鮮やかな花の香りに目を覚ます。煌めくような光が風を纏って差し込む部屋の天井を暫くの間眺めて、カカシはひとつ深い呼吸をした。どれくらい眠っていたのか、とぼんやりとする思考で思い返したところで、ふと、ベッドに違和感を覚えて、肘をついて半身を起こす。

「...まったく...警戒心なさすぎでしょ」

その部屋でその日最初の音を紡いで、カカシは口元を静かに緩めた。手を繋いで右腕にすがるようにしてベッドの上に眠る少女の姿をじっと見詰める。思えば自分が寝込んで目覚めた時に、彼女を最初に見ない時はなかった。恐らくベッドに座っているうちに、眠くなって眠ってしまったんだろう。変わらないな、ともう一度笑いながら、しかし傍で眠る姿に改めて少女が女として成長していることにも気付かされる。ゆっくりと上半身を起こして、開いた左手でそっとの頬にかかった髪を避けてやると、なんの予告もなく乾いた涙の跡が朝日に照らされて顕になった。カカシの指先が止まる。どこにでもいるような鳥の軽やかな鳴き声がして、風がカーテンを揺らして頬を撫でては去っていく。緩やかに雲が流れて、もう一度鳥が鳴き声を上げるまで、カカシは身動ぎ一つせず、自分の傍に眠る少女を見つめていた。ざあ、と音を立てて風が一つ吹き抜ける。目覚めに香った、鮮やかな花の香りがする。カカシは指先で少女の頬を撫でて、そうして朝日の中で眠る少女を朝日から覆うようにゆっくりと身を屈めた。






風が頬を撫ぜるのと、声を聞いたのと、どちらが先だったかは分からないが、ははっと意識を取り戻して起き上がる。そうして、ああ、と呻いて立ち眩みにきつく目を閉じた。ぎゅう、と握っていた手に力を入れて、もう一度はっとする。傍で、微かに笑う気配がした。

「...おはよう、
「カカシ!」

片膝を立ててその上で頬杖をつきながらにこりと笑うカカシを見て、は無意識に零れた笑顔で咄嗟に彼の名前を呼んだ。そして続けて驚きを示すように右手を上げて唇を開いたが、しかし一体何をどう言えばいいのか分からなくなって、結局は上げた右手をそのまま膝の上へと落とす。一つ呼吸をして、落とした視線で立ち眩みの際にはっとした原因を思い出すと、握っていた手を離して今度こそは視線を彷徨わせた。

「んー......なーんかいつもと違うんじゃない?」

少しの間、沈黙を許容していたカカシが、ん?と言っての視線を捉える。は出来うる限りの沈黙の存命を望んでカカシを見つめ返したが、しかしカカシの瞳にその意思がないことを読み取って、小さく息をついた。

「ごめん色々あって...とにかく、カカシが目を覚まして良かった」
「...どれくらい寝てた?」
「2晩よ」
「それだけ?」

驚いたように聞き返すカカシに肩を竦めて、は小さく微笑ってベッドから降りる。カカシはその反応で回復の速さの理由を悟ると、上半身をヘッドボードへ預けながら、僅かに目を細めて一つ欠伸を噛み殺すを見つめた。

「それで、色々あった話は?」

視線を逸らさないまま、核心を突く言葉を投げ掛ける。はカカシの声に、一瞬動きを止めると、瞬きをしながら軽く唇を噛んで、そうね、と言うように数度頷いた。改めて、ベッドの傍にある椅子に腰掛ける。長い話になるわけではないが、何となくちゃんと顔を見て話したい、と思った。カカシの銀色の髪が綺麗な朝日に輝いているのを綺麗だと、もう何度目になるか分からないことを思いながら、何か大きな話が来ることを予想し始めた目の前の男の瞳を見詰める。

「...気付いてると思うから、まず、涙の話からするね。これは、昨日火影さまと話して感動して出た涙よ」
「オレの寝てる病室で?」
「そう。何を話したかは、秘密」
「はあ...」
「それから」

カカシの溜息に苦笑しながら、はそこで言葉を区切る。視線をカカシから外して、少しの間沈黙すると、は静かにその視線をカカシへと戻した。左目に走る、傷跡を見詰める。指先で触れることは容易かった。唇を落とすこともできた。だからこそ、本当の意味で触れることができないことだけが、ただひとつ、酷く悲しかった。勘付いたカカシが、まさか、と言う。


「それから、わたし、恋人ができたの」

言い切って、は微笑んだ。後を追う沈黙のせいで、自分の声が酷く耳に残る。一瞬目を瞠ったのち、いつも通りに笑っておめでとう、と言うカカシを見ながら、答えを告げた時のイルカを思い出す。堪らず抱きしめて、絶対大事にする、と初めてプレゼントを貰った子どものように無邪気に笑う少年となら、全てを一緒に抱えていける。彼のすべてを受け止めて、守ってあげられる。ありがとう、といつものようにカカシの言葉に礼をして、はさて、と言って立ち上がる。そろそろ行くね、とカカシをもう一度だけ見つめた後ドアへと向かうを引き止めて、カカシは一つ瞬きをした。


「はい」
「ちゃんと幸せになるんだぞ」
「...任せて」

笑って病室を出る。白い静かな廊下を歩きながら、誰もいない階段を降りる手前で、は堪らず屈み込んだ。生まれて以来、最も気力を要した笑顔を崩した途端、何の苦労もなく涙が溢れ落ちた。涙の理由も、必要性も、まるで分からない。イルカと向き合っていくと決めたからといって、カカシとの絆が消えてしまう訳でもないのに、カカシの言葉に作り笑いで答えて部屋を出た時、は出てはいけない部屋から出てきてしまったような気がした。それでも、もうここは部屋の外だ。振り返っても、過去にくぐってきたドアが数多にあるだけで、先ほどの部屋に繋がるドアがどれかなどきっと分からないだろう。人生はそうやって常に選択肢の中からたった1つを選ぶことで、次のページへと進んでいく。そして何かが変化する時、それはたいてい痛みを伴うことをは知っていた。涙を拭って、はすっくと立ち上がる。顔を見たら喜んで笑ってくれる人が待っている。行かなくちゃ、と誰に言うでもなくそう呟いて、階段を降りるの足音が、誰も居ないホールへと響いた。








この恋に涙は必要ない
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