献身的に看病をする少年の背中を、一体もう何度見てきたのだろうか、と思いながら、カカシは呼吸の音すら立てないように、静かに病室を眺める。昏々と暮れていく夕暮れを窓の向こうに携えて、その病室は今日も静寂に飲み込まれていた。昨日も、一昨日も、その前の日も、もうずっとこの部屋は静寂に支配されている。夏の暑さが収まって、心地よい風が木々を鳴らし始めた外から、窓を跨いで一陣の風が滑り込む。ベッド脇には、相変わらず様々な物が置かれていた。定期的に替えられる花は、紅がいつも持ってくるものだ。その傍に置かれた写真入りの写真立てはアスマが、菓子折りはヤマトが置いていった。その横には、幾つかお守りと手紙が置かれている。ガイが神妙な顔で置いていったなんとかスーツという恐ろしいくらいに個性的な全身タイツは畳んで隅に置かれて、そうしてその手前にはガラス瓶一杯にキャンディが煌めいていた。それは、幼い頃に好きだったからと三代目が持ってきたものだった。腕を組んで壁に寄り掛かりながら、カカシは息を潜めて強く目を瞑る。ずっと見守ってきた命が零れ落ちてしまうような感覚も、医療班へ預けてすぐさま始まった治療で聞いた身を裂くような悲鳴も、未だに脳裏にこびりついて忘れられない。今まで、それなりに死線を潜ってきたつもりだったが、それでも豪雨のあの日、7年前と違って血の通わない人形のようなの体を抱いて里に帰還するのはどんな敵に追われるよりも恐ろしいことのように思えた。息を吐いて静かに瞼を押し上げて、室内へ繋がる扉をくぐる。振り向いた少年に、やあ、と軽く片手を上げて挨拶をすると、少年は、こんばんはと言って人好きのする笑顔を見せる。こんなやりとりが、この部屋ではもう半年も続いていた。ベッドの傍に歩み寄って、カカシは僅かに屈み込む。そうして、の名前を呼んで笑ってやることも、半年間ずっと繰り返されてきたことの一つであった。そっと、静かにベッドの傍にある椅子に腰掛ける。医者によると、もう身体的にはいつ目を覚ましてもおかしくない状態だという。その言葉を聞いた時、目の前の少年は大層喜んだそうだが、それを少年から又聞いたカカシはまだ少しかかるに違いない、と思っていた。治療中、小隊を失ったことと幻術攻撃による過度の精神負荷で錯乱したが、医療班に鎮静剤で宥められて以来、そのままぷつりと糸が切れたように眠り続けていることを、目の前のの恋人であるイルカは知らなかった。突然の報せに酷く憔悴していたのに加え、他の暗部任務同様、内容の一切の開示は固く禁止されているため詳細は知らされない。知っていることと知らないこと、一体どちらが酷だろうかとカカシは時々居た堪れない気持ちになった。

「カカシさん」

ん、と不意に夜の静寂を破って掛けられた声に視線を上げる。イルカは病室の窓を閉めに向かったまま窓辺に立ち止まって、酷く思いつめた顔をしてカカシを見据えている。その顔を見ながら、看病疲れとか言い出したらどうしようとハラハラしつつ次の言葉を待つと、少年は漆黒色の睫毛を伏せて静かに声を押し出した。

「...彼女の傍にいてもらえませんか」
「.........どういう意味かなそれは」

瞬き一つの後に、鮮やかな夜の静寂を湛えたカカシの瞳がゆっくりと少年を捉えて、病室は再び沈黙に包まれる。イルカは何かを言いかけて開いた口を一度噤んで思案したが、しばしそれを沈黙に浸すと、意を決したようにもう一度カカシの目を正面から見据え直した。

「俺じゃだめなんだ」
「......イルカくん...彼女の目が覚めなくて不安なのは解るが...の恋人は君だろ?なら、君が支えてやるべきだ」

カカシにとって、イルカの視線を受け止めて告げたその言葉は紛れも無い本心だった。目の前で深々と眠るの気持ちまでは分からないが、しかし目の前の少年は間違いなくのことを好いている。自分の気持ちをあれこれ難癖付けて曲げる必要はないし、かつて打ち明けた彼の気持ちにが応えているのだから、それを一人で諦めて投げてしまう勝手はすべきではない。大丈夫だよ、と言ってカカシは笑んだ。しかし、それを追いかける声は生まれない。緩々と夜の闇が、再び静寂で満ち満ちた海底のような部屋へ忍び込んでくる。カカシが手を伸ばしてサイドテーブルに置かれたランプを付ける。窓辺に立ち尽くしたまま、その明かりを見ながらイルカは、そうじゃない、と小さな声で呟いた。いい加減しつこい、とカカシはイルカに視線をやって一つ溜息を落としたが、不意にその溜息を追うように女の声が一つ夜の静寂の中に鮮やかに散って、目を瞠る。、と咄嗟に名前を呼んで椅子から立ち上がると、ぱた、と世界の果てのような静けさを揺らしての睫毛の合間から透明な雫が落ちた。もうやめて、とか細く掠れた声が彗星のように尾を引いて消えていく。イルカが窓辺からベッド横へと駆け寄ってくる。意識があるわけではないなとカカシはその音に耳を澄ませながら了すると、の手を掴まえて、そっと握った。途端に、あの豪雨の日が見事な鮮やかさで蘇る。

...そろそろ帰っておいで」

容赦なく心臓に噛み付く悪夢が寄越してくる酷い痛みに耐えながら、カカシは目を細めて音もなくとても柔らかに笑んだ。ゆっくりと、しかし確かにを落ち着けてゆくカカシの声はとても心地好い響きで、彼女の傍から海の底のような夜の静寂を遠ざける。閉めそびれた窓から入る夜風が、漣のように寄せては返す。自分じゃ駄目だと言った理由が今目の前にあると、この大人ぶった男が気付かないことが、イルカは心底腹立たしかった。自分が彼女を好きな気持ちは、それを初めて意識した時からずっと、変わってなどいない。それでも、世界は変わっていくんだと知った。自分たちは色々なことを経験して大人になるし、大人になれば見える景色も変わっていく。見えなかった選択肢も見えてくる。好きだと声を大にして言うばかりが、人を愛する方法ではない。隣にいることで、声を大にして好きだと言ったことで、好きな人の心を見透かしてしまったのが、それを知る為のものであったなら、知る切欠が彼女でよかったとイルカは心底そう思う。好きな気持ちを諦めるんじゃない。その形が、流れる時間と一緒に変わるだけだ。

「...カカシさん」
「大丈夫だよ、もう落ち着いた」
が魘されるのはこれが初めてじゃないんだ」
「...」
「でも、が医者の処置なしで落ち着いたのはこれが初めてです」
「...だからあんなことを」

なるほど、とカカシは言った。しかし、それ以上は何一つ言葉が生まれない。寄せては返す漣がカーテンを揺らす、世界の果てのような静かな部屋で、ベッドを挟んで向かいに立つ少年の瞳はいつか写真で見た銀河のように煌めいていた。ああ、諦めるなんて、きっとこの少年は夢にも思っていなかった。カカシはイルカから視線を外して、ようやく落ち着いたを見詰める。まず、少年がどうしたいかはよく分かったが、だからといってどうするんだ、と思った。そして次に、恋愛云々は目の前で眠る女の子が目覚めてから自分で決めることだ、と思った。しかし、宇宙の果てで煌めく光のように真っ直ぐな少年の瞳が、お前の気持ちはどうなんだ、と聞いてくる。カカシは一つ、ゆるりと瞬きをした。一番になりたいなんて思ったことはなかった、と殆ど初めて真正面から自分の気持ちに向き合って、カカシは胸中でだけそう呟いた。離したくない、と思うようになるだなんてそれこそ夢にも思っていなかった。最初はただ、痛みを堪えて、良い事があるように毎日願う、と言った少女を、守りたかっただけだ。やさしいね、と言った優しい少女を、引き取られた恩と責任感ゆえの覚悟なんかで忍になどさせたくなかったが、それでもそれが彼女の願いなら叶えたいと思って指南役を望んだ。作り笑顔や隠れて落とす涙が彼女なりの心を守る方法なら、幾らでも知らない振りをした。しかし、あの日豪雨の中で、過去については何も知らないはずの彼女が自分のことを気遣いながら死の淵へと迷い込んだ時、彼女がひた隠していた本心と目が合って、ああ自分は手にもせず失うのか、と酷く後悔したことも確かだった。

「ま、それでも...どうするか決めるのはでしょ」
「な...カカシさんも分かってるだろ、彼女だって本当は!」
「病人の前で騒ぐなよ」

カカシは酷く冴え冴えとした瞳で、気が高ぶって声のトーンが上がるイルカを牽制する。ざあ、と木々が夜風に黒い影を踊らせて、ちらちらと月明かりを揺らす。イルカはぐっと唇を噛んでカカシを睨み返した。答えが出ている目をしているくせに、と言う酷く純粋で真っ直ぐな双眸と相対して、カカシは銀色の睫毛に縁取られた瞼を伏せる。つい先ごろまでは深い海の底のような静寂に包まれていた部屋が、いつの間にか、未開の森のように何が飛び出してくるか分からない静けさを孕んでいた。緩々と、夜風が頬を撫でる。大きく息を吸ってそっと沈黙を破ると、カカシはそれをそのまま溜息にして吐き出した。

「あのな...オレはを危険から守るためなら何でもやるが、彼女の代わりに答えを見つけてあげるほどの過保護じゃない」
「...なんだよそれ...」
「...君がそうしたように、も自分で見つけるべきだと言ったんだ。オレの答えは彼女の答えじゃないんだよ」

君のもね、と言って、普段通りの感情の読めない目でイルカを一瞥するとカカシは椅子から立ち上がる。黙って佇むイルカの横を通って、開いたままの窓を閉めると、ただでさえ静かな室内がさらなる無音に浸される。窮屈だった。

「さて...オレは帰るよ...君もそろそろ帰りなさい」

ガラガラと扉の開く音が夜の病室に響く。振り返りざまに見遣った室内には、やはり相変わらず同じ場所に佇むイルカがいた。難儀な子だなと病院の正面玄関へと向かいながら溜息を吐いて、彼女だって本当は、と突きつけてきた少年に、知ってるよ、とカカシは胸中でだけ言葉を返す。自分の気持ちも、彼女の気持ちも知っている。しかし彼女が自ら望んで選んだ道なら、自分はそれを見守るだけだ。命を落とすようなことでなければ、一々口を挟んでやる必要はない。一度きりの人生だ。存分に間違って、存分に転んで、存分に泣いて、存分に笑って、思うように生きればいい。もうほとんど人のいない正面玄関を抜ける。ざあ、と暗闇を夜風が駆けていくのを見送って一歩を踏み出したカカシは、一度も振り返ることなく病院を後にした。








ブルービードロ
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