガイと、そこにタイミングを重ねてしまったシカクと3人で昼食を食べ、お茶をするのに丁度良い時間にイルカの訪問を受けた。ラーメンを食べに行こうと言う彼の要望を丁重に断って、代わりに団子で落ち着いてもらうことにして、外へ出る。朝と違って、照り付けるような陽射しが熱い。たらたらと歩きながら、何とは無しにイルカに訪問の理由を尋ねると、彼は少し立ち止まって、照れ臭そうに自身の昇格を口にする。途端、は歓声を上げて道の真ん中でイルカに抱きついたので、言う場所を間違ったかもしれない、とイルカはを落ちつけながら深く反省をした。目的の団子屋で出来たての団子を食べながら、互いの近況を伝え合う。こう言う時、決まって二人は溜息をつきながら、自分たちも年を取った、と大真面目にふざけ合って、過去を懐かしんだ。お祝いだといくら言っても払うことを譲らなかった会計を大人しくイルカに任せて店を出た後、二人でつらつらと里の中を歩く。しばらく行くと、幼い頃に良く遊んだ公園に差しかかる。熱い日差しも木々に遮られてしまえば心地好いものだなと思って、風の匂いを嗅ぐと、不意にイルカがを呼びとめた。足を止めた木陰の下で、イルカの目はいつになく真剣だった。イルカの視線を真正面から受け止めながら、はふと、今朝触れた傷のことを思い出した。目の前の彼にも、両頬を横断する傷がある。消えない傷の奥にあるのは、多くの場合、その人が背負ってきた過去だ。目の前の少年は、その傷の奥に今は亡き両親との思い出を抱えている。しかし、今朝触れた傷の奥に何があるのかを、は知らなかった。知りたい、と思うどころか、その過去に触れるのが恐ろしくて目を逸し続けてきた自分に初めて気がついて、ずくりと心臓が痛む。

「俺、が好きだ」

すぐ頭上で、風に揺れる梢の音がする。じわじわと蝉が鳴いて、は一度瞬きをする。それは突然敵の襲撃を受けたって敵わないくらいの衝撃だった。咄嗟に返す言葉がなくて、えっと、と言えば、イルカはとても綺麗な双眸でを見詰めて、ずっと前から、と口にした。確かに、も幼い頃からイルカのことはとても大切に思ってきた。何にだって一生懸命で、我慢強くて、そして少しだけ寂しくて、とても優しい人。それは今も昔も、そしてきっとこれからも、変わったりしないだろう。そんな人に、長いこと想われてきたことは、とても幸せなことに思える。は何だかとても嬉しい気持ちがした。しかし、脳裏には、同時に今朝傷に触れた男が過る。突然過ぎて、気持ちの整理がつかない、と思った。

「...ごめんなさい、少し考えさせて」
「......分かった」

深く問い詰めもせず、ただ風に髪を靡かせてイルカは真摯に頷いた。少し考えた末に出す答えが、果たして彼の望むものなのか、それとも傷付けるものなのか、今のにも分からなかった。答えが出たら会いに行く、と約束をして、は僅かの緊張を残したまま去っていくイルカを見送ると、そっと木ノ葉病院へと足を向けて歩き出した。先ほど、先延ばしにした答えを考える。イルカが好きかどうかと言われると、はやはりイルカのことが好きだった。しかし、カカシのことも好きだと思った。それも、とても。ただ、イルカの過去には触れられても、カカシのそれには恐ろしくて触れられないことが、大きな違いだった。聞いたこともないのに、きっと受け止めきれない、と避けるのが本能のように目を逸らしている。好きだと思う相手のことは、喜びも悲しみも過去も未来もすべて受け入れてあげたいと思うけれど、カカシの過去は、知りたくない、と思った。そうしてには、それが決定的な答えのような気がした。ぴたりと足を止めて踵を返す。ゆっくりと歩いてきた道を走って戻ると、暑い夏の風が髪を揺らして首筋を撫でていった。









願いが泡沫のように幼くて、私は人魚になれなくて
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