予定より早く任務を終えて空いた時間で、アパートに戻ってシャワーを浴び、ベランダの手摺に寄りかかりながらぼんやりと里を眺める。何もない時間を、コーヒーと共にベランダで過ごすことがいつの間にか染み付いたの習慣の一つだった。指先でマグカップを撫でながら、はカップと共に置かれていたメモのことを思い出す。なぜマグカップを割ってしまったことを知っていたのかということについては未だに謎だけれども、しかしそれがにとってのカカシだった。いつも、どこで聞きつけるのか、決まって彼は助けが必要な時には支えてくれていた。この里に来た時から、ずっと変わらず傍にいてくれる、自分の命の恩人。小さく笑って、は部屋の中へと踵を返す。マグカップをシンクの中に置くと、はそのまま玄関へと足を向けた。忍者学校帰りの子どもたちと、夕飯の買い物をする母親たちの間を縫って、爽やかな風が吹く里を歩くのは心地が良い。程なくして見えた木ノ葉病院の玄関をくぐって、病室へと向かう。階段を上がって、病室のドアを開けると、まるで自分が来るのを待っていたかのように佇む男の姿が見えた。

「火影さま」
「朝早くに来たと聞いたから、もう来ないかと思っていたよ」

人生の酸いも甘いも知り尽くした末に人を愛すことを決めたような、そんな微笑み方をする、にとってとても大切な人間に微笑むと、は病室に置かれた丸い椅子をベッドの横につけてそこへ座った。火影は両手を腰の後ろで組んで、の横に並んで朝と変わらず瞼を伏せて眠る男の顔を覗きこむ。

「ねえ、火影さま」
「ん?」
「どうしてカカシだったの?」

夕陽が差しこんで、風が流れる病室で、微かな寝息を立てて眠る男の銀色の髪を指先で梳く。はゆるりと瞬きをして、眠るカカシの姿を眺める。傷があっても、綺麗な顔だ、と思った。

「...里に来た頃の話をするのは、はじめてじゃな」

火影の顔を見上げて徐に立ち上がると、はベッドの縁へと腰掛けて、空いた椅子へと火影を促す。老いぼれ扱いしてくれるな、と言って笑いながら、しかし火影である猿飛ヒルゼンは娘の好意を受け取って椅子へと腰を下ろした。

「里にきてすぐ、忍になりたい、と言い出したことは覚えているか?」
「うん」
「...あの時、誰もそれが良いことだとは思っていなかった」

自分にも、里の危機の最中に救い出した大名家の生き残りをわざわざ戦地にやって死の危険に晒すなんて、という意見が間違っているようには思えなかった、と猿飛は深い思い出に浸された声で言う。

「だが、ワシはお前の気持ちも汲んでやりたかった。だから、まずは素質を見極めようという話に落ちつけた」

相槌を打つように頷きながら、は鼻先でだけふむと微かに音を漏らして、確かにそうだった、と当時を振り返る。来たばかりの頃はどこの家庭でもそうするのが当然なのだろうと思っていたけれど、忍者学校に通い始めてすぐにそうではないらしいことを知って驚いた記憶がある。

「優秀で、信頼のおける人間をつけるつもりだった。それもできれば、同性の方が良いと思っていた」
「え」
「素質を見極めるのが目的だったが、例えもし素質がなかったとしても、その先もお前の支えになる存在になれば、と思ってな」
「...そうだったの...」
「あの頃、お前は全く手のかからない子どもだったが、不安も不満も口にせず、いつも笑顔でいるお前が心配だったのだよ」

猿飛はそう言って、一度を見詰めて微笑む。

「しかし、女の適任者を考えていたワシのところにやってきた少年がいた...それがカカシだった」

ふふ、と思い出し笑いを堪え切れずに洩らして、猿飛は、懐かしむようにカカシを見遣った。目覚める気配のない、規則的な寝息が、風の音の合間に聴こえる。は丁度自分の横にある、ベッドの上に置かれたカカシの手をやんわりと握ると、口許だけで微笑んだ。

「お前に素質があることを知っていたカカシは、お前を忍にすることに反対していた」
「うそ」
「嘘ではない...一番反対していたよ。お前が上忍になった時も、暗部に入隊した時も」
「でもそんな素振り一度も」

は驚きのあまり僅かに声のトーンを上げて猿飛を見たが、しかし猿飛はまた柔らかく微笑むばかりで何も言わなかった。少しの間、病室には夏風が運んでくる微かな喧騒と温度だけが取り残されたように揺蕩う。は昏々と眠る当の本人へ困惑した視線を落とした。元気に遊ぶ子供たちの声がする中で、猿飛の優しい声が響く。

「それでも、恐らくそれが双方にとって良いと思ったワシが最終的にカカシを選んだ」
「"双方にとって"」
「そうじゃ」
「......反対していると知っていたのに?やっぱり火影さまも忍にさせたくなかった?」
「逆じゃよ...反対しているのに立候補したカカシはきっと、お前の願いを叶えたかったんだろうと思った」

猿飛の声に、は憶測が飛び交う胸中も忘れて弾かれるようにはっと顔を上げた。声にならない衝撃が、心臓を鷲掴みにする。鼻の奥がつんとして、喉が震える。、と猿飛が目を瞠って、の膝の上に置かれた右手に自分の手を重ねた。大粒の雫が次から次へと落ちる。それは猿飛が初めて見るの涙だった。忍にしたくなかった少女が忍になった時、昇格してほしくなかった忍が昇格した時、一体彼は、どんな思いで笑って祝ってくれていたのだろうか。そしてそれを知りながら、長としての決断をして見守り続けてきた養父は今までどんな思いだっただろうか。ああ、思うように見事には生きられず、周りの期待にも応えられない自分は、情けない子どもだ。しかしやはりきっと、周りの人間はそんな風に思う必要はない、と言って笑うだろう。は猿飛に久しぶりに抱きしめられながら、まるで子どものように泣きじゃくった。

「火影さま」
「うん?」
「わたし、皆を守りたい」

自分を好きだと言って笑ってくれる男の子のことも、面倒臭がりながら道を正してくれる恩師のことも、何も言わずに心配してくれる心優しい同期のことも、楽天家だが頼もしい義兄のことも、何度も何度もわたしの決意を受け入れてくれた大切な人のことも、居場所をくれた養父のことも、この里も。

「もうだれも失くしたくないよ」

それは長いこと、が誰にも言えずに潜めていた言葉だった。口にしたことにすら気付かないほど無意識に滑り出たそれに、猿飛は強く目を瞑って、一際大きく微笑んだ。あの日を助けたことも、あの日カカシを選んだことも、間違ってなどいなかった。


「はい」
「どこへ行き、何になろうとも、その気持ちを大事にしなさい」







純情のアルデバラン
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