半年間の昏睡から目を覚ましたがその感覚を取り戻すまでには、だいぶ時間が必要だった。とはいえ冬を越し、春がやってくる頃には、は殆ど以前と同じ精彩さを見せるまでに回復し、任務に駆けまわるようになっていた。退院した後から、半同棲のような頻度でのアパートへとやってきては様子を見守ってきたカカシは、そんな彼女の回復を喜びつつも、自分のそれと比較しても引けをとらない激務と呼ぶに相応しい彼女のスケジュールにはしばしば頭を悩ませた。そうして傍からは不死鳥の如く蘇ったかのように見える彼女が、色々な羨望や熱い視線を受け始めていることには、更に頭を抱えていた。知人らの間では恋仲になったことでやんややんやの喝采を浴びせられ気恥ずかしい思いをするし、はカカシの前で未だに犬へと変化する。困った、とカカシはソファの背凭れに両腕を置いて天井を仰いだ。が羨望や熱い視線を受けていることに関しては、苦言を呈したところでどうしようもない。それは、木ノ葉の白い牙と謳われた忍の息子で、写輪眼のカカシ、とやはり賛美され羨望を集めている自分自身が一番良く分かっている。問題は、そういった羨望や熱い視線よりも、の激務ぶりと、そうして自分に寄ってくるのが犬だということだ。避けられている、それがカカシの抱える一番の問題だった。どうしようか、と息を吐いて目を伏せる。すると、目を瞑って悩んでいるうちにするすると睡魔が寄ってきて、カカシの意識は静寂の中で眠りへと沈んでいった。

がシャワーを浴びて室内に戻ると、カカシはソファの上で微かな寝息を立てていた。天才忍者と呼ばれ、あらゆる賛辞を我が物にする男だ。疲れているんだろう。は、まるで任務の最中のように細心の注意を払って向かいのソファに膝を抱えて座る。じっと、普段は口布と額当てで隠されて見ることの叶わないカカシの顔を見詰めると、否応なしに鼓動が逸ってそわそわした。どうやったらそれが落ち着くようになるのかは、にはさっぱり分からなかったが、しかしそれが、どういうことなのかは分かっていた。他の人間には起こらない、特別な感情。ここ最近は、それを抱えたままカカシに近付くとおかしくなりそうで、その気まずさからはカカシと一定の距離を置いていた。しかし、いつまでも逃げてはいられない。それはもう過去の経験から重々承知している。ああ、と微かに呻いて抱えた膝の上で顔を伏せると、目の前の男が目覚める気配がして、はもう一度呻いた。犬に、なりそびれた。

「...
「...なによ...」
「いや...」
「...」
「んー......やっぱ一つ聞きたいんだけど...」

ゆらゆらと夜の静寂が揺蕩う。カカシはゆっくりとソファから腰を上げてテーブルを回りこむと、の座るソファへとそっと腰を下ろした。

「どーも最近オレのこと避けてない?」

ねえ、と困ったように尋ねるカカシの声音を聞きながら、は顔を伏せたまま、不意に沸々と湧き上がる怒りに似た感情に困り果てていた。いつも冷静でマイペース。それはカカシの賞賛される素養の一つであったが、時々酷くの不安を煽った。カカシを見るたび心臓が逸るようになった自分と違って、年上の彼にとっては自分はいつまでも、守るべき少女のままなのかもしれない、と思うと、何だか腹が立つと同時に少し悔しくて、遣る瀬ない。はそっと顔を上げる。呑気に聞いてくる目の前の男に暴言の一つでも吐いてやろうと思ったが、しかしカカシの本当に困ったような顔を見ると一気にそんな気も失せてしまって、結局は暴言も吐かずにそっと伸ばした指先でカカシの左目の傷を撫でた。知るのが怖くて逃げてきた傷跡のことは、未だに聞けていない。見つめてくる右目をほんの少しの間だけ見つめ返して、は瞬きとともに目を伏せて指先を離す。

「避けてないわ...」
「その...やっぱり、イルカくんの方が良かった?年も近いし...」

それは唐突な問いかけだった。もし、そう言うカカシがいつもの様に飄々としていたなら、間違いなくありったけの暴言を吐いて部屋から追い出していたに違いない。しかし、ふざけるなと言いたくなるほどの苛立ちとともに咄嗟に見上げたカカシの目は、何の感情も読ませないそれだ。だからはソファの上にどんとカカシを突き倒して襟元を掴むだけで、暴言を吐いて追い出すことはしなかった。襟元を掴みながら、もともと、自分が避けていたことが一因でもある、とは胸中で必死に冷静さを手繰り寄せる。するりとの艶やかな髪が肩から滑り落ちる。花の香りが揺れる。風が一つ吹き抜けて木立が揺れる合間、二人はソファの上でびくともしなかった。馬乗りになって今にも泣きそうなを見つめながら、こうして感情に任せてぶつかってくるのは初めてだなとカカシは僅かに生まれる驚きを押しつぶすように瞬きをした。例えば救ってもらった恩に報いたくて、仲間を守りたくて、好かれた男を悲しませたくなくて、失う恐怖から逃げたくて、結局彼女はいくらやんちゃをしたって泣いたっていつも明るく聞き分けの良い良家のお嬢様だった。他人のために笑ってばかりの彼女が心配だと、8年前、素質を見極める役割を引き受けた際に猿飛が言った言葉を思い出す。

「何でそうなるのよ...馬鹿じゃないの、わたしがどれだけ」

はカカシの襟元を掴んだまま、涙を堪えるように一度口を噤む。

「どれだけあなたのこと好きだと思ってるのよ」
「...え...」
「え、じゃないわよ、人の気も知らないで...!」

カカシがを見つめたままその言葉に唖然として何も言えずにいる間に、の瞳から零れた滴がカカシの頬へと落ちる。はっとして手を伸ばすと、カカシはすんでのところで何処かへ行こうとするの腕を掴んで引き留めることに間に合った。振り返ったの責めるような双眸を素直に受け入れながら、カカシは自身の上のへと空いた手を伸ばす。

「...悪かった...すまん」

謝罪しながら、カカシは滑るように撫でる自分の手に頬を委ねてが静かに瞬きをするのを見ていた。涙ぐんで朱に染まる目元が心を揺らして仕様がない。ただでさえ、久しぶりに触れるの身体に自分を抑えるのが難しいのに、と密かに溜息を吐きながらカカシは僅かに眉尻を下げて苦笑する。

「オレもお前のことに関してはあんまり余裕がなくて」
「...手が掛かる子どもだと、思ってる?」

闇夜を切り取るようにはっきりと響いた声に、はたとカカシの動きが止まる。そういうことじゃない、と言いかけての双眸を見上げると、それが酷く不安に揺れていたので、ついにカカシは全ての事に合点がいって口を噤んだ。頬に宛がう手をそっと滑らせて、の白く細い首筋を撫でる。鮮やかな反応が春の夜の中に生まれる。

「お前こそ人の気も知らないでよく言うね」
「あ」
「ま...確かにお前はオレにとってずっと守るべき女の子だけど...でももう子どもだなんて思ってないよ」

カカシが身を起こしての上に覆い被さる。片手を捕まえられて、は真正面から双眸を覗き込んでくるカカシと向き合った。急に逸り始める鼓動が部屋中に筒抜けになってしまっているような恥ずかしさに僅かに頬が熱を持つ。しかし、それを冷ます方法も止める方法もの知識の中にはない。カカシはソファの上に組み敷いたの頬をもう一度撫でながら微かに上気して潤むの双眸をそっと見つめた。

「どうしたい?」
「......わ、かんない」
「こら、これでもオレも色々我慢して...」

不意に呼吸が奪われて、カカシの言葉は完結されないまま沈黙の底へと沈んでいく。驚いたのも一瞬、続きを紡ぐことなどすぐに放棄して、が寄せる唇を受け止めながらカカシが組み敷いたの背中に腕を回すと、は自由になった両腕をカカシの首へと絡めた。ぐいとカカシがを力強く抱き上げ、もう一度ソファに向かい合う形で座った二人は、そのまま何度も唇を食み合ったが、しばらくしてどちらがそうしたかも分からないうちに唇を離すと、上がる息のままで互いの瞳を見つめ合う。いつか屋上でした時と同じ、劇薬のような底なしの欲望と、逸る自分の鼓動と、熱を持ち始めるカカシの身体がを恐怖へと追い立てる。この先へ行ったら一体どうなってしまうんだろう、と殆どコントロールできない状況にが怖気付くと、それに気付いたカカシが一つ優しく微笑んだ。低く掠れた声が、大丈夫、と言う。その優しく微笑う顔も、少し冷たい指先も、柔らかく光る銀の髪も、低く穏やかな声も、鍛えられた体も、すべてがの心臓に触れてくる。一度は黙ったものの、カカシがを抱き上げてソファを離れ、寝室のベッドにを下ろすと、は咄嗟に、待って、と言った。一つ口付けを交わして、カカシは再びと視線を合わせる。熱と不安に浮かされるの双眸をカカシはとても愛しい、と思った。

「待たない」
「えっ、ちょ...」
「...待ってどうする?また明日からオレのこと避けるの?」

カカシはをベッドの上に組み敷きながら、の熱い首筋に唇を落とし、鎖骨を滑らせて肩を食む。は呻くような溜息をそっと腹から押し出して、カカシの問いかけに言葉を探す。

「...それは......」
「やだよ、オレ」
「......」
「...

カカシはの頬を両手で包んで、答えに窮して逸らされる視線を捉えると、静かに笑んだ。もはや目に映るの全てがカカシの欲望を刺激する。

「...もうそろそろオレにお前の全部を教えてちょうだいよ」

は緊張に逸る心臓と熱い身体のまま、カカシの瞳に見つめられてその優しい音を聞く。不意に、少し冷たいカカシの指先が目元を撫でる。気付かぬ間に生まれた涙を払ったのだと気がついて、は緩々と笑った。そっと、カカシの手に自分の手を重ねて頬を寄せる。この里に来てから8年間、ずっと、どんな時も守ってくれた男に、不安ごと全部委ねてしまおう、と思った。

「うん...わたしにも教えて、あなたのこと」

の赤い唇からその言葉が零れ落ちると、カカシはとても優しく目を細めながら笑んで唇を落とす。止め難いその行為の合間に、カカシの手のひらが這うように衣服の下に滑りこんで肌を撫でると、の吐息が部屋に響いて、後を春の温い闇が追いかける。その夜、涙を零す度に余裕が無さそうな顔をしながら大丈夫かと聞いてきては、返ってくる答えにへらりと微笑う目の前の男を、何より愛しいとは思った。









オリオンのかんむり
110513